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ことば湯、ひとしずく――道後の小さな宿に、言えなかった想いを置いていく  作者: 明石竜


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18/19

第十八章 わたしの言葉で

 十二月の下旬になった。

 おばあちゃんの体は、少しずつ戻ってきた。完全ではないが、帳場に出てくる時間が増えて、厨房に立つ時間も少しずつ長くなっていた。医者には無理をしないよう言われていて、わたしがそれを守らせようとすると、「少しくらい動かないと体が鈍る」と言い返された。少しも変わっていない、と思いながら、でもその言い返し方がいつも通りで、ほっとした。

 佐和さんは、おばあちゃんの体調が落ち着くまで、週に二、三度顔を出してくれていた。店を早く閉めて来てくれることに恐縮すると、「年末は常連さんしか来ないから」とあっさり言った。その常連さんたちも、女将さんが早く良くなるよう、と伝言を持ってきてくれるのだと、佐和さんは笑いながら話した。

 道後は狭い町だ。でも、狭いから温かいこともある。おばあちゃんが言っていた言葉の意味が、今は体で分かった。

  

 年末のある夜、わたしは実家に泊まった。

 おばあちゃんの体調が安定してきて、宿に張り付いている必要が薄れてきたタイミングだった。久しぶりに自分の部屋に戻ると、来たときのままのものが残っていた。本棚の本、机の上に置きっぱなしにした文房具、クローゼットの中の服。東京から引き払ってきたものと、高校の頃から残っているものが混ざっていた。

 夕食は三人でとった。

 お父さんと顔を合わせるのは、言い合いの夜以来、少し間があいていた。表面は普通に接していたが、二人の間には、まだあの夜のことが宙に浮いていた。言いすぎた部分への謝りも、言ったことへの整理も、まだ済んでいなかった。

 食事の間、お父さんはわたしに直接話しかけなかった。テレビの話をお母さんとして、時々わたしの皿を見て、少し何か言おうとして、やめていた。

 その様子が、もどかしくもあり、少し可愛くもあった。

 可愛い、という言葉をお父さんに使うことは、これまでなかった。でも今夜は、そう思った。言い方が分からないまま、でも何かを言おうとしている。不器用で、でも諦めていない。

 食後、お母さんが台所に立ったとき、居間にお父さんとわたしだけになった。

 テレビがついていた。でも、二人ともほとんど見ていなかった。

「由良」

「うん」

「先月は、悪かった」

 短かった。でも、言った。

 お父さんが謝るのを、わたしはほとんど聞いたことがなかった。謝り方を知らない人だと思っていた。でも今夜、言った。不器用で、最小限の言葉だったが、言った。

「わたしも、言い方が悪かった」

「内容は、間違ってなかったと思う」

 お父さんがそう言ったとき、少し驚いた。

「お前が言ったことは、当たってた。俺は心配してるつもりで、傷つけることを言ってきた。それは、そうだったんだと思う」

「お父さんが心配してることは、分かってた」

「分かってても、傷つくよな」

「うん」

「どう言えばよかったのか、今でも分からん。でも、悪かったと思ってる」

 それだけだった。長くはなかった。説明も、言い訳も、なかった。ただ、悪かったと思っていると言った。

 テレビが何かのニュースを流していた。音だけが続いていた。

「お父さん、わたし、東京で壊れてたの」

 自分でも驚いた。言おうと思っていたわけではなかった。でも、お父さんが言葉を渡してくれたから、わたしも渡せた。

「壊れた、というのは」

「限界を超えてた。朝、駅のホームで足が動かなくなる日が何度もあって。体が先に止まって、それで辞めた」

 お父さんは黙っていた。

「言えなかったのは、お父さんが怖かったからじゃない。ちゃんと言葉にすると、本当のことになる気がして。壊れてしまった自分を、認めたくなかったから」

「そうか」

「でも、認めないでいることで、もっと遠回りした気がする」

 お父さんはしばらく黙っていた。テレビの音だけが続いていた。

「医者には行ったか」

「行ってない。でも、今は眠れてるし、ちゃんと動けてる」

「それならいい」

 不器用な安堵の言い方だった。でも、それがお父さんだった。長い言葉でなくても、それがお父さんの受け取り方だった。

 お母さんがお茶を持って戻ってきた。三人でお茶を飲んだ。

 話の続きは、しなかった。でも、しなくていいと思った。今夜言えたことで、十分だった。

 完全な和解ではなかった。積み重なってきた言えなかったことが、今夜全部解けたわけではない。でも、二人の間に少し風が通った。詰まっていたものが、ほんの少しだけほどけた。


