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ことば湯、ひとしずく――道後の小さな宿に、言えなかった想いを置いていく  作者: 明石竜


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19/19

最終章 ことば湯、ひとしずく

 三月になった。

 道後の春は、梅が先に来て、それから桜が追いかけてくる。宿の裏手に一本だけある梅の木が、今年も白い花をつけていた。おばあちゃんが毎朝縁側から眺めているのを、わたしも隣で見るようになっていた。二人で並んで、特に言葉もなく、梅の木を見る。そういう朝が、今は好きだった。

 年が明けてから、宿のことを少しずつ整理してきた。

 おばあちゃんと話して、当面はわたしが宿の運営を手伝いながら、将来的にどうするかをもう少し時間をかけて決めることになった。継ぐと決めたわけではない。でも、ここを離れると決めたわけでもない。その途中にいることを、二人で確認した。

 確認した、というのは少し大げさかもしれない。おばあちゃんはただ「そうしよう」と言っただけで、長い話し合いがあったわけではない。でも、その短い言葉の中に、二人の間で積み重なってきた時間が入っていた。

  

 澪さんから、春の報告が来た。

 短いメッセージだった。

「四月から新しい場所です。ことの葉亭のことは、ずっと覚えています」

 返信を書いた。覚えていてくれてありがとう、新しい場所でも、言いたいことを言える人でいてね、と。

 送ってから、わたしも同じだな、と思った。

 言いたいことを言える人でいること。それがどれだけ難しくて、でもどれだけ大切かを、この一年近くで知った。言えない言葉が積み重なると、自分の輪郭が見えなくなる。言えたとき、少しずつ形が戻ってくる。

 澪さんは新しい場所へ行く。わたしはここにいる。どちらも途中で、どちらも歩いている。

  

 白石さんからも、葉書が届いた。

 今年の春もそちらへ参ります、とだけ書いてあった。達筆な字で、短く。

 葉書をおばあちゃんに渡すと、「楽しみにしてる」と言った。

 わたしも楽しみにしていた。今度来たとき、白石さんに話したいことがある。ことば帳のこと、四行になったこと、それから書き続けることで作られていくという言葉の意味が、少し分かってきたこと。

 うまく話せるかどうかは分からない。でも、話そうとすること自体が、今のわたしには大事だと思っていた。

  

 佐和さんとは、変わらず週に何度か会っていた。

 三月のある昼過ぎ、カフェ・コウノで向かい合って、コーヒーを飲んでいた。

「由良ちゃん、来たときと別人みたいだよ」

「そんなに違いますか」

「全然違う。来たとき、あんなにふわふわしてたのに」

「ふわふわ」

「地に足がついてなかった。今は、ちゃんと床を踏んでる感じがする」

 床を踏んでいる。その言い方が、正確だと思った。

 来たとき、わたしはどこにも重心がなかった。東京でも松山でもなく、どこにもいない感じがあった。今はここにいる。宿の廊下を歩くとき、板の感触が足の裏に分かる。それがいつの間にか、当たり前になっていた。

「佐和さんのおかげです」

「わたしは何もしてない」

 佐和さんは、少しだけ肩をすくめた。

「してますよ。壊れてたって言えた場所が、ここだったから」

 佐和さんは少し笑った。照れているわけではなかった。ただ、受け取りましたよ、という笑い方だった。 

「由良ちゃんが言えたのよ、自分で」

「でも、場所が必要だった」

「それはそうかもしれないね」

 コーヒーを一口飲んだ。佐和さんのコーヒーは、いつも同じ苦みで、同じ香りだった。何度飲んでも、来るたびに同じ味がする。その変わらなさが、今は心強かった。

「春からどうするの、正式には」

「もう少しここで続けます。宿の仕事をしながら、自分の言葉と生活を立て直すって、おばあちゃんに言った」

「言えたんだ」

「言えました」

「よかった」

 佐和さんはそれだけ言った。おめでとう、でも、よく頑張った、でもなく、よかった、とだけ言った。その言い方が、佐和さんらしくて、好きだった。

  

 湊人さんとは、商店街で会うことが多かった。

 三月に入ってから、湊人さんは少し変わった気がしていた。観光協会の仕事を一部、後輩に任せるようにしたらしく、表情が少し緩んでいた。以前ほど、いい顔をし続けている感じがなかった。

