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ことば湯、ひとしずく――道後の小さな宿に、言えなかった想いを置いていく  作者: 明石竜


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第六章 言葉を置いていく夜

 六月の二週目になると、雨の日が増えた。

 梅雨の道後は、空気がいつも少し白く霞んでいる。観光客の数は連休より落ちるが、それでも温泉街に人は絶えない。雨の中でも傘をさして本館へ向かう人たちを、帳場の窓から見るともなく見ながら、わたしは宿の仕事を続けていた。

 雨の日の掃除は、晴れの日より少し手間がかかる。客が濡れた傘や靴を持ち込むから、玄関周りをこまめに拭く必要がある。廊下も湿気で床が滑りやすくなるので、注意が要る。そういう細かいことを、おばあちゃんは特に言葉で教えてくれるわけではなく、わたしが見て気づいて覚えるのを待っている。

 待っている、という言い方が正確かどうかは分からない。ただ、急かさない。できたことには短く頷いて、できていないことには「ここも」と一言だけ言う。それだけだ。

 その「それだけ」が、今のわたしにはちょうどよかった。


 雨脚の強い日だった。

昼を過ぎた頃から降り出した雨は、夕方になるにつれて音を増し、ことの葉亭の軒先を絶え間なく打ち続けていた。道後の石畳は濡れて鈍く光り、商店街を行き交う観光客たちも、いつもより足早に見える。帳場の窓から外を見ると、傘の縁からこぼれた水が、細い糸みたいに落ちていた。

 こういう日は、宿の中の静けさが少し深くなる。

 濡れた傘を預かり、玄関のたたきを拭き、廊下に湿気がこもらないよう窓を少しだけ開ける。そういう細かい仕事をひとつずつ片づけながら、わたしは夕方の支度をしていた。おばあちゃんは厨房で夕食の最後の仕上げに入っていて、煮物の匂いが廊下まで漂っている。

 その日の宿泊客は三組だった。

 夫婦が一組と、大学生らしい二人組。それから、もう一人。

 最後に来たその人は、午後五時を少し過ぎてから、雨の匂いと一緒に引き戸をあけた。

「予約していた、三浦です」

 声は落ち着いていたが、どこか張っていた。細身の女性で、年は二十代の後半くらいだろうか。紺のブラウスに黒いスラックス、肩にかけた鞄も仕事用らしい硬さがある。観光に来たというより、どこかの帰りにそのまま立ち寄ったような服装だった。

「お待ちしておりました」

わたしが帳場で名前を確認すると、彼女は濡れた前髪を指で払った。髪の先から、ぽたりと水滴が落ちる。傘を閉じる手つきは丁寧なのに、その指先だけが少し落ち着きなく見えた。

「お荷物、お持ちしますか」

「いえ、大丈夫です」

 断り方はやわらかかったが、間に入られたくない時の声だった。わたしはそれ以上は言わず、部屋の鍵をお渡しした。

 三浦さんの部屋は二号室だった。中庭に面した、小さな床の間のある部屋だ。ご案内すると、彼女は部屋に入ってすぐ、ほっとしたようにひとつ息を吐いた。それがあまりに無意識の動きだったので、わたしは見てはいけないものを見た気がして、目をそらした。

「夕食は七時からご用意できます」

「はい。ありがとうございます」

 その返事はきちんとしていた。きちんとしているのに、何かが少しだけ追いついていないような感じがした。

 部屋を出て廊下を戻りながら、わたしはその背中を思い出していた。

 観光客の顔ではなかった。仕事に疲れた人の顔、と言い切るのも少し違う。ただ、どこかに立ち止まりたくて来た人の顔だった。

 そういう顔を、わたしは知っている気がした。


 夕食の時間になっても、三浦さんはあまり食が進んでいないようだった。

 食堂に運んだ料理にはほとんど手をつけているのに、箸の進み方が遅い。味わっているというより、食べるという行為を順番にこなしているような手つきだった。食後のお茶を出した時も、「ありがとうございます」と笑ったが、その笑みは薄く、何かの上にそっと置かれたものみたいに見えた。