             ☆


翌日は薄曇りだった。雨こそ降っていないが、湿り気が空気に残っていて、障子越しの光もどこか白い。帳場の窓を少しだけ開けると、外から湯の匂いと、商店街の遠いざわめきが入ってきた。

 昼の片づけが終わると、宿の中はいったん静かになる。

 朝食の盆を下げ、布団を上げ、掃除をして、次の客を迎える準備を整える。その流れがひと区切りつく頃には、もう昼を少し回っている。午前中の慌ただしさが嘘みたいに、ことの葉亭の廊下にはゆるやかな静けさが戻っていた。

 わたしは帳場の前で布巾を畳みながら、脇に置かれたことば帳を見た。

 薄い緑の表紙は、今日も変わらずそこにある。何度も人の手を渡ってきた角の丸みも、少し黒ずんだ端も、もう見慣れた。宿泊客の中には、気づいて手に取る人もいるし、最後まで気づかない人もいる。気づいても、そのまま通り過ぎる人もいる。

 それはそれでいいのだと思う。

 書きたい人が書いて、読みたい人が読む。ただ置いてあるだけ。最初におばあちゃんが言った通り、ことば帳はそういうものだ。

 でも、とわたしは思った。

 最初のわたしは、これがどういうものか分からなかった。開いていいのかも、読んでいいのかも、書いていいのかも、よく分からなかった。そこにあるだけで救われることもあるけれど、そこにあるだけでは届かない人もいるのかもしれない。

 ことば帳の前で立ち止まって、でも手を伸ばさずに戻っていった人たちの背中が、いくつか思い出された。

 澪ちゃんも、最初は少し迷っていた。あの雨の夜の三浦さんもそうだった。読むだけでも大丈夫です、とひと言添えたら、少しだけ肩の力が抜けた気配があった。あのひと言は、ノートそのものの意味を変えたわけじゃない。ただ、近づくための一歩ぶんだけ、足場になったのだと思う。

 布巾を重ね終えても、視線はことば帳から離れなかった。

読むだけでも、書いても、そのままでも大丈夫です。

 そんな言葉が頭に浮かんだ。

 浮かんで、それから、すぐに引っ込めた。勝手なことかもしれない、と思ったからだ。ことば帳はずっとこの宿にあった。わたしが来るずっと前から、たくさんの人がそこへ言葉を置いていった。そのあり方に、あとから来たわたしが何かを足していいのだろうか。

 でも、その考えもすぐには消えなかった。

 足す、というより、入口を少し見えやすくするだけなら。

 何かを説明しすぎるのではなくて、最初の一歩だけ渡すのなら。

 それは、この宿のやり方から外れすぎてはいない気もした。

 帳場の中に入って、小さなメモ帳を探す。厚手の紙が何枚か残っていた。試しに一枚取り出して、筆ペンではなく細い黒のペンで書いてみる。

 書いても、読んでも、そのままでも大丈夫です。

 書いてから、少しだけ眺めた。

 悪くない気もしたし、余計な気もした。やさしすぎるだろうか。説明しすぎているだろうか。いや、それくらいでいいのかもしれない。考えれば考えるほど分からなくなった。

 わたしはその紙を持ったまま、厨房の方へ向かった。

 おばあちゃんは流しの前で、夕食用の野菜を切っていた。包丁の音が、まな板の上で規則正しく続いている。

「おばあちゃん」

 声をかけると、おばあちゃんは手を止めずに「なあに」と返した。

「あの、ちょっと見てほしいものがあるんだけど」

 そこで初めて、少し緊張している自分に気づいた。宿泊客に話しかける時とは違う、変な緊張だった。反対されるのが怖いというより、笑われるのが嫌なのかもしれない。そんな大げさなことをしなくてもいいのに、と言われるのが、少しだけ怖かった。

