表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
ことば湯、ひとしずく――道後の小さな宿に、言えなかった想いを置いていく  作者: 明石竜


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

13/14

第十三章 秋が深まる町

 九月になると、空気が変わった。

 朝晩に風が出て、日差しが斜めになってきた。道後の石畳を照らす光の角度が、夏とは少し違う。温泉街の空気も、夏のにぎわいとは質の違う落ち着きを帯びてきた。

 宿の仕事は続いていた。

 繁忙期が過ぎると、宿泊客の数が少し落ち着く。でも客層が変わった。夏の間は家族連れや若い旅行者が多かったが、秋になるにつれて、一人旅のリピーターや、静かな時間を求めて来る年配の客が増えてくる。チェックインのときの会話が短くなって、でも滞在の中身が濃くなる。そういう変化を、わたしは帳場に立ちながら感じていた。

 おばあちゃんが言っていた。宿は、季節が変わるたびに顔が変わる、と。同じ建物で、同じ仕事をして、でも来る人が違えば、場所の意味も少しずつ変わっていく。それがこの仕事の面白さだと。

 面白さ、という言葉が、おばあちゃんから出てきたことが、少し意外だった。でもそれを聞いてから、わたしも同じように感じるようになっていた。

  

 気づいたのは、ある朝のことだった。

 チェックアウトの客を見送って、帳場に戻って、次の準備に取りかかろうとしたとき、体が自然に動いていた。考えてから動くのではなく、体が先に動いている。次に何をすればいいか、頭で考える前に手が向かっている。

 なじんでいる、と思った。

 ここに、なじんでいる。

 その気づきは、嬉しいともなんとも言えない、不思議な感触を持っていた。なじむことで、ここが居場所になっていく。でも居場所になっていけばいくほど、ここにいることへの問いが、また少し顔を出してくる。

 このままでいいのか。

 一か月のつもりで来て、もう四か月以上が経っていた。

 来たときの自分と、今の自分は、少し違う。眠れるようになったし、体が動くようになったし、人の顔を見て何かを感じる余裕が出てきた。言葉も、少しずつ出てくるようになっていた。

 でも、ここにいることが自分の選択なのか、ただ流れに乗っているのか、その区別が、湊人さんとの電車の中での会話と同じように、まだうまくつかなかった。

  

 湊人さんと会う機会は、九月に入ってから減っていた。

 観光協会の秋の企画が忙しいらしく、宿に顔を出す用事もひとまず終わっていた。商店街で見かけることはあったが、向こうも急いでいる様子で、短い挨拶を交わすだけで終わることが多かった。

 いつもの人懐こい笑顔はあったが、疲れが少し表に出ているときがあった。頑張っているな、と思いながら、わたしはそれ以上踏み込まなかった。踏み込む言葉を、まだ持っていなかった。

 佐和さんの店には、引き続き通っていた。

 九月のある夕方、カウンターに座りながら、なんとなくそのことを話した。

「湊人さん、最近忙しそうで」

「秋のイベントの時期だからね。あの人、引き受けすぎるから。断れないのよ、地元の用事は」

「佐和さんは心配してるんですか」

「心配というか、もったいないと思ってる」

「もったいない?」

 佐和さんはコーヒーを出しながら、少し考える顔をした。

「湊人くんって、旅館の仕事も観光協会の仕事も、ちゃんとやってるのよ。でも、どっちも自分がやりたくてやってるというより、やらなきゃいけないからやってる、って感じが少しある」

「やりたいことが、別にあるってことですか」

「あるかないかも、まだ分かってないんじゃないかな。やりたいことを探す前に、やらなきゃいけないことで埋まってる感じ」

 わたしはコーヒーを飲みながら、その言葉を少し自分に当ててみた。

 やりたいことを探す前に、やらなきゃいけないことで埋まっている。東京での最後の頃、似た状態だったかもしれない。でも今は、ここにいることで少し余白ができて、何が好きで何を面白いと感じるか、ゆっくり確認できるようになっていた。

 湊人さんにはその余白がない。いい顔をし続けることで、自分に余白を許していない。

 おばあちゃんが言っていた言葉が、また戻ってきた。いい顔ばかりしてる人は、本音をどこかに押し込んでるから、気をつけてあげて。

「わたし、湊人さんに何かできることあるかな」

「別に何かしなくていいんじゃない」

佐和さんはあっさり言った。

「ただ、由良ちゃんが普通に話しかけてくれるだけで、あの人はたぶん少し楽だと思う。地元の人相手じゃない会話って、息継ぎになるから」

 息継ぎ。

 電車の中で湊人さんが言っていた言葉を思い出した。外を知っている人間には言いやすかった、と。

 地元にいる人間にとって、外から来た人間との会話は、違う空気を運んでくる。それが息継ぎになることがある。

 わたしがここにいることに、そういう意味もあるのかもしれない。

  

