第三章 残る人、戻る人
五月に入ると、道後の人出がまた増えた。
連休を利用した観光客が、温泉本館の前に列を作っている。商店街には呼び込みの声や、写真を撮る人たちの笑い声が重なっていた。ことの葉亭は六室しかないので派手に混むわけではないが、それでも連日の満室が続いていた。
わたしは朝から動き続けた。
布団を上げ、部屋を整え、食事の準備を手伝い、帳場に立ち、また掃除をする。体は確実に慣れてきていて、最初の頃ほど夜に堪えることはなくなっていた。動いている間は余計なことを考えなくて済む、というのは本当で、忙しい日の夜ほど、布団に入るとすぐに眠れた。
忙しさで塗りつぶした一日が、悪くない、と思い始めていた。
それが良いことなのか悪いことなのかは、まだ判断できなかったけれど。
その日の昼過ぎ、帳場で予約帳を整理していると、引き戸があいて人が入ってきた。
観光客ではない、と直感的に分かった。荷物を持っておらず、動きに迷いがない。この辺りの地理を体で知っている人の歩き方だった。
二十代の後半から三十手前くらいだろうか。長身で、薄い水色のシャツを着ている。顔立ちはやわらかく、笑うと人懐こそうに見える。こちらに気づくと、軽く会釈をした。
「こんにちは。久米と申します、花の木旅館の者です。女将さん、いらっしゃいますか」
花の木旅館は、ことの葉亭から坂を少し下ったところにある老舗だ。宿泊客の数もうちの何倍もあり、観光協会との関係も深い。
「少々お待ちください」
わたしはおばあちゃんを呼びに行った。
おばあちゃんは厨房にいて、すぐに帳場へ出てきた。
「湊人さん、いらっしゃい」
「お邪魔します。連休の集まりの件で少し確認したいことがありまして」
二人はそのまま帳場脇の小上がりへ移って、観光協会が主催する商店街のイベントについて話し始めた。わたしは帳場の仕事を続けながら、その会話を半分くらい聞いていた。
湊人さんと呼ばれた人は、話しながらよく笑い、相槌が自然で、おばあちゃんとの間に気詰まりなところがひとつもなかった。地元で生まれ育って、今もここで働いている人の空気が、全身からにじんでいた。
ただ、笑い終えたあとに、ほんの一瞬だけ表情が抜けることがあった。誰にも見せるつもりのない疲れが、まばたきの間だけ浮いて、すぐにまた人当たりのいい顔に戻る。その変化が、なぜか少し気になった。
話が一区切りついた頃、湊人さんがこちらを見た。
「帳場の方、初めてお見かけしますね」
「ああ、由良ちゃんか。二宮由良。東京から戻ってきたの」
おばあちゃんがそう紹介してくれたので、わたしは軽く頭を下げた。
「あ、はい。孫です。少しの間、手伝いをしていて」
湊人さんは少し目を丸くして、それから人懐こい笑顔になった。
「そうなんですね。松山のご出身で?」
「はい。高校まではここで」
「じゃあ道後も子どもの頃から」
「一応は」
一応は、という言い方が自分でも少し可笑しかった。生まれ育った土地なのに、一応という言葉をつけている。
湊人さんは特にそこを突っ込まず、「宿の仕事は慣れましたか?」と尋ねた。
「少しずつ」
「そうですよね、最初は体に来ますよね」
彼はそう言いながら、自分も旅館に入ったばかりの頃の話をした。先代の女将に布団の畳み方を何度やり直しさせられたか、仲居さんの動き一つひとつに意味があることを知らずに怒られたか。笑い話として話してくれたが、その中に、この仕事を続けてきた年数が確かに入っていた。
わたしは相槌を打ちながら、少しだけ落ち着かない気持ちになっていた。
まぶしい、と思ったのだと思う。自分の場所がある人の、あの独特のまぶしさ。ここに立っていていい、という迷いのなさが、眩しくて、少しだけ目をそらしたくなる感じ。
帰り際、湊人さんは玄関で靴を履きながら、こちらに向き直った。
「東京から戻ってこられたんですね」
「はい」
「戻れる場所があるのはいいですね」
軽い口調だった。悪意は、どこにもなかった。むしろ、本当にそう思っているような、素直な声だった。
なのに、わたしは、その言葉に何か引っかかった。
