第十二章 母の言えなかったこと
八月に入った。
道後の夏は、暑さが体にまとわりつく。朝から日差しが強く、石畳が熱を持って、夕方になっても気温が下がらない。宿の仕事は変わらず続いているが、夏の繁忙期で宿泊客の数が増えていた。おばあちゃんと二人で動いていると、昼過ぎには体が重くなる。それでも夜には眠れるから、翌朝にはまた動ける。そのサイクルが、今のわたしの日常だった。
実家への帰りは、週に三度か四度になっていた。
宿に泊まり込むわけでも、完全に実家暮らしに戻るわけでもない。どちらにも少しずつ足をおいている曖昧な状態は変わっていないが、その曖昧さをそれほど苦にしなくなっていた。どちらにもいていい、という感覚が、少しずつ育っていた。
実家では、予定の一か月を過ぎて「そろそろ、次のこと考えた方がいいんじゃないか」と言われたあの夜から、お父さんとの会話が少しだけぎこちなかった。
何かが大きく変わったわけではない。食事の時に短い会話をして、テレビを見て、おやすみを言う。ただ、次のこと、という言葉が出そうになるたびに、互いに少しだけ黙るようになった。
お母さんと二人きりになったのは、お盆前の平日だった。
お父さんが仕事で、わたしが夕方に実家へ帰ると、台所でお母さんが一人で夕食を作っていた。いつもより静かな家の中で、二人分の食事を準備している背中があった。
「手伝う」と言うと、「じゃあ卵焼いて」と返ってきた。
二人で並んで台所に立つのは、久しぶりだった。子どもの頃はよくこうしていたが、高校生になる頃から減って、大学へ出てからはほとんどなかった。
しばらく、料理の音だけがした。
油が跳ねる音、包丁が板を叩く音、換気扇の回る音。その音の中に、二人の沈黙があった。気まずいわけではなかった。ただ、何か言おうとして、言い方が見つからない感じが、台所の空気にあった。
「宿の方、慣れてきた?」
お母さんが先に口を開いた。
「慣れてきた。おばあちゃんがよくしてくれるから」
「そう。お母さんも心配してたけど、おばあちゃんなら大丈夫だと思って」
「大丈夫だよ」
「体は?」
「大丈夫」
また短くなった。大丈夫、という言葉を重ねているうちに、それ以外の言葉が出にくくなっていく。
卵焼きを仕上げて皿に移した。形が少し歪んだ。おばあちゃんのように、きれいに巻けない。
「由良、あのね」
お母さんがまた口を開いた。今度は少し声の調子が違った。
「うん」
「東京でのこと、もっと早く気づいてあげられればよかったって、ずっと思ってる」
包丁を持つ手が、一瞬止まった。
「お母さんは気づかなかったわけじゃないの。なんか変だな、って思ってた。でも、どう聞けばいいか分からなくて。聞いて、傷つけたら嫌だと思って。由良、昔から強い子だったから、大丈夫だろうって思いたかったのもあって」
お母さんの声は、いつもの遠回しな話し方と少し違った。言い訳ではなく、ちゃんと本人が言葉を選んでいる感じがした。
「大丈夫だろうって思いたかった」
わたしはその言葉を繰り返した。
「そう。お母さんが不安になりたくなかっただけかもしれない。由良のためより、自分のために見ないようにしてたのかも」
珍しかった。お母さんがそういうことを言うのは、珍しかった。遠回しに優しくする人だと思っていた。でも今夜は、遠回しじゃない場所から話していた。
「お母さん、わたしに気を遣いすぎてたと思う。元気? って聞いてくれるのは分かるんだけど、元気じゃないって言いにくくて」
「うん、そうだったね」
お母さんはあっさり認めた。
「分かってた。でも、じゃあどう聞けばよかったのか、今でも分からない。由良が何かを言いやすい聞き方って、お母さんには難しくて」
「難しいよ、そんなの」
「でも、おばあちゃんはできるじゃない」
わたしは少し笑った。
「おばあちゃんは、聞かないの。聞かないから、言いやすい」
「聞かない方が言いやすいの?」
「聞かれると、ちゃんとした答えを用意しないといけない気がして。でも聞かれないと、言いたいときに言えばいいって思えて」
お母さんはしばらく黙って、それからため息をついた。ため息というより、長い息を吐いた、という感じだった。
「難しいね」
お母さんが、湯飲みを見つめたまま言った。
「難しいよ」
「お母さん、由良に似てるのかもしれない。気を遣いすぎて、かえって遠くなるところ」
似てる。その言葉が、思いがけなく温かかった。お母さんとわたしが似ているという話を、これまで誰かにされたことがなかった。お父さんに似ている、とはよく言われたが。
「お父さんとは全然違うタイプだよね、わたしたち」
「そうよ。お父さんは言いたいことをそのまま言う人だから。傷つけてるつもりがないのに傷つける。でも裏表がないから、分かりやすくもある」
「分かりやすいけど、しんどい」
「お母さんもそう思うことある」
二人で少し笑った。台所に笑い声が出たのが、なんとなく久しぶりだった。
夕食を二人で食べた。
お父さんがいない食卓は、静かだったが、息がしやすかった。お母さんとわたしは、食べながら色々と話した。松山の話、道後の夏の話、颯真くんのこと、佐和さんのこと、宿で出会った客のこと。全部が本音の話というわけではなかったが、表面だけの話でもなかった。その中間くらいの、ちょうど二人の間に合う温度の会話だった。
食後、お母さんがお茶を持ってきた。
「由良、もう少しここにいていいからね」
「うん」
「お父さんも、そう思ってるから。うまく言えないだけで」