 ある日、商店街で立ち話をしていると、湊人さんが「旅館の仕事で、やってみたいことがある」と言った。

「どんなことですか?」

「地元の人向けの、温泉利用の仕組みを作りたくて。観光客向けばかりじゃなくて、道後で生活してる人が気軽に使える形を」

「いいですね」

「父には、まだ言ってないですけど」

「言ってみたらどうですか」

「怖いですよ、やっぱり」

「でも、迷うことと、やめることは別ですから」

 路面電車の中でわたしが湊人さんに言った言葉を、今度はわたしから言った。湊人さんは少し笑って、「それ、俺が言いましたよね、最初」と言った。

「言いましたっけ」

「言いました。でも、そのとき二宮さんから返ってきたから」

 言葉は行ったり来たりする。渡した言葉が戻ってくる。戻ってきた言葉が、また誰かのところへ行く。ことば帳の言葉たちと、同じことが日常の会話でも起きていた。

「久米さん、いつか旅館の仕事以外で、別のことをやってみたいと思いますか」

「思います。今はまだ形が見えないですけど」

「途中ですね」

「途中です。でも、途中って悪くないってことを、二宮さんから教わったんで」

「お互い様ですよ」

 湊人さんは少し頷いて、「そうですね」と言った。今日の湊人さんは、いい顔ではなく、本人の顔をしていた。その顔の方が、ずっと話しやすかった。

 

 三月の終わりの夕方、ことの葉亭に一人の女性客がチェックインした。

 二十代の後半くらいだろうか。荷物は小さなリュックひとつ。帳場の前に来て、「予約した田中です」と言った。声が少し緊張していた。

「お待ちしておりました」

 鍵を渡しながら、わたしはその人の顔を見た。

 疲れていた。疲れている、というより、どこかに置いてきた何かを探しているような顔だった。目が少し宙を向いていて、でも決して弱そうではなかった。何かを決めてここへ来た人の顔だった。

 どこかで見た顔、と思った。

 見たことがある、のではなかった。この感じを知っている、ということだった。

 去年の四月、道後温泉駅を出て、キャリーケースを引いて、うまく歩けなかった日のことを思い出した。あの日のわたしに、この人の顔が似ていた。

「部屋へご案内しましょうか」

「あ、はい。お願いします」

 廊下を歩きながら、田中さんは無口だった。でも、宿の空気を吸っているような、少し深い呼吸をしていた。

 五号室の引き戸を開けて、中を案内した。窓から道後の夕暮れが見えた。田中さんは窓の前に立って、少しの間、外を見ていた。

「きれいですね」と小さな声で言った。

「はい。この時間の光が、いちばんいいと思います」

 わたしがそう言うと、田中さんはそれ以上何も言わなかった。荷物を下ろして、部屋の中をゆっくり見回していた。

「温泉本館の時間と、宿の内湯の時間は、こちらに書いてあります。夕食は七時からです」

「ありがとうございます」

 下がろうとして、引き戸に手をかけたとき、田中さんが振り返らずに言った。

「あの、ことば帳って、あるんですか」

 わたしは少し驚いた。

「ご存じでしたか」

「ネットで見て。書いた人のブログに、少し書いてあって」

「あります。帳場のカウンターに置いてあります。いつでも」

「読むだけでも、いいですか」

 おばあちゃんがわたしに言った言葉と、わたしが澪さんに言った言葉が、また戻ってきた。

「もちろんです。読むだけでも、何か書いてもいい。書けなくても大丈夫です。読むだけでも、置いていくだけでも」

 田中さんは初めて、こちらを向いた。

 ありがとうございます、と言った。言葉は短かったが、その短さの中に、今日ここへ来た理由の重さが少し入っていた。

  

 夕食が終わって、宿が静かになったあと、田中さんが帳場へ来た。

 ことば帳を手に取って、しばらく立ったままページをめくっていた。

 わたしは少し離れたところで、翌日の準備をしていた。視線をそちらに向けないようにしながら、でも気配は感じていた。

 田中さんがことば帳を読む時間は、長かった。

 最初のページから、少しずつ、丁寧にめくっていた。わたしが来た日からの言葉たちも、そこにある。その前の、何十年分の言葉たちも。

 しばらくして、田中さんがカウンターに戻ってきた。ボールペンを、そっと置いた。

「書かせてもらいました」

「はい」

「何か変なことを書いたかもしれないですけど」

「変なことはないですよ。どんな言葉でも、ここに置いていっていい場所ですから」

 田中さんは少し頷いて、部屋へ戻っていった。

 廊下が静かになってから、わたしはことば帳を手に取った。

 最後のページに、新しい言葉があった。

 丁寧な、少し小さな字だった。


 来てよかったかどうか、まだ分からない。でも、来た。

 

読んで、しばらく動けなかった。

 答えが出る前に、動いた。それでいい、と言っているような言葉だった。あるいは、答えが出ていないことを、ここに置いていきたかったのかもしれない。どちらでも、この言葉はここにある。