 おばあちゃんは包丁を置いて、手を拭き、わたしの差し出した紙を見た。

 しばらく何も言わずに読む。

 それから顔を上げて、わたしを見た。

「これを、ことば帳のそばに置きたいの?」

「……うん」

「どうして?」

 責める声ではなかった。ただ理由を聞いているだけの、いつもの声だった。

 でも、その「どうして」があるだけで、自分が何をしたいのかを曖昧なままにできなくなる。わたしは紙を持つ指先に少し力を入れた。

「最初、わたしも、あれがどういうものか分かりにくかったから」

「うん」

「読むだけでいいって分かった時、少し近づきやすくなった気がして。書く人じゃなくても、読んで帰る人がいてもいいし、何もしない人がいてもいいって、最初に分かるだけで、少し違うかなと思って」

 言いながら、自分の中で言葉が形になっていく感じがした。

「ことば帳って、何かを言える人のためだけのものじゃない気がして。まだ言葉になってない人とか、書くつもりはないけど少しだけ触れたい人とか、そういう人にも近くあってほしいっていうか」

 最後の方は少し曖昧になった。でも、いちばん言いたかったことはたぶんそこだった。

 おばあちゃんはまた紙に目を落とした。

 流しの向こうで、鍋の湯が小さく鳴っている。窓の外からは、商店街の方のにぎわいがかすかに聞こえた。

「いいんじゃない」

 おばあちゃんはそう言った。

「ほんとに?」

「由良が置きたいと思うなら、置いてみたらいいよ」

「勝手じゃない?」

「勝手かどうかは、置き方しだいだね」

 おばあちゃんは目を細めて、紙をもう一度見た。

「大きすぎないし、説明しすぎてもいないし。ことば帳の邪魔をしないなら、いいと思うよ」

「……そっか」

「由良は、ここに来た人が少し近づきやすくなる方がいいと思ったんでしょう」

「うん」

「じゃあ、それで十分」

 それだけ言って、おばあちゃんはまた包丁を取った。

 十分。

 その言葉に、わたしは知らないうちに息を吐いていた。もっと理由を求められるかと思っていたし、もっと慎重に考えなさいと言われるかもしれないとも思っていた。でも、おばあちゃんはいつものように、必要なぶんだけ受け取って、それ以上は足さなかった。

 わたしは紙を持ったまま、しばらくそこに立っていた。

「ありがとう」

「うん。置くなら、目立ちすぎないようにね」

「分かってる」

「分かってる顔だね」

 少しだけ笑う声がした。わたしも、つられて少し笑った。


 その日の午後、帳場に戻ってから、わたしは厚紙を小さな札の形に切り直した。紙のままだと軽すぎて、風で飛びそうだったからだ。角を少し丸くして、表面を整えてから、もう一度同じ文を書く。

 書いても、読んでも、そのままでも大丈夫です。

 さっきより、字が少し落ち着いていた。

 札の後ろに細い木片を当てて立てられるようにし、ことば帳のすぐ脇へ置いてみる。近すぎると説明札みたいで堅いし、離れすぎると意味がない。その間を何度か動かして、一番しっくりくる位置を探した。

 派手ではない。目立ちすぎもしない。ことば帳の景色を壊していない、と思う。

 帳場の向こうから見ると、そこに前からあったみたいに馴染んでいた。

 おばあちゃんが通りがかりにちらりと見て、「うん」とだけ言った。それで十分だった。

 夕方、最初の客がチェックインした。

 二人連れの女性客で、観光の話をしながら賑やかに部屋へ向かっていった。二組目は年配の夫婦で、温泉本館の混み具合を気にしていた。ことば帳の方には目も向けなかった。

 三組目は、一人旅らしい男性だった。四十代くらいで、小さなボストンバッグを持ち、チェックインの間もあまり多く話さない。鍵を渡して案内を終えたあと、その人はふと帳場の脇を見た。

 ことば帳と、その横の小さな札。

 立ち止まるほどではなかったが、確かに目が留まったのが分かった。

 その夜、夕食の片づけを終えて帳場へ戻ると、ことば帳の位置が少しだけずれていた。誰かが手に取ったのだと分かる、ほんのわずかなずれだった。

 胸が、小さく動いた。

 開いたのかもしれない、と思った。でも、誰がどうしたかを確かめたいわけではなかった。置いた札が、少なくとも誰かの視線を一度は止めた。そのことが、確かにうれしかった。

