第七章 カフェ・コウノのやさしい苦味
カフェ・コウノには、週に二、三度立ち寄るようになっていた。
宿の仕事が一段落する昼過ぎか、夕方前の中途半端な時間に、坂を下って商店街を抜けていく。引き戸をあけると、ほとんどの場合、佐和さんは一人でカウンターの中にいる。客が何人かいることもあるが、込み入った時間に来たことはなかった。
佐和さんは余計なことを聞かない。来たことを歓迎するが、大げさにしない。コーヒーを出して、少し話して、黙って、また少し話す。その間の取り方が、わたしには合っていた。
その日は雨が強くなった午後に行った。傘をさして坂を下りて、店に入ると、珍しく先客が一人もいなかった。
「珍しい」と言うと、「雨の日はそうなのよ」と佐和さんが答えた。「来る人は来るけど、全体的に少ない。でも来た人はゆっくりしていく」
「雨だと外に出られないから?」
「雨だと、ちょっと立ち止まりやすいんじゃないかな。晴れてると歩きたくなるでしょ。雨の日は、どこかに入って、そこにいる理由ができる」
なるほどと思った。雨が理由を作る。どこかに留まることの言い訳を、天気が引き受けてくれる。
コーヒーが出てきて、わたしはカウンター席に落ち着いた。雨音が引き戸の外から聞こえて、店の中は静かだった。
「佐和さん、この店を始めたのはいつですか?」
「四年前。戻ってきた翌年」
「最初から喫茶店をやろうと思ってたんですか」
「思ってた。大阪にいた頃から、いつかやりたいとずっと頭の隅にあって。戻るタイミングで、じゃあやろうって」
「怖くなかったですか?」
「怖かったよ」
佐和さんはあっさりと言った。
「お金のこともそうだし、うまくいくかも分からない。松山で一人でやっていけるかも。でも、怖いかどうかと、やるかどうかは別のことだから」
「怖くてもやった」
「怖いまま始めた、の方が正確かな。怖さが消えてからやろうと思ったら、一生やれないと思って」
怖いまま始めた。
その言葉を、わたしはコーヒーカップを持ちながら、少し転がした。
「わたし、東京でのことを、ちゃんと誰かに話したことないんです」
気づいたら、口に出していた。
佐和さんは手を止めなかった。グラスを拭きながら、うん、と短く返しただけで、続きを促しもしなかった。
それが話しやすかった。
「合わなかったとか、疲れたとか、そういう言い方しかしてこなくて。お父さんにも、お母さんにも。本当のことを言うと、なんか……崩れる気がして」
「崩れる」
「自分が。うまく言えないんですけど、本当のことを言葉にしてしまうと、それが本当になる、みたいな。そのままにしておけば、まだどこかに逃げ道がある気がして」
佐和さんはグラスを棚に戻して、カウンターに肘をついた。わたしの話を、ちゃんと聞いている顔だった。
「本当のことって、何?」
問いが短くて、直接で、でも責めていなかった。
わたしはコーヒーカップを両手で包んだ。雨音が少し強くなった。
「……うまく息が吸えなくなった時期があって」
声が少し小さくなった。でも、佐和さんは表情を変えなかった。驚かなかった。哀れみもしなかった。ただ聞いていた。
「朝、駅のホームで足が動かなくなったことが、何度かあって。それでも行かなきゃと思って、行って、でもまた同じことが起きて。ある日、もう行けないって分かった。分かったというか、体が動かなくなった。それで辞めた」
「うん」
「疲れた、じゃなくて、壊れてたんだと思います。でもそれを認めると、そこまでの自分が全部間違いだったみたいで、言えなくて」
佐和さんは少しの間、黙っていた。
急いで何かを言おうとしない沈黙だった。言葉を探している沈黙でもなかった。ただ、わたしの言葉が着地するまで、待っている感じがした。
「由良ちゃん」
「はい」
「それ、逃げたんじゃないよ」
慰めの言い方ではなかった。断言だった。
「壊れるまでやってたんでしょ。壊れたなら、止まるしかない。それだけのことだよ。間違いとか、正しいとか、そういう話じゃない」
「でも、もう少し早く気づいてれば」
「気づいてたら、もっと早くに辞めてた。それが正解かどうかも分からない。そういう、正解を探す方向に頭が行きがちなの、由良ちゃんは」
図星だった。
正解を探している。あの選択は正しかったか、間違いだったか、もっと別の道があったか。そういうことをずっと考えながら、でもどれも答えが出なくて、疲れている。
「戻ることは負けじゃない、って前に言ってましたよね」
「言ったね」