 ことば帳を閉じた。

 おばあちゃんが廊下を歩く音がした。夜の戸締まりをする音。鍵のカチリという音と、足音が続く。

 わたしは帳場の灯りを落とした。

 廊下に出ると、おばあちゃんが向こうから来るところだった。

「田中さん、ことば帳に書いてくれました」

 おばあちゃんは少し頷いた。

「どんな言葉だった?」

「来てよかったかどうか、まだ分からない。でも、来た、って」

 おばあちゃんはしばらく黙っていた。

「いい言葉ね」

「そう思います」

「来られただけで、十分なこともある」

 その言葉を、わたしは聞きながら、ここに来た頃の自分を思った。

 道後温泉駅を出て、うまく歩けなかった日。ことの葉亭の看板を見て、何かがほどけた日。おばあちゃんにただいまを言って、受け取ってもらった日。

 来られただけで、十分だった、あの日から始まっていた。

「おばあちゃん」

「うん」

「わたし、あの日ここに来てよかった」

 おばあちゃんは目尻のしわを深くして、ただ「そう」と言った。

 それだけだった。でも、その「そう」の中に、全部が入っていた。

  

 その夜、六号室でことば帳をもう一度開いた。

 四行と、余白の書き添えが、自分の言葉として並んでいる。

 田中さんの言葉が、最後のページに加わっている。

 わたしの最初のページの隣には、来た頃からずっとある一行がある。

 言えなかったことは、消えたことにはならない。

 この二つの言葉の間に、何十年分の言葉が重なっている。それぞれ違う人が、それぞれの事情を持って、この宿に来て、ここに置いていった言葉たち。

 この宿がある限り、言葉は積み重なっていく。

 誰かが来るたびに、新しい言葉が加わっていく。そしてその言葉が、次に来た誰かに届いていく。おばあちゃんが作ってきた場所が、言葉を生かし続けている。

 わたしがここにいることで、その場所が続く。

 まだ継ぐと決めたわけではない。でも、続けることに加わっていることは、本当だった。

 ペンを取った。

 五行目を書こうとした。

 でも、手が止まった。

 止まったのは怖さではなかった。今夜の言葉は、もう書いてあった、と気づいたからだ。

 田中さんに渡した言葉。

 書けなくても大丈夫です。読むだけでも、置いていくだけでも。

 その言葉は、かつておばあちゃんがわたしに言ってくれた言葉と、同じ場所から来ていた。おばあちゃんから受け取って、澪さんに渡して、今夜田中さんに渡した。

 言葉は、渡すことで生きる。

 書くことで残るだけでなく、渡すことで続いていく。

 それを、今夜わたしは初めてはっきりと知った。

 ことば帳を閉じた。

 五行目は、まだいい。今夜書かなくても、次に書きたいものが来たときに書けばいい。書かない夜があっても、なかったことにはならない。言えなかったことと同じように、書かなかった夜も、消えたことにはならない。

 ただ、次の言葉を待っている。

  

 翌朝、田中さんのチェックアウトの時間に、帳場でお見送りをした。

 田中さんはリュックを背負って、帳場の前に来た。昨日より少し顔が軽くなっていた気がした。疲れが消えたわけではないだろうが、何かが少し下りた顔だった。

 精算を済ませて、鍵を受け取った。

「ありがとうございました」

「またいつでも」

 田中さんは少し間を置いてから、「ことば帳の言葉、よかったです」と言った。

「読んでいただけてよかったです」

「書いた人たちのこと、会ったことないのに、何か知ってる気がして」

「そういう場所なんだと思います、ここは」

 田中さんは頷いて、引き戸を開けた。

 外に、春の光があった。道後の朝の空気に、かすかな温泉の匂いが混じっている。梅はもう終わりかけで、遠くの山に桜の気配が始まっていた。

 田中さんは一歩外に出て、それから振り返った。

「また来ます」

「お待ちしています」

 引き戸が閉まった。

 しばらく、その閉まった引き戸を見ていた。

 また来ます、と言った声が、帳場の中に少し残っていた。

 戻ってくる人がいる。この宿に、また戻ってくる人が生まれた。おばあちゃんが何十年もかけて積み重ねてきたものと、同じことが、今朝また一つ始まった。

 おばあちゃんが厨房から出てきた。

「行った?」

「行きました。また来るって言ってた」

「そう」

 おばあちゃんはそれだけ言って、帳場のカウンターを拭き始めた。毎朝する、いつもの仕事だった。

 わたしも、エプロンをつけた。

 今日の仕事を始める。客室の確認、朝食の片づけ、次の宿泊客への準備。変わらない一日が、また始まる。

 でも、変わらない一日の中に、昨日と少し違う自分がいる。

 それが積み重なっていくことを、今は怖くなかった。

 誰かの言えなかった言葉が、また小さくほどけていく。

 その場所に、今日もわたしはいた。

(了)


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