 翌朝、例の男性がチェックアウトしたあと、わたしはことば帳を開いた。

 新しい字が、最後の方のページに一行だけ増えていた。


 読んだだけでも、少し落ち着きました。


 それだけだった。

 書いた人が誰なのかは分からない。分からなくていい。でも、その一行を見た瞬間、昨日の自分の小さな札が、ちゃんと誰かに届いていたのだと知った。

 何か大きいことをしたわけじゃない。

 宿の売上が増えたわけでもないし、誰かの人生が変わったわけでもない。言葉を足しただけだ。ほんの一歩ぶん、近づきやすくしただけ。

 でも、その一歩があるだけで、触れられるものもある。

 ことば帳を閉じながら、わたしはそれを自分のこととしても考えていた。

 もし最初のわたしに、この札があったらどうだっただろう。たぶん劇的には変わらない。でも、少しだけ早く手を伸ばせたかもしれない。少しだけ、自分だけが立ち止まっているわけじゃないと思えたかもしれない。

 帳場の窓から、朝の光が差し込んでいた。白木のカウンターの上に、やわらかい明るさが広がっている。ことば帳の脇には、昨日置いた小さな札が変わらず立っていた。

 そこにあるのは、古いノートと、短い一文だけだ。

 でも、その景色の中に、昨日までなかったわたしの判断が、ほんの少しだけ残っていた。

 それが妙に、胸に残った。

 宿を手伝う、というと、これまでは言われたことをこなすことだと思っていた。掃除をして、配膳をして、帳場に立って、足りないところを埋めること。それももちろん大事だ。でも、それだけじゃないのかもしれない。

 ここに来る人が、少しだけ息をしやすくなるように考えること。何も言えない人が、言わなくてもいられる場所を整えること。そういうこともまた、この宿の仕事なのだとしたら。

 わたしはまだ、客としてここにいるのか、孫としているのか、手伝いの人としているのか、自分でもよく分からない。先のことはもっと分からない。

 それでも、今朝はひとつだけ確かなことがあった。

 わたしは昨日、自分で考えて、自分で置いた。

 小さなことだ。でも、来たばかりの頃のわたしなら、たぶんしなかったことだと思う。

 帳場の向こうで、おばあちゃんが「由良、お湯わいたよ」と声をかけてきた。

「今行く」

 返事をして、わたしはことば帳を元の位置へ戻した。脇の札も、ほんの少しだけ向きを整える。

古い宿の朝の光の中で、それは前からそこにあったものみたいに、ひっそりと立っていた。


 翌日の昼過ぎ、わたしはその札をもう一度だけ見てから、帳場の前に立った。

 おばあちゃんはそこで、帳簿を広げていた。顔を上げて、わたしを見た。

「泊まれた?」

「泊まれた。お父さんと少し話せた」

 おばあちゃんは何も聞かなかった。ただ、少し目を細めた。

 その目が、よかったね、と言っていた。

  

 大晦日の夜、宿の仕事を終えると、おばあちゃんとわたしは帳場に並んでいた。

 宿泊客は二組。どちらも温泉へ出かけていた。宿の中は静かで、年末の夜の重さが、廊下や畳の上に穏やかに落ちていた。

 お茶を飲みながら、しばらく二人とも何も言わなかった。

 言わなくていい時間だった。ここに来て、こういう時間を好きになっていた。言葉がないことが、不安ではなくなっていた。

「おばあちゃん」

「うん」

「話したいことがある」

 おばあちゃんは帳簿から顔を上げて、わたしを見た。

「聞こうか」

「すぐに宿を継ぐとは、まだ言えない。次のことがちゃんと見えていないし、現実として続けていけるかどうか、分からないことの方が多い」

「うん」

「でも、ここにいたいと思ってる。もう少し、ここで働きながら、自分の言葉と生活を立て直したい。一か月のつもりで来て、八か月になるけど、それはわたしにとって必要な時間だった」

 おばあちゃんは黙っていた。

「おばあちゃんが倒れたとき、怖かった。でも、宿を回しながら、今日一日はやれると思えた。やりたいからやってる、という気持ちが、今は少しあって。その気持ちを、もう少し確かめたい」