 ほかの客の片づけを終えてからも、彼女はしばらく食堂に残っていた。窓の外の雨を見ているのか、自分の考えの中にいるのか、遠目にはよく分からなかった。

 宿の人間として、どこまで声をかけていいのか。そんなことを考えて、結局、わたしは何も言えなかった。

 余計なことかもしれない、と思った。

 おばあちゃんなら、たぶん無理に聞かない。佐和さんも、相手が口を開くまでは待つだろう。白石さんなら、そもそも何も言わないかもしれない。

 わたしはまだ、その間合いが分からない。

 食堂の灯りを少し落とし、湯飲みを片づけて帳場へ戻ると、おばあちゃんが厨房から顔を出した。

「由良、お茶の葉、そこに新しいの入れておいたからね」

「うん、分かった」

 返事をしてから、少し迷って、わたしは言った。

「あの、二号室の方……少し疲れてる感じ、した」

「そう」

 おばあちゃんは手を止めずに頷いた。それだけだったので、わたしは続きを言う。

「何かあったのかなって、思って」

「あるかもしれないし、ないかもしれないね」

「……うん」

「でも、どっちでもいいんだよ」

 おばあちゃんは鍋の火を弱めてから、こちらを見た。

「泊まりに来る人は、元気な人ばかりじゃないからね。追いかけなくていい。でも、戻ってこられるようにしておくことはできるでしょう」

 戻ってこられるようにしておく。

 その言い方が、胸の中にすとんと落ちた。

 何かを言わなくても、答えを出さなくても、できることがある。おばあちゃんの言葉は、いつもそういう形で届く。

「戻ってこられるように、か」

「うん。宿って、そういう場所でもあるから」

 それだけ言って、おばあちゃんはまた厨房へ戻っていった。

 わたしは帳場の前に立ったまま、ことば帳へ目を向けた。

 薄い緑の表紙は、いつものようにカウンターの脇に置かれている。書きたい人が書いて、読みたい人が読む。ただそこにあるだけのノート。

 戻ってこられるようにしておく。

 それは、こういうことでもあるのかもしれなかった。


 夜九時を過ぎると、ほかの客はみな部屋へ戻り、宿の中は急に静かになった。廊下の明かりを少し落とし、玄関の戸締まりを確かめる。雨はまだやんでいない。屋根を打つ音が、昼間より近く聞こえた。

 帳場で湯飲みを片づけていると、廊下の向こうに人影が見えた。

 三浦さんだった。

 浴衣ではなく、チェックインの時と同じ服のまま、帳場の前まで来る。何か用事があるのかと思ったが、彼女はすぐには声をかけず、そこに立ったまま視線を落としていた。

 ことば帳だった。

 彼女はそれを見ていた。

 見ているだけで、手は伸ばさない。何かを迷っている時の沈黙だった。十秒か、それより少し長く、彼女はそのまま立っていた。

 その背中を見て、わたしは妙に落ち着かない気持ちになった。

 あの感じを、知っている、と思ったのだ。

 開けばいいのに、と思っているわけじゃない。開かなくていいとも思っている。でも、そのどちらにも決められずに立ち尽くしてしまう感じ。近づきたいのに、近づいた瞬間に何かが変わってしまいそうで、手が伸びない感じ。

 わたしは六号室でことば帳を前にした自分を思い出していた。

 三浦さんは結局、何も言わずに踵を返した。二号室の方へ戻っていく足音が、小さく遠ざかっていく。

 その背中を見送りながら、わたしはしばらく動けなかった。

 追いかけなくていい。でも、戻ってこられるようにしておくことはできる。

 おばあちゃんの言葉が、また胸の中で形を作った。

わたしは帳場の後ろへ回って、小さな急須を取り出した。冷たいものより、今夜は温かい方がいい気がした。ほうじ茶を淹れて、湯呑みではなく蓋つきの湯のみを盆に乗せる。迷ってから、小さなメモ用紙を一枚取った。

 何を書くのか、しばらく考えた。

 大丈夫ですか、は違う気がした。何かありましたか、はもっと違う。元気出してください、なんて書けるはずがない。そんな言葉を受け取れる夜ばかりじゃないことを、わたしは知っている。

