第五章 行きたい場所がある
五月が終わる頃、一通の予約が入った。
名前は宮内澪。十七歳。備考欄に「一泊、一名」とだけある。おばあちゃんに確認すると、電話で直接入れてきた予約だという。
「高校生が一人で?」
「そうみたい。丁寧な話し方の子だったって」
珍しいな、とは思った。道後は個人で一人旅をする高校生はそう多くない。何か理由があるのだろうとは思ったが、それ以上は考えなかった。どんな事情があっても、来た人を迎えるのが宿の仕事だ、とおばあちゃんが言っていたのを思い出した。
宮内澪さんが来たのは、六月に入ってすぐの土曜日だった。
午後三時過ぎ、引き戸があいて、制服姿の女の子が入ってきた。紺のスカートに白いブラウス。背筋が伸びていて、姿勢がいい。小柄で細身だが、頼りなさより、きちんとした印象の方が強かった。リュックサックをひとつ背負って、帳場の前に来ると、少し緊張した顔で頭を下げた。
「宮内と申します。予約しておりました」
「お待ちしておりました」
わたしが鍵を取り出すと、彼女はカウンターの上に両手を揃えた。高校生の一人旅にしては所作が落ち着いていて、でもその落ち着きの下に、何かをこらえているような気配があった。
「温泉には夜入りに行けますか」
「はい、本館の時間をご案内します。宿の内湯もございますので、よろしければ」
「ありがとうございます」
案内した部屋は三号室。窓から松の木と空が見える、こじんまりとした部屋だ。荷物を置いた彼女は、窓の外をしばらく眺めてから、「きれいですね」とだけ言った。
観光に来た人の顔ではなかった。どこかで一息つくために来た人の顔だった。
夕食は食堂でとってもらった。
他に宿泊客が二組いたが、それぞれ別々に来ていたので、食堂は静かだった。澪さんはひとりのテーブルで、出した料理を丁寧に食べていた。残さず、急がず、ただ黙々と。
わたしが湯飲みに追加のお茶を注ぎに行くと、彼女は顔を上げて「ありがとうございます」と言った。
「学校はお休みですか?」
聞いてから、余計なことを言ったかもしれない、と少し思った。でも澪さんは嫌な顔をしなかった。
「土曜なので。明日は帰ります」
「そうですか。遠いところから?」
「松山市内です。市の反対側の方から電車で」
同じ市内から、温泉宿に一人で来た。それだけで何かを聞こうとするのは野暮だと思って、わたしは「ゆっくりしていってください」と言って引き下がった。
澪さんはまたお茶を飲んで、窓の外を少し見てから、また箸を取った。
その横顔に、疲れているというより、何かを考えすぎている人の静けさがあった。
翌朝、朝食のあと、澪さんはしばらく食堂に残っていた。
片づけをしながら、わたしはその様子を横目で見ていた。彼女はテーブルの上に何も置かず、ただ手を膝に乗せて、窓の外を見ている。考えているのか、休んでいるのか、判断できなかった。
チェックアウトまで時間があったので、わたしは声をかけた。
「帳場の前に、ことば帳というノートが置いてあります。よければ、読むだけでも」
彼女は少し目を動かした。
「ことば帳?」
「宿泊客の方が言葉を書き残していくノートです。読むだけでも、何か書いてもいい。どちらでも」
おばあちゃんがわたしにそうしたように、それだけ言って、あとは引いた。
澪さんは少ししてから立ち上がって、帳場の前へ来た。わたしが渡すと、彼女は立ったままゆっくりページをめくった。急がなかった。一行一行を、ちゃんと目で追っていた。
読み終えて、ノートをカウンターに戻したあと、しばらく何も言わなかった。
それから、「ボールペン、お借りできますか」と穏やかに言った。
澪さんがチェックアウトしたのは、十一時少し前だった。
帳場で精算を済ませて、リュックを背負い直して、頭を下げた。
「お世話になりました」
「またいつでも」
