第四章 白い湯気と黒い鞄
五月の半ばになると、連休の観光客が引いて、道後は少し静けさを取り戻した。
にぎわいがなくなったわけではない。ただ、人の流れが落ち着いて、宿泊客の顔が少し変わった。団体よりも一人旅や二人連れが増えて、温泉街をゆっくり歩く人の姿が目立つようになる。喧騒の中よりも、こういう時期の道後の方が、この町の本来の空気に近い気がした。
おばあちゃんもそう思っているのか、連休明けの数日は、どこかほっとした顔をしていた。
わたしも、宿の仕事のリズムがようやく体に入ってきたと感じていた。何をいつやるか、次に何が必要か、客の様子から何を読み取るか。言葉で説明されたわけでも、手順書があるわけでもないが、おばあちゃんの動きを見て、繰り返すうちに、少しずつ分かってくることがある。
それが面白い、と思い始めていた。
思い始めていた、というのは、まだ素直に面白いと言い切れない部分もある、ということだ。でも確かに、そういう芽が出てきていた。
白石恒一郎さんが来たのは、五月の末のことだった。
チェックインの時間より少し早く、黒い革の鞄をひとつ持って、引き戸をそっと開けた。帳場にいたわたしが顔を上げると、細身の男性が立っていた。六十代だろうか。猫背気味で、古い型の眼鏡をかけている。服装は地味で、どこかに行くというより、ただそこにいるために来た、という感じの佇まいだった。
「白石です。三泊の予約を入れております」
「はい、お待ちしておりました」
名前を確認して予約帳と照らし合わせると、確かに白石恒一郎という名前で予約が入っていた。おばあちゃんから「常連さんが来るから」と言われていた人だと分かった。
鍵をお渡しして、部屋へご案内しましょうかと言うと、「ひとりで大丈夫ですよ」と短く断られた。断り方が刺々しいわけではなく、ただ必要ない、という言い方だった。慣れているのだ、この宿に。
白石さんは鍵を受け取って、廊下の奥へ歩いていった。背中が小さくなるのを見送りながら、わたしはなんとなく、この人はここに何度も来ているのだろうと思った。足の運び方が、迷いのない人のそれだった。
夕食のあと、おばあちゃんが白石さんと少し話しているのが聞こえた。
廊下の向こうから、声の断片が届いてくる。おばあちゃんが何かを言って、白石さんが短く返す。長い会話ではなかったが、間の取り方がなじんでいた。長い付き合いの人たちの、言葉の少ない会話だと分かった。
翌朝、わたしが朝食の盆を運ぶと、白石さんはすでに起きていて、縁側で窓の外を眺めていた。
朝の食卓には、砥部焼の小鉢をいくつか並べた。白地に藍の模様が入るだけで、いつものおかずも少しだけきちんとして見えた。
「失礼します」と声をかけて盆を置くと、白石さんはこちらを一瞥してから、また窓の外に目を向けた。
「あなたが新しいお手伝いの方ですか」
「はい。女将の孫で、由良と申します」
「そうですか」
会話はそこで終わった。わたしは会釈をして部屋を出た。
廊下に出てから、何か変な人だな、と思った。感じが悪いわけではない。ただ、言葉が必要最小限で、それ以外を一切加えない。挨拶の体裁のためだけに言葉を使わない、という感じだった。
その日の昼過ぎ、帳場でわたしが予約の確認をしていると、廊下から白石さんが現れた。
特に用事がありそうな様子ではなかった。散歩から戻ってきたのか、黒い鞄を片手に持っている。帳場の前を通り過ぎようとして、ふと足を止めた。
視線が、カウンターの脇に置かれたことば帳に向いた。
二秒か三秒、そこを見てから、白石さんはわたしの方に目を移した。
「そのノートを、気にしていましたね」
「え?」
「昨日から、何度かそちらを見ていた」
指摘されて、わたしは少し面食らった。自分では意識していなかったが、確かにことば帳は気になっていた。あの女性客が書いていった一行が頭に残っていて、つい視線が行ってしまっていたのかもしれない。
「……読んでいいものか、迷っていて」
「開いているのに?」
「開いているのと、読んでいいのは、少し違う気がして」
白石さんは少し黙った。それから、帳場の前に歩み寄ってきた。
「言葉というのは、案外、書いた本人より正直ですよ」
穏やかな声だった。断言でもなく、諭すでもなく、ただ事実を差し出すような言い方だった。