 ペン先を紙に触れさせて、ゆっくり書いた。

 帳場のノートは、読むだけでも大丈夫です。

 それだけ書いて、名前も何も添えなかった。添えなくても、誰からかは分かるだろうと思ったが、説明が増えると急に押しつけがましくなる気がした。

 盆を持って二号室の前へ行き、そっと襖越しに声をかける。

「失礼します。お茶をお持ちしました」

 少し間があってから、「……はい」という返事がした。

 襖が細く開く。部屋の中の灯りはついていたが、三浦さんの顔はさっきより少し青白く見えた。

「夜は冷えるので、よろしければ」

「ありがとうございます」

 彼女は盆に視線を落とし、それからメモを見た。目がその一行を追うのが分かった。

 表情は変わらなかった。ただ、ほんの少しだけ肩の力が抜けたように見えた。

「……あのノート、宿の方も読むんですか」

 唐突でもなく、慎重な声だった。

「読むこともあります。でも、誰が何を書いたかを聞いたりはしません」

「そうですか」

「読むだけの人もいます。書かない人も、います」

 言ってから、それでよかったのか少し不安になった。でも三浦さんは何も困った顔をせず、「分かりました」とだけ答えた。

 襖が閉まる直前、彼女がもう一度メモを見たのが分かった。


 そのあと、わたしは六号室に戻ったが、なかなか眠れなかった。

 余計なことをしただろうか、と考えた。

 ああいうのは自己満足かもしれない。相手が望んでいないことを、勝手に親切だと思って差し出しただけかもしれない。東京にいた頃、そういうことを考えすぎて何もできなくなることが何度もあった。

でも今夜は、何もしないでいる方が、少しだけ違う気がした。

 答えを渡したかったわけじゃない。ただ、あそこに何かがあると知らせたかっただけだ。読んでもいいし、読まなくてもいい。開いても、閉じたままでもいい。ただ、選べる場所があることだけは、伝えたかった。

 布団の上で寝返りを打つ。雨音は少し弱まっていた。


 しばらくして、どうしても気になって、わたしはそっと部屋を出た。

廊下の明かりは落としてある。足音を忍ばせて帳場の近くまで行くと、そこに小さな灯りが見えた。帳場の脇にある行灯の明かりだ。

 その明かりのそばに、三浦さんが立っていた。

 ことば帳が開かれている。

 彼女は立ったまま、ページをめくっていた。急がず、一行ずつ、ゆっくりと。時々手が止まり、そのたびに少しだけ顔が伏せられる。泣いているわけではない。ただ、読んだ言葉がどこかへ落ちていくのを待っているような静けさがあった。

 わたしは廊下の角から、その姿を見ていた。

 声はかけなかった。

 ここで「大丈夫ですか」と言ったら、たぶん壊れるものがある。読んでいる最中の人のそばには、入っていけない空気があるのだと、その時はっきり分かった。

 宿の仕事は、声をかけることだけじゃない。

 言葉が落ちていく場所を、邪魔しないことも、たぶん仕事なのだ。

 三浦さんはしばらく読んだあと、帳場の引き出しに入れてあるボールペンを取り出した。少し迷うように指先を止め、それから、どこかのページへ何かを書いた。

 書き終えてペンを戻すと、ノートをそっと閉じる。

 その横顔は、来た時と同じではなかった。元気になったわけではない。ただ、息の浅さがほんの少しだけましになったように見えた。

 わたしは彼女が部屋へ戻るまで、その場を動かなかった。


 翌朝、雨はあがっていた。

 濡れた石畳が朝の光を受けて、白っぽく光っている。屋根から落ちる水が、一定の間隔で庭石を打っていた。雨上がりの朝の匂いは、夜の湿り気を少し残しながら、それでもどこか新しかった。

 三浦さんは朝食をほとんど残さず食べた。

 顔色が劇的に良くなったわけではない。けれど、食堂に入ってきた時の歩き方が昨夜より少し落ち着いていた。食後のお茶を出すと、「お茶、おいしかったです」と言った。昨夜のことを直接言うわけではない、その距離感がありがたかった。