「知ってる」
知っている。けれど、知っていることと、傷つかないことは別だった。
それ以上は、今夜はまだ言えなかった。
「お母さん、今日少し違うね」
「そう?」
「いつもより、直接言う」
お母さんは湯飲みを持ったまま、少し考えるような顔をした。
「由良が戻ってきてから、少し考えてたの。どう話せばいいか。由良が宿で少し落ち着いてきてる気がして、それならもう少し正直に話せるかなって」
「見てたんだね」
「見てるよ、当然。親だから」
その言葉が、思ったより深いところに届いた。
見てる。当然だと言いながら、当然のことを改めて言葉にしてくれた。見ていてくれた。遠回しで、聞き方が下手で、気を遣いすぎて、でもずっと見ていてくれた。
「お母さん、東京でわたし、うまく息が吸えなくなった時期があって」
口に出したのは、ほとんど衝動だった。
佐和さんに話したときと、また少し違う感覚だった。佐和さんに話したときは、言葉が初めて場所を占めた、という感じだった。今夜は、もっと身近な場所に言葉を置く、という感じだった。
お母さんは黙って聞いていた。
「朝、駅のホームで足が動かなくなって。何度かそういうことがあって、ある日もう行けないと思った。それで辞めた」
「うん」
「大丈夫じゃなかった。でも大丈夫じゃないって言えなかった。言うとわがままみたいで」
「わがままじゃないよ」
お母さんの声が、少し低くなった。泣くほどではなかったが、いつもより重かった。
「わがままじゃない。壊れそうになってたなら、止まって当然だよ。もっと早く言ってくれればよかったけど、でも言えなかったのは由良のせいじゃない」
「お母さんのせいでもないよ」
「でも、もっと話しやすい親でいられればよかった」
「なれなかったんじゃなくて、お互いに難しかっただけだと思う」
二人の間に、少しの沈黙があった。
台所の換気扇が止まっていて、夜の静けさが家の中に入ってきていた。どこかで夏の虫が鳴いている。道後とは少し違う、実家の町の夜の音だった。
「ありがとう、話してくれて」
お母さんが穏やかな声で言った。
「うん」
今夜は、それだけでいいと思った。
実家を出たのは、夜の九時を過ぎた頃だった。
宿までの道を歩きながら、今夜のことを少し整理した。
お母さんが見ていてくれたこと。直接に話してくれたこと。わがままじゃないと言ってくれたこと。
それから、わたしが言えたこと。うまく息が吸えなかった時期があること、駅のホームで足が動かなくなったこと、大丈夫じゃなかったこと。
ことば帳に書いた一行が、頭の中に浮かんだ。
大丈夫じゃなかったと言うのは、わがままだと思っていた。
今夜、お母さんにそれを言えた。言えて、わがままじゃないと返ってきた。ことば帳に書いてから、何かが少しずつ動いていた。書いたことが、現実の言葉を引き出してくれた。
白石さんが言っていた。自分の輪郭を、言葉で初めて作る、と。
書くことで輪郭ができて、輪郭があるから、今夜みたいに誰かに渡せる言葉になった。そういうことかもしれない。
坂を上りながら、ことの葉亭の灯りが見えた。
帳場の窓から、橙色の光が漏れている。おばあちゃんはまだ起きているのだろう。あの光が、遠くからでもここだと分かる。
宿に戻って、引き戸をあけると、おばあちゃんが帳場にいた。帳簿を広げていた。顔を上げて、わたしを見た。
「遅かったね」
「お母さんと少し話してた」
おばあちゃんは何も聞かなかった。ただ、わたしの顔を一度見て、また帳簿に目を落とした。
「お茶、飲む?」
「うん」
厨房からお茶を持ってきて、帳場の脇に腰かけた。おばあちゃんと並んで、静かに夜の宿の中にいた。
話さなくてよかった。今夜のことを言葉にする必要がなかった。ただここにいて、おばあちゃんの気配の近くに座っていることが、十分だった。
しばらくして、ことば帳をそっと手に取った。
開いて、余白のページを見た。
ペンを取って、書いた。
大丈夫じゃなかったと言うのは、わがままだと思っていた。の下に、もう一行。
言えなかったのは、言葉がなかったからじゃなくて、聞かれたくなかったからかもしれない。
書いてから、少し驚いた。
これが出てくるとは思っていなかった。でも、書いてみると、これだった。大丈夫じゃなかったと言えなかったのは、言葉がなかったからではない。壊れていたという言葉は、ずっとあった。ただ、それを言うことで、自分の現実をはっきり見なければならなくなることが怖かった。聞かれたくなかったのは、相手への遠慮ではなく、自分が見えてしまうことへの恐れだった。
白石さんが言っていたことと、重なった。傷つけないことと誠実であることを同じに考える。言わないことで、誰かを守っているつもりで、実は自分を守っていた。
ことば帳を閉じた。
二行書いた。最初の一行から、もう一行が出てきた。言葉が言葉を引き出してくれた。
おばあちゃんが帳簿を閉じる音がした。
「もう寝ましょう」
「うん」
二人で立ち上がって、灯りを消した。廊下が暗くなって、それぞれの部屋に向かった。
足音が分かれていく前に、おばあちゃんが短く言った。
「今夜はいい顔してる」
振り返る前に、足音が遠ざかった。
暗い廊下で、わたしは少しの間立っていた。
いい顔。
どんな顔かは分からなかった。でも、そう言ってもらえたことが、今夜の終わりにちょうどよかった。
六号室へ向かって歩いた。夏の夜が、宿の中に穏やかに満ちていた。