「……はい」
その「はい」は、社交辞令ではなかった気がした。もう少し重くて、もう少し個人的な返事だった。
彼女の後ろ姿が引き戸の外に消えるのを見てから、わたしはことば帳を手に取った。
最後のページに、高校生らしい丸みのある字で、一行だけ書かれていた。
行きたい場所があるのは、わるいことじゃないと知りたい。
知りたい。
知っている、でも、知った、でも、信じたい、でもなく、知りたい。
その一語の選び方が、胸に当たった。
行きたいと思っている。でも、それが許されることなのかどうかが、まだ分からない。誰かに許してもらいたいのではなくて、自分でそれを知りたい。そういう意味に読めた。
澪さんが何を迷っているのか、具体的には話してくれなかった。でも、この一行だけで、何かの輪郭が見えた気がした。
わたしは、澪さんに何かをしてあげられたわけではない。ただ、お茶を出して、鍵を渡して、ことば帳の場所を教えただけだ。でも、誰かが言葉を置いていけるように、その場を整えることにも、意味があるのかもしれないと思った。
わたしはことば帳を持ったまま、しばらく帳場に立っていた。
☆
その日の夜、佐和さんの店に寄ると、珍しく先客がいた。
湊人さんだった。カウンターの端に座って、コーヒーを飲んでいる。わたしが入ると、「あ、二宮さん」
と顔を上げた。
「こんにちは」
「どうぞ、狭くないですよ」
佐和さんが「仲良くしてよ」と笑いながらコーヒーを出してくれた。わたしは湊人さんから一席空けて座った。
「今日は観光協会の打ち合わせで近くに来てたんです。ここのコーヒーが飲みたくなって」
「分かります。戻ってきてから、ちょくちょく来るようになりました」
「女将さんのとこ、最近どうですか」
「少し慣れてきました」
「そうですか。宿の仕事、向いてそうですね」
「そうですか?」
「なんとなく。感じ方が細かい人って、向いてると思います」
湊人さんはさらりと言った。褒めているような、ただ観察を述べているような、どちらとも取れる言い方だった。
「昨日、高校生が一人で泊まりに来てたんです」
特に理由はなかったが、誰かに話したかった。
「へえ」
「進路のことで迷ってるのかな、って」
「そういう時期ですもんね。受験前の高校生って、ちょっとぴりぴりしてる子が多い」
「ぴりぴりというより、重いものを一人で持ってる感じで」
湊人さんは少し考えるような間を置いた。
「言えない、ってやつですかね。誰かに」
「そういう顔をしてました」
「家族には言えなくて、友達には言いにくくて、みたいな。そういう年頃って、あるじゃないですか」
わたしは頷きながら、その言葉を自分にも当ててみていた。あの年頃、というより、今もそうかもしれない、と思った。言えなくて、でも誰かに知っていてほしくて、それで行き場がなくなる感じ。
「久米さんは、高校生の頃、言えないことありましたか?」
聞いてから、少し踏み込みすぎたかもしれないと思った。でも湊人さんは嫌な顔をしなかった。
「ありますよ、そりゃ。旅館継ぐの、なんとなく分かってたから。それに対して、どう思ってるかを誰にも言えなかった。反対するわけでも、嫌なわけでもなかったんですけど、複雑だった」
「複雑」
「決めてもらってる感じ、というか。自分で選んでるのか、流れに乗ってるのか、区別がつかない感じ」
湊人さんはコーヒーを一口飲んでから、「今もちょっとそうかもしれないですけど」と付け加えた。笑いながら言ったが、笑いの中に何かが混じっていた。
佐和さんがカウンターを拭きながら、「湊人くんはそういうの、話せる相手が少ないんだよ」と言った。
「佐和さん、余計なこと言わないでくださいよ」
湊人さんが困ったように言う。
「本当のことじゃない」
「本当でも」
そう返す声には、怒りよりも照れが混じっていた。