「それは、よかったです」

 わたしもそれ以上は言わなかった。

 チェックアウトは十時過ぎだった。帳場で精算をして、三浦さんは鞄の持ち手を握り直した。

「一泊だけでしたけど、ありがとうございました」

「こちらこそ」

「……また、来てもいいですか」

「はい。いつでも」

その返事は、わたしの口から思ったより自然に出た。

 三浦さんは少しだけ目を細めて、それから会釈をした。昨日より、ほんの少しだけまっすぐな姿勢で、引き戸の外へ出ていく。雨上がりの光の中に、その背中が溶けるように小さくなっていった。

 わたしはその姿が見えなくなってから、ことば帳を手に取った。

 どこに書いたのだろう、とページを繰る。古い字、新しい字、さまざまな筆跡が重なっている。その少し後ろの方に、見覚えのない細い字があった。


 決められないままでも、朝になってよかった。


 それだけだった。

 短いのに、読み終えたあと、しばらくページを閉じられなかった。

 決められないままでも。

 何かを決めた人の言葉ではない。答えが出た人の言葉でもない。でも、決められない夜を越えて、朝を迎えた人の言葉だった。

変わった、とは書いていない。救われた、とも書いていない。ただ、朝になってよかった、とだけある。

 その控えめさが、かえって本物だった。

 わたしは帳場の前に立ったまま、しばらくその一行を見ていた。

 誰かを変えたわけじゃない、と思った。

 わたしがしたのは、お茶を持っていって、ノートは読むだけでも大丈夫だと伝えただけだ。それだけで何かが劇的に変わるはずがない。そんなことは分かっている。

でも、決められない人が、決められないまま一晩いていい場所を、少しだけ整えることはできたのかもしれない。

それで十分なのだと、今朝は思えた。

   

 夜、仕事がひと段落してから、わたしは六号室でことば帳を開いた。

 昨日の一行が、まだ胸のどこかに残っていた。決められないままでも、朝になってよかった。

 白石さんの言葉を思い出す。引っかかる部分が、あなたの中にある。

 たしかに、その通りなのだろうと思う。

 わたしはこれまで、書けない、と思っていた。何を書けばいいか分からないし、言葉にした瞬間に形が決まってしまうのが怖かった。でも今夜は、少し違った。

 決められないままでも、書いていいのかもしれない。

 整っていなくても、答えになっていなくても、その時の本当であれば、それでいいのかもしれない。

 ことば帳の余白を前にして、わたしはボールペンを取った。

 まだ少しだけ手が止まる。けれど昨夜までのような、完全な足止めではなかった。怖さがなくなったわけじゃない。ただ、怖くても書けるかもしれない、という感じがあった。

 ゆっくり、ひと文字ずつ書く。

 まだ途中でも、ここにいていい気がした。

 書き終えてから、しばらくその一行を見ていた。

 たいしたことは書いていない、と思う。何かを決意したわけでもないし、未来を断言したわけでもない。元気になった、と言えるほどでもない。

 でも、今のわたしにはそれがいちばん本当だった。

 途中で、いい。

 まだ分からなくても、いい。

 ここにいることを、急いで意味づけなくていい。

 窓の外で、雨の名残の雫が松の枝から落ちた。遠くで路面電車の音がする。ことの葉亭の夜の静けさが、その音をやわらかく包んでいた。

 わたしはことば帳を閉じて、そっと胸の上に置いた。

 誰かの言葉に助けられて、誰かの夜の邪魔をしないことを覚えて、それでようやく、自分も一行だけ置いていけた。

 それはたぶん、大きな変化ではない。

 でも、来た頃のわたしなら、できなかったことだった。

 布団に入ると、今日はすぐに眠れそうだった。

 明日のことは、まだ分からない。来月のことは、もっと分からない。でも、分からないまま朝になってもいいのだと、昨夜と今夜のあいだに、少しだけ思えるようになっていた。

 灯りを消すと、部屋の中に暗さが満ちた。

 その暗さは、前より少しだけ、やさしかった。


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