どういう意味での、いいですね、なのだろう。羨ましい、という意味なのか。あるいは、戻れるんだからよかったじゃないか、という意味なのか。
もしかしたら、どちらでもなくて、本当にただの言葉だったのかもしれない。
でも引き戸が閉まったあと、わたしはしばらくそこに立ったまま、うまく気持ちを整理できなかった。
夕方、カフェ・コウノに寄ると、佐和さんに湊人さんの話を少しだけした。
「花の木の久米くんでしょ。知ってるよ。地元じゃ顔が広い人」
「いい人そうでした」
「いい人だよ。ただ、いい顔しすぎるところはある」
「いい顔しすぎる?」
佐和さんはコーヒーを淹れる手を止めず、「本音をあんまり見せないってこと」とさらりと言った。
「地元でずっと仕事してたら、そうなるのかもしれないけどね。みんなの顔を知ってる分、下手なこと言えなくなる」
「地元に残った方が大変、ってこともあるんですかね」
「あるでしょ、絶対」
佐和さんは即答した。
「出ていく方も大変だけど、残る方も大変なの。出ていった人は出ていった人で、外と比べて地元を見るでしょ。残った人は残った人で、出ていった人と自分を比べて、ここで生きていくことを選び続けなきゃいけない。どっちが楽とか、どっちが正解とか、そういうことじゃないんだよね」
わたしはコーヒーカップを両手で包んで、その言葉を少し転がした。
戻れる場所があるのはいいですね、という湊人さんの声が、また耳に戻ってきた。
あれは、羨ましさだったのかもしれない。でも、湊人さんが羨ましいと感じているのは「戻れること」ではなくて、「一度出たこと」の方なのかもしれない。
出たことがある人には、ここから見えなかったものが見えている。その景色を、残った人は持てない。
逆に、残った人には、この土地の深さが染み込んでいる。その感触を、出た人は持てない。
どちらが正解でもなく、どちらが損でもなく、ただ違う場所に立っている。なのにわたしは、湊人さんの言葉を「また戻り組と思われた」と受け取りかけていた。
それはわたしが、まだ自分の帰郷を後ろめたく思っているからだ、と気づいた。
「由良ちゃん、顔に出やすいよ」
「そうですか」
「何か考えてる時、口元が少し固くなる。東京でも苦労しただろうね」
「……してました」
「でしょ」
佐和さんは笑って、「もう一杯飲む?」と聞いた。わたしは、お願いします、と答えた。
帰り道、坂を上りながら、湊人さんのことをもう少し考えた。
彼は何を抱えているのだろう、と思った。あの人懐こい笑顔の後ろに、佐和さんが言ったような「いい顔をし続けること」の疲れがあるとしたら。家業を継ぐことを、迷いなく選んだわけではないとしたら。
分からない。一度会っただけで、そんなことは分からない。
でも、「戻れる場所があるのはいいですね」という言葉が、単純な羨ましさではなく、もっと複雑な何かを含んでいたとしたら。わたしが感じた引っかかりは、責められたからではなくて、その複雑さに触れたからだったのかもしれない。
坂の途中で立ち止まると、夕暮れの道後が見下ろせた。
温泉本館の屋根が、夕焼けに染まってオレンジ色になっている。路面電車が音を立てて走っていく。観光客が写真を撮っている。地元の人が自転車で横を通り過ぎる。
同じ景色を見ているのに、見え方が違う。
わたしには、数年ぶりに帰ってきた目で見えるこの町がある。湊人さんには、ずっとここにいた目で見てきたこの町がある。どちらが正しい見方とも言えなくて、どちらかが欠けているとも言えない。
ただ違う、それだけだ。
なのに、その「ただ違う」ということを、わたしはまだうまく受け取れていない。
ことの葉亭の看板が見えてきた。木の文字が夕光を受けて、少しだけ温かい色になっている。
わたしはまた歩き始めた。
宿の引き戸をあけると、おばあちゃんがちょうど夕食の準備を始めていた。エプロンをしながら「ちょうどよかった、手伝って」と言う。わたしは鞄を帳場の隅に置いて、厨房へ向かった。
今夜の宿泊客は五組。満室だ。動き続ければいい。
そう思いながら、でも頭の片隅に、あの「いいですね」という声が、まだかすかに残っていた。




