第八章 ことば帳の余白
六月の半ばに、おばあちゃんが体調を崩した。
たいしたことではない、とおばあちゃん自身は言った。朝から少し頭が重くて、熱を測ったら七度二分あった。それだけのことよ、と言いながら、それでも顔色が普段より白かった。
「横になってて」
「でも今日は二組入るから」
「わたしがやります」
おばあちゃんはしばらくわたしを見ていた。任せられるかどうか、値踏みするような目ではなかった。ただ、本当に大丈夫か、ということを、顔全体で確認していた。
「無理そうだったら電話して。佐和さんに頼めるから」
「分かった。でも大丈夫だと思う」
おばあちゃんは小さく頷いて、奥の自室へ引き取った。廊下を歩く足音が、いつもより慎重だった。その音が遠ざかってから、わたしは帳場に立って、今日一日の段取りを頭の中で組み立て始めた。
午前中は、前日からの宿泊客二組のチェックアウトがあった。
一組は夫婦で、もう一組は母娘の旅行らしかった。どちらも特に問題はなく、精算を済ませて見送った。お気をつけて、またのお越しをお待ちしています。その言葉が、今日はおばあちゃんの口真似ではなく、少し自分の言葉として出てきた気がした。
部屋の掃除に入ると、想像以上に時間がかかった。
布団を上げて、シーツを替えて、畳を掃いて、洗面台を磨いて、アメニティを補充して、窓を拭いて、縁側の埃を払う。一部屋でこれだけある。おばあちゃんはこれを毎日、ひとりでやってきた。
二部屋目が終わる頃には、背中がじんわり疲れていた。
でも、不思議と嫌ではなかった。体を動かしながら、頭の中が冷静になっていく感覚があった。考えすぎず、ただ次にやることをやる。その単純さが、今のわたしには向いているのかもしれなかった。
昼過ぎに、新しい宿泊客が一組チェックインした。
三十代くらいの女性二人組で、友人同士の旅行らしかった。明るくて話しやすく、部屋へ案内する間も、道後の観光について色々と聞いてきた。温泉本館の混み具合とか、近くのおすすめの食事処とか。わたしは知っている限りのことを答えて、分からないことは正直に分からないと言った。
「女将さんにもあとで聞いてみます」と付け加えると、「そうします」と二人は笑った。
夕方、もう一組が来た。
六十代の男性が一人。荷物は少なく、話数も少なかった。部屋を案内すると、ありがとうと短く言って、中に入った。それだけだった。
こういう客は、構われたくないのだと分かるようになっていた。必要なことだけ伝えて、あとは引く。引くことも、仕事のうちだということを、おばあちゃんの動きを見ながら覚えた。
夕食は、おばあちゃんが昨日のうちに仕込んでおいてくれたものがあった。
鯛の煮付けと、炊き合わせと、白和え。だし巻き卵だけは朝作るものだからと、おばあちゃんが起きてきてくれた。顔色はまだ少し悪かったが、台所に立った。
「横になってていいのに」
「卵だけ。すぐ終わるから」
わたしが制するより早く、おばあちゃんは卵を溶いていた。止めても聞かないと分かっていたので、せめて隣で盛りつけの準備をした。
「今日はどうだった」
「なんとかなりました」
「どこか困ったこと、あった?」
「夕方に来た方が、何を好む方か分からなくて、お茶の出し方を迷いました」
「あの方はほうじ茶が好きだよ。前に来たときにそう言ってた」
「書いておいた方がいいですね、そういうこと」
「予約帳の備考欄に、少し書いてある」
見落としていた。おばあちゃんは責めなかった。ただ、あるよ、と教えてくれた。
「明日は見ておきます」
「うん」
だし巻き卵が出来上がって、おばあちゃんはそれを皿に移した。きれいな形だった。何度やっても崩れない、手の慣れた仕事だった。
「由良、向いてると思う」
「え」
「宿の仕事。今日、客の顔をちゃんと見てたでしょ。わたしが見てたから」
おばあちゃんは奥の部屋へ戻る前に、それだけ言った。
向いてると思う。
わたしはその言葉を、帳場に戻ってから何度か繰り返した。
夕食を出して、後片づけが終わると、宿がようやく静かになった。
宿泊客はそれぞれ温泉へ出かけるか、部屋に引き取っている。廊下に人の気配がなくなって、建物全体がひっそりとする時間が来る。おばあちゃんはこの時間に帳簿を整理したり、翌日の準備をしたりしているらしかった。
今日はわたしが一人で帳場に座っていた。
明日の予約を確認して、必要な準備をメモして、備考欄を今度こそきちんと読んだ。常連客の好みや、アレルギーの有無、過去に来たときの部屋の希望。小さな字でいくつかの書き込みがあって、おばあちゃんがいかに細かく客のことを覚えてきたかが分かった。
人の様子をよく見ている。
今日一日、仕事をしながら感じたことだった。おばあちゃんは特別なことをしているわけではない。ただ、目の前の人を、ちゃんと見ている。表情の変化、歩く速さ、荷物の持ち方、返事の間。そういうものを積み上げて、その人が今どういう状態かを読んでいる。
それは広告の仕事でも似たようなことをしていたはずだが、あのときとは何かが違う。あのときは、相手の反応を読むのは目的のためだった。どう動かすか、どう売るか、どう納得させるか。でもここでは、ただ、どうすれば楽でいられるかを考える。動かすためではなく、そのままでいていいように、余計なものを引いていく。