「どういう意味ですか」
「書いた本人は、自分が何を書いたか、正確には分かっていない。言葉にした瞬間に、思っていた以上のものが出てしまうことがある。あとで読み返して、こんなことを思っていたのか、と気づく。そういうものです」
「それは……」
「読む側も同じです。あなたが何かを読んで引っかかるとしたら、引っかかる部分が、あなたの中にあるということです」
白石さんはそれだけ言って、廊下の奥へ歩いていった。
わたしはしばらく、ことば帳を見ながら立っていた。
引っかかる部分が、あなたの中にある。
元気じゃないまま来ても、来てよかった、という一行が引っかかったのは、そういうことだったのだろうか。あの言葉がわたしに刺さったのは、わたしの中にも、それと同じ形の空洞があるからだったのだろうか。
むっとするような、腑に落ちるような、妙な感覚だった。
その夜、おばあちゃんに尋ねた。
「白石さんって、どんな方なんですか?」
おばあちゃんは湯飲みを両手で包みながら、「随筆家よ」と答えた。
「随筆家」
「文章を書く方。昔、本を何冊か出して、今も書いているみたい。松山には縁があって、定期的にいらっしゃるの。もう十年以上」
「ことば帳のことも知っているんですか?」
「よくご存じよ。最初にいらした頃から、ときどき読んでおられる」
「書いたことは?」
おばあちゃんは少し考えるような間を置いた。
「それは、聞いたことがないわね」
書く人が、書かない。それがどういうことなのか、わたしにはまだよく分からなかった。
「宿の記念帳、って感じじゃないんですよね、あれ」
おばあちゃんはわたしの言葉を聞いて、少し目を細めた。
「由良はそう感じた?」
「言いそびれたものが残る場所、みたいな」
「誰かに言われた言葉?」
「……白石さんに。直接じゃなくて、でもたぶんそういう意味のことを」
おばあちゃんはそっか、とだけ言って、湯飲みを口に運んだ。肯定でも否定でもない、受け取りました、という返事だった。
「由良はまだ書いてないの?」
「書けなくて」
「そう」
それ以上、おばあちゃんは何も言わなかった。書きなさい、とも、無理しなくていい、とも言わなかった。ただ「そう」と受け取った。
その夜、六号室でことば帳を開いた。
最後のページの余白を見た。ボールペンを手に取った。何か書けるかもしれない、と思った。
でも、手が止まった。
何を書けばいいのか、ではなかった。書きたいものは、うっすらとあった。でも、それを言葉にした瞬間に形が変わってしまう気がして、踏み込めなかった。
白石さんの言葉が戻ってきた。書いた瞬間に、思っていた以上のものが出てしまうことがある。
それが怖かったのかもしれない。
言葉にしてしまったら、自分が本当にどういう状態だったかが、はっきり見えてしまう。曖昧なままにしておけば、まだどちらにも転べる。でも書いてしまったら、それが自分の現実になる。
ボールペンをキャップに戻して、ことば帳を閉じた。
後ろめたい、と思った。書けないのではなくて、書かないことを選んでいる。その違いを、今夜初めてはっきり感じた。
翌朝、白石さんが朝食を終えて部屋に戻る前に、廊下でまた少しだけ言葉を交わした。
「昨日はありがとうございました」
わたしが言うと、白石さんは眼鏡の奥で少し目を細めた。
「何のことですか」
「ことば帳の話」
「何か参考になりましたか」
「むっとしました、最初」
白石さんは小さく、本当に小さく、口の端を動かした。笑った、と言っていいのかどうか分からない程度の変化だったが、その場の空気が少しだけ緩んだ。
「正直ですね」
「そう言われました、人に」
「いいことですよ」
「でも損します」
「言葉を扱う仕事をしていた人には、損の方が多いかもしれませんね。ただ」
白石さんは少し間を置いた。
「正直な言葉は、あとで読んでも本物です。うまく整えた言葉は、あとで読むと空洞があります」
「後で読む機会が、あればの話ですが」
「書けば残ります」
それだけ言って、白石さんは自分の部屋へ向かった。
わたしは廊下でしばらく立ったまま、その背中を見ていた。
書けば残る。
残したくないから書かないのか、残し方が分からないから書けないのか。
自分でもまだ分からないまま、でもその問いだけが、今朝のわたしにはっきり残った。