「それ、言ってもらったときより、今の方がもう少し分かる気がします」
「どうして」
「分からないんですけど」
正直に言うと、佐和さんは少し笑った。厳しくも、優しくもない、ただ本当だね、という笑い方だった。
「言えたじゃない、今」
「え」
「壊れてたって。ちゃんと言葉にした」
そう言われて気づいた。
確かに言った。壊れてた、という言葉を、声に出した。誰かに向かって、初めて。
崩れなかった。言ったからといって、何かが急に変わったわけでもない。でも、言ってしまったことが、怖くはなかった。
ただそこにある事実として、言葉が場所を占めた。
夕方、雨が少し弱くなった頃に店を出た。
傘をさして坂を上りながら、体の中が少し違う気がした。軽くなった、というほどではない。でも、何かがほんのわずかに動いた感じがした。長い間止まっていた時計の針が、一目盛りだけ進んだような。
実家に着いたのは夕方の六時近かった。
ことの葉亭に泊まり込んでいるわけではなく、宿の手伝いをしながら実家に帰る、という形を取っていた。宿に泊まり続けるのも気が引けて、かといって実家は実家で、少し息が詰まる。そのどちらにも中途半端にいる自分の居場所の曖昧さが、ずっとどこかに引っかかっていた。
玄関をあけると、台所からお母さんの声がした。
「おかえり。夕ご飯、もうすぐできるよ」
「うん、ありがとう」
廊下を通ると、居間からお父さんの気配がした。テレビの音がする。わたしが通り過ぎようとすると、「由良」と声がかかった。
居間の入り口から顔を出すと、お父さんがソファに座って、わたしを見ていた。
「宿の方は、慣れてきたか」
「まあ」
「そろそろ、次のこと考えた方がいいんじゃないか。一か月って、最初に言ってただろ。もう過ぎてる」
予想していた言葉だった。でも、予想していたのに、胸の奥がきゅっとした。
「それは、目安として言っただけで」
「目安でも、何も決まってないのは同じだろ」
お父さんの声は責めていなかった。ただ事実を並べている、という言い方だった。でもその事実の並べ方が、わたしには少し刺さる。
「今すぐ決めなくていいとは思うけど、ずっと宿の手伝いをしてるわけにもいかないだろう。お前だって、そう思ってるんじゃないか」
「思ってる」
「じゃあ」
お父さんはそこまで言って、言葉を探すように少し黙った。
「思ってるけど、まだ動ける気がしないの」
少し声が硬くなった。お父さんは何か言おうとして、でも言葉が出てこなかった様子で、口を閉じた。
わたしは居間から引いて、自分の部屋へ向かった。
廊下を歩きながら、胸の中でぐるぐると何かが回っていた。
お父さんは悪くない。心配しているのは分かる。でも、動ける気がしない、という言葉の重さを、うまく受け取れない人だ。そういう言葉は、甘えか怠慢か、そのどちらかに聞こえてしまうのかもしれない。
悪意じゃない。でも、それが余計にしんどい。
部屋に入って、ベッドの端に腰かけた。
佐和さんに話した言葉が、まだ喉のあたりに残っていた。壊れてた。声に出した、その感触。
お父さんには、言えないな、とわたしは思った。
言えないのは、お父さんのせいではなく、わたしのせいでもなく、ただ二人の間にある距離の話だった。その距離がどこから来て、どうすれば縮まるのか、今はまだ分からない。
お母さんが「夕ご飯よ」と呼ぶ声がした。
わたしは立ち上がって、廊下に出た。
夕食のあと、わたしはまた佐和さんに話した今日のことを考えた。
壊れてた、と言えた。
それは小さなことかもしれない。でも、言えなかったことが一つ言えたとしたら、言えないこととは、言葉の問題ではなくて、相手と場所の問題なのかもしれない。
お父さんには言えなかった。佐和さんには言えた。それは、わたしの何かが違うのではなくて、場所が違うのだと思う。言葉は、受け取れる人のいる場所でしか、ちゃんと出ていけない。
ことの葉亭のことば帳に、誰かが言葉を残せるのも、そういうことなのかもしれない。
帳場に置かれた古いノートが、言葉の受け取り場所になっている。名前も事情も関係なく、ただそこに書いていい場所として、ある。
宿がそういう場所であること。
おばあちゃんがそういう場所を作ってきたこと。
その意味が、今夜初めて、少し奥の方まで届いてきた気がした。
窓の外では、雨がまだ続いていた。道後の夜の雨は音が細くて、聞いていると眠くなる。
わたしは布団に入って、目を閉じた。
今日言えた言葉の重さを、もう少しだけ持ちながら、眠りに落ちていった。