そういう仕事のことを、わたしはこれまで考えたことがなかった。
夜の九時を回った頃、ふと、ことば帳が目に入った。
カウンターの脇に、いつものようにそこにある。
今日は一日、客と向き合って動いていた。言葉を探す余裕がなかった。でも今は静かで、帳場にわたし一人で、ことば帳がそこにある。
手を伸ばして、ノートを手に取った。
最初のページからゆっくりめくった。今まで何度か読んでいたが、今夜はいつもより落ち着いて文字を追えた気がした。
言えなかったことは、消えたことにはならない。
元気じゃないまま来ても、来てよかった。
旅に出る理由は、帰る場所があるからだと思う。
泣いてもいい場所を、ありがとう。
行きたい場所があるのは、わるいことじゃないと知りたい。
どれも短い。長くても二行で終わっている。俳句の町だからだろうか、と思ったが、それだけではない気がした。短いのは、言葉に余白があるからだと思った。書いた本人の事情を説明しすぎず、読む側の想像に開かれている。だから、まったく違う人が読んでも、どこかで引っかかれる。
自分でも、書けるだろうか。
ボールペンを取り出した。
今夜こそ、という気持ちはあまりなかった。ただ、手が動くかどうか、試してみようと思った。
余白のページを前にして、少し考えた。
何を書けばいいのか、ではなかった。今日一日の中で、何が引っかかったか。おばあちゃんの言葉か。客の顔か。仕事の細やかさか。
違った。
一番引っかかっていたのは、もっと手前のことだった。
壊れてた、と佐和さんに言えた日のこと。言葉が出た瞬間に、崩れなかったこと。でも、まだお父さんには言えていないこと。言えないのは相手のせいでも自分のせいでもなく、ただ場所がないからだということ。
場所。
ことの葉亭は、言葉の場所だ。おばあちゃんがそれを作ってきた。ことば帳が、その場所の一番小さな形として、ここにある。
わたしは、ペンを紙に近づけた。
でも、手が止まった。
また止まった、と思うより先に、なぜ止まるのかが今夜は少し分かった。
書いてしまうと、それが自分の現実になる。曖昧なままにしておけば、まだどちらにも転べる。そういうことを、ことば帳に何かを書こうとした夜に考えた。でも今夜は、それとは少し違う場所で手が止まっていた。
書きたい言葉が、まだうまく一行に絞れていなかった。
塊としてはある。喉のあたりで固まっている何かが、確かにある。でもそれを一行にするということは、無数にある側面の中から一つだけを選ぶということで、選ばれなかった部分を切り捨てることへの迷いが、手を止めていた。
それは白石さんが言っていたことと、少し関係があるかもしれない。書いた瞬間に、思っていた以上のものが出てしまうことがある。書く前の迷いは、書いたあとに自分が変わってしまうことへの怖れかもしれない。
ペンをキャップに戻そうとしたとき、廊下から足音がした。
おばあちゃんだった。
薄い羽織を羽織って、帳場の前に現れた。顔色は夕方よりは良くなっていたが、まだ本調子ではなさそうだった。
「まだ起きてたの?」
「もう少ししたら寝ます。おばあちゃんこそ」
「喉が渇いて」
おばあちゃんは厨房へ向かって、水を飲んできた。帳場の前を通り過ぎるとき、わたしの手元のことば帳と、開かれたページと、ペンを見た。
何も言わなかった。
奥の部屋へ戻りかけて、足を止めた。
「書けないなら、それでもいいのよ」
振り返らずに言った。廊下に向かって、ただそこに言葉を置いていくように。
それだけで、また歩いていった。
足音が遠ざかって、戸の閉まる音がして、静かになった。
わたしはしばらく、その言葉を空中に感じていた。
書けないなら、それでもいいのよ。
責めていなかった。急かしていなかった。でも、見ていなかったわけでもなかった。ちゃんと見ていて、ちゃんと知っていて、それでもいい、と言ってくれた。
胸の奥で、何かが小さく揺れた。
泣くほどではなかった。でも、揺れた。それは確かだった。
救われた、と思った。
同時に、少し悔しかった。
書けなかったのは、言葉がないからではない。怖かったからだ。それを、おばあちゃんは分かっていて、それでもいいと言ってくれた。その優しさが、ありがたくて、でもどこかに、まだわたしは受け取りきれていない自分がいた。
いつか書きたい。
書けないままでいることを、免罪符にはしたくない。おばあちゃんの「それでもいい」は、永遠に書かなくていいという意味ではなくて、今夜はそれでいいという意味だと思った。
ことば帳をそっと閉じた。
明日の準備のメモを最終確認して、帳場の灯りを落とした。廊下に出ると、宿は静まり返っていた。どこかの部屋から、かすかな寝息のような気配が届いてくる気がした。
六号室へ向かいながら、今日一日のことを順番に思い返した。
チェックアウトの見送り。部屋の掃除。新しい客の顔。夕食の盆。おばあちゃんのだし巻き卵。向いてると思う、という短い言葉。
それから、ことば帳の余白と、書けなかった夜と、それでもいいのよ、という声。
全部が今日のことで、全部がここで起きたことだった。
布団に入って目を閉じると、道後の夜の静けさがまた体に落ちてきた。
眠れる、と思った。
今夜も、ちゃんと眠れる。それだけのことが、今のわたしには十分だった。