 十月に入った頃、澪さんから連絡が来た。

 手紙ではなく、短いメッセージだった。

「県外受験、家族に言えました。反対されなかったです。もっと早く言えばよかったと思いました」

 読んで、胸の中で何かが弾けた。

 よかった、という気持ちが、素直に出てきた。飾らない、ただのよかった、という気持ち。

 返信を書いた。よかったね、言えたんだね、応援してる、と。短い言葉だったが、書きながら本当にそう思っていた。

 画面を閉じてから、少し複雑な気持ちも残った。

 澪さんは進んだ。言えなかったことを言えて、次の場所へ向かっている。

 じゃあわたしは、と思った。

 澪さんが動いたことで、自分だけがまだ同じ場所にいるような気がした。それは錯覚だと分かっていた。それぞれの時間があって、それぞれの速さがある。でも、誰かが動いたときに、自分の停滞が目に見えやすくなることがある。

 このままでいいのか、という問いが、また少し大きくなった。

 ここにいることが好きだ。宿の仕事が面白くなってきている。でも、それだけで次の人生を決めていいのか。好きと、これでいいはイコールではない。

 答えが出なかった。

 出ないまま、夕方の仕事の時間が来た。

  

 十月の中頃、白石さんからはがきが届いた。

 達筆な字で、短く書かれていた。

 道後の秋は、言葉がよく育つ季節です。ことば帳は今頃どんな色をしていますか。近いうちにまた参ります。

 わたしはそのはがきを帳場のカウンターに置いて、しばらく見ていた。

 ことば帳は今頃どんな色をしていますか。

 白石さんらしい問いかけだった。ことば帳を擬人化するでもなく、ただその状態を問うている。でもその問いは、ことば帳に書いているかどうかを、遠回しに尋ねているようにも読めた。

 あれから、一行書き足した。

 言えなかったのは、言葉がなかったからじゃなくて、聞かれたくなかったからかもしれない。

 二行になった。でも、それからまた止まっていた。止まっているのは怖さではなく、今は言葉が熟していない感覚だった。言いたいことはあるが、まだ形になっていない。

 はがきをおばあちゃんに渡すと、「また来てくださるの」と言って、小さく頷いた。

「楽しみにしてます」

「白石さん、いつも由良のことを見てるから」

「見てるって、どういう意味ですか」

「気にしてるってこと。あの方は言葉に厳しい人だけど、言葉に誠実な人を大切にする」

 言葉に誠実な人。

 その言葉が、少し重かった。わたしは言葉に誠実だろうか。ことば帳の二行は、今のわたしの正直な言葉だ。でも、まだ言えていないことの方が多い。

 誠実さとは、全部を言葉にすることではないかもしれない。でも、言えることを言えないままにしていることは、どこかで不誠実になっていく。

  

 十月の末になると、道後の木々が少し色を変え始めた。

 松はそのままだが、商店街の端の街路樹が黄色くなっている。朝の空気に冷たさが混じって、湯けむりがより白く見える。

 ある午後、わたしは帳場で一人、来月の予約を整理していた。

 リピーターの名前が、いくつかあった。去年も来ている人、一昨年も来ている人。おばあちゃんが備考欄に細かく書き留めた記録と、その人たちの好みが重なって、何年もの時間の層になっている。

 この宿には、戻ってくる人がいる。

 一度来て、また来る。何かがここを引き戻す。それは温泉かもしれないし、食事かもしれないし、あるいはことば帳かもしれない。でも、その何かを作り続けているのは、おばあちゃんだ。

 ひとりで、長い時間をかけて。

 わたしは予約帳を閉じて、しばらく帳場に座っていた。

 来月、宿はどうなるだろう、と初めて具体的に考えた。おばあちゃんは七十九歳だ。体調を崩したのは一度だったが、これからも同じとは限らない。ひとりで切り盛りするには、いずれ限界が来る。

 わたしがいることで、今は二人で回せている。でも、わたしはいつまでここにいるのか。

 一か月のつもりが、半年になった。次のことは、まだ何も決まっていない。

 このままでいいのか、という問いは、もう少し具体的な形になってきていた。抽象的な不安ではなく、この宿の、この先のことへの問いになっていた。

 答えはまだない。

 でも、問いが具体的になってきたことは、どこかで進んでいる証拠かもしれない、とも思った。

 窓の外を、一枚の葉が風に乗って横切った。黄色く色づいた、小さな葉だった。

 秋が深まる町で、わたしはまだここにいた。

 そのことが、今は怖くなかった。ただ、次の問いが来ていた。それに向き合う準備が、少しずつできてきているのかもしれない、と思いながら、わたしは立ち上がって、夕方の仕事を始めた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