「確かめ方は」

「ここで続けること。逃げるんじゃなくて、ここを選んでいること。選んでいる自分がどういう感じかを、もう少し知りたい」

 おばあちゃんはしばらくの間、湯飲みを両手で包んでいた。

「由良が決めたことなら、いい」

「それだけですか」

「それだけ」

「嬉しいとか、安心したとか、ないんですか」

「ある。でも、由良の言葉に乗っかりすぎると、由良が選んだ気持ちが薄れる気がして」

「乗っかりすぎない」

「そういう人なの、わたしは」

 おばあちゃんはそう言って、お茶を飲んだ。

 その言い方の中に、長い時間をかけて作られたものがあった。孫の選択を、喜びで押し流さない。受け取ったことだけを伝えて、あとは由良の手に返す。それがおばあちゃんのやり方だった。

「ありがとう」

「何が」

「迎えてくれたこと。ただいまを受け取ってくれたこと。それから、ここで待っていてくれたこと」

 おばあちゃんは何も言わなかった。

 でも、目尻のしわが深くなった。笑うと出るしわだった。

  

 その夜、六号室で、わたしはことば帳を開いた。

 三行と、余白の書き添えが、そこにある。

 大丈夫じゃなかったと言うのは、わがままだと思っていた。

 言えなかったのは、言葉がなかったからじゃなくて、聞かれたくなかったからかもしれない。

 やりたいからやっている日は、どんなに疲れても、壊れなかった。

 そして、余白に書き添えた「まだ途中」という言葉。

 読み返した。

 これらはどれも、うまくない。詩的でも、整ってもいない。でも、書いた瞬間のわたしの正直な言葉だった。それは今も変わらない。

 ペンを取った。

 今夜書こうとしていた言葉は、ある。今夜お父さんに話したあとから、頭の中にあった。おばあちゃんに話したあとで、形がはっきりした。

 書いた。


 戻ってきたのは、終わったからじゃなく、もう一度始めるためだった。

 

以前、一度書いてから、まだ本当じゃないと思って「まだ途中」と書き添えた言葉と、同じ言葉だった。

 でも今夜は、違う重さで書けた。

 以前書いたとき、この言葉は少し先の言葉だった。自分を鼓舞するための言葉で、まだ本当になっていなかった。だから「まだ途中」と書き添えた。

 でも今夜は、本当のこととして書けた。

 戻ってきたのは、終わったからではない。東京での日々が終わったのは、確かだ。壊れてしまったことも、本当だ。でも、わたしが終わったわけではなかった。ここへ来て、少しずつ言葉を取り戻して、人と関わって、仕事を覚えて、怖くても選ぼうとしている。それが、もう一度始めることだった。

 始まっていた。

 いつから始まったか分からないが、気づいたら始まっていた。

 最初の一行を書いたときから、始まっていたのかもしれない。大丈夫じゃなかったと書いた夜から。いや、もっと前から。おばあちゃんのことの葉亭の引き戸を開けて、ただいまを言った、あの四月の夕方から。

 ことば帳を閉じた。

 四行になった。

 最初の一行から、この四行目まで来るのに、八か月かかった。八か月かけて、少しずつ言葉が変わってきた。言葉が変わることは、自分が変わることだと、今夜初めてはっきり分かった。

 白石さんが言っていた。書き続けることで、自分が作られていく、と。

 作られてきた。まだ途中だが、確かに作られてきた。

  

 窓の外から、かすかな音がした。

 遠くで、除夜の鐘だった。

 道後のどこかのお寺から、深い音が一つ、夜の空に広がっていった。それが消える前に、また一つ来た。

 百八つ、全部は聞こえないだろう。でも、今夜の鐘の音を聞きながら、年が変わることを感じていた。

 来年のことは、まだ分からない。

 宿を続けるかどうか、その具体的な形も、まだ決まっていない。おばあちゃんの体のことも、自分の生活のことも、全部がまだ途中にある。

 でも、途中にあることが、今は怖くなかった。

 途中にいることは、止まっていることではない。まだ歩いている。選ぼうとしている。言葉を渡そうとしている。それが今のわたしで、それでいいと思えていた。

 除夜の鐘が続いていた。

 わたしは布団の中で、目を閉じながら、その音を聞いていた。

 道後の夜が、穏やかに新しい年へと変わっていく。

 ことの葉亭の六号室で、今夜もちゃんと眠れる。

 それが、今のわたしには十分だった。そして、十分であることが、始まりの形だと思った。


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