二人のやり取りは、長い付き合いの軽さがあった。わたしはコーヒーカップを両手で包みながら、その会話を少し離れたところから聞いていた。
湊人さんが複雑、と言った言葉が、頭に残っていた。旅館を継ぐことへの迷いを抱えながら、それでもここにいる。澪さんが行きたいと思いながら、言い出せずにいる。わたしが壊れてしまったことを、言葉にできずにいる。
形はそれぞれ違うが、どこかで似ている。言えないことの重さが、みんなの胸の中に、それぞれの形でわだかまっている。
帰り道、坂を上りながら、澪さんのことをまた考えた。
行きたい場所があるのは、わるいことじゃないと知りたい。
あの一行は、進路のことだけを指していたのだろうか。県外の大学へ行きたい、でも家のことを思うと言い出せない。そういう具体的な悩みを書いたのかもしれない。でも、もう少し広い意味にも読めた。
行きたい方向がある。でもそちらへ進むことを、誰かに、あるいは自分自身に、許してもらえていない。そういう感覚。
わたしにも、似たようなものがあったかもしれない。
東京で働いていた頃、どこか違うと感じながらも言い出せなかった。限界に近づいていると分かっていても、それを認めることができなかった。なぜかというと、認めてしまったら、そこまでの自分を否定することになると思っていたからだ。
でも今から考えると、限界だったことと、それまでの頑張りは、別のことだ。壊れてしまったことは、それまでの日々を無効にしない。
そのことが、まだ頭では分かっていても、腹の底ではうまく信じられない。
澪さんに「行きたいと思っていいんだよ」と言えるだろうか。今のわたしに、それを言う言葉があるだろうか。
坂の途中で足が止まった。
言えるかどうか、ではなくて、わたしは自分自身にそれを言えているか、という問いが来た。
帰ってきていい。休んでいい。壊れてしまったことは、そのまま抱えていい。
誰かに言われれば、そうだと思う。でも、自分で自分にそれを言えているかといえば、まだできていない。おばあちゃんの宿で布団を畳みながら、忙しさに自分を預けながら、その問いから少し距離を置いていた。
澪さんがことば帳に書いた言葉は、わたし自身にも跳ね返ってきていた。
知りたい。
わたしも、まだ知りたいのかもしれない。
戻ってきたことは間違いじゃないと。休んでいることは逃げじゃないと。壊れてしまった自分を抱えたまま、それでも次へ行っていいと。
そういうことを、誰かに言ってもらうのではなく、自分で知りたい。腹の底から、本当にそう思える日が来てほしい。
空が暗くなっていた。道後の夜の匂いがして、どこかから温泉の湯気が流れてくる。
ことの葉亭の看板が、暗がりの中にぼんやりと浮かんでいた。
わたしはまた歩き始めた。足どりは、来た頃より少しだけ、確かになっていた気がした。
その夜、六号室でことば帳を開いた。
澪さんの一行を見た。行きたい場所があるのは、わるいことじゃないと知りたい。
ボールペンを取り出した。
今夜こそ書けるかもしれない、という気持ちが少しあった。白石さんに言われた言葉も、湊人さんが話してくれたことも、澪さんが残した一行も、全部がどこかでわたしの中に積み重なっていた。
でも、手を紙に近づけると、また止まった。
言葉が来ない、のではなかった。来すぎて、どれを選べばいいのか分からなかった。書きたいことが、ぼんやりとした塊のまま胸の中にあって、それを一行に絞る勇気が、まだなかった。
ボールペンをキャップに戻して、ことば帳を閉じた。
でも今夜は、後ろめたさが昨日より少し薄かった。
書けないのではない。まだ選んでいない。その違いが、今夜は少しだけはっきり分かった。それだけで、何かが微かに前に動いた気がした。
窓の外で、風が松の枝を揺らした。葉擦れの音が、静かな宿の夜に小さく広がった。




