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ことば湯、ひとしずく――道後の小さな宿に、言えなかった想いを置いていく  作者: 明石竜


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第十七章 ことの葉亭の灯り

 十二月の半ば、おばあちゃんが倒れた。

 倒れた、というほどではなかった。帳場で立っていたとき、少しよろめいて、カウンターに手をついた。わたしがちょうど隣にいたので、すぐに支えることができた。顔が白くて、額に汗が滲んでいた。

「大丈夫?」

「めまいがしただけ」

「座って」

 おばあちゃんは抵抗せずに椅子に座った。抵抗しなかったことが、かえって心配だった。

 その日の午後、医者へ連れていった。近所のかかりつけ医で、おばあちゃんとは長い付き合いらしかった。検査をして、点滴を打って、過労と脱水気味だという診断が出た。入院するほどではないが、数日は安静に、と言われた。

 宿に戻る車の中で、おばあちゃんは窓の外を見ていた。

「迷惑かけるね」

「迷惑じゃない」

「今月、予約が入ってるから」

「分かってる。なんとかする」

 おばあちゃんは何も言わなかった。反論もしなかった。それが、今日いちばん心配なことだった。

  

 佐和さんに電話すると、すぐに来てくれた。

「今日は店を早く閉める。しばらく手伝う」

「でも佐和さんの店が」

「年末は常連さんが来てくれるから、少し休んでも大丈夫。それより女将さんの方が大事」

 有無を言わさない言い方だった。佐和さんらしかった。

 湊人さんにも連絡が入ったらしく、翌日の昼過ぎに顔を出してくれた。観光協会の年末の仕事がある中で、時間を作ってくれていた。

「何かできることがあれば」

「夕食の配膳と、チェックアウトの応対が助かります」

「分かりました。夕方来ます」

 二人が来てくれることで、宿は回った。わたしが中心に動いて、佐和さんが厨房を支えて、湊人さんが客との応対を手伝う。おばあちゃんが一人でやってきたことが、三人がかりでなんとか形になった。

 それを実感したとき、この宿がいかに一人の人間によって支えられていたかが、改めて分かった。

  

 三日目の夜、宿泊客が全員温泉へ出かけた時間に、三人で台所に集まった。

 佐和さんが残り物でお茶漬けを作ってくれた。湊人さんが湯飲みを並べた。わたしが漬物を出した。特に打ち合わせたわけではないが、自然にそうなった。

 三人で並んで食べながら、しばらく誰もたいしたことを話さなかった。疲れていたし、話すより先に食べることが必要だった。

 佐和さんが最初に口を開いた。

「女将さん、今日は顔色よかった」

「昨日より落ち着いてました。でも、まだ本調子じゃない」

「無理させないようにしないとね」

「させません」

「由良ちゃんがいてよかったよ、本当に」

 その言葉が、さらりと言われた分、深く届いた。

 由良ちゃんがいてよかった。

 わたしがここにいることの意味が、今夜いちばん具体的な形で見えた気がした。一か月のつもりで来て、八か月以上が経った。その間ずっと、自分がここにいることへの問いを持ち続けてきた。でも今夜、おばあちゃんが倒れて、佐和さんと湊人さんが来てくれて、三人で宿を回した。その一日が終わったとき、ここにいてよかったと思えた。理由や根拠ではなく、ただそう思えた。

「湊人さん、ありがとうございました。お仕事もあるのに」

「いや、これくらい。女将さんには世話になってきたから。俺の方こそ、二宮さんがいてくれて助かった。段取りが分かってる人がいると全然違う」

「段取り、分かってきたんですね、わたし」

「分かってるじゃないですか、十分」

「来たときは何も分からなかったのに」

「人って変わるもんですよ」

湊人さんの言い方は、さらりとしていたが、その中に何かが入っていた。

  

 片づけが終わって、佐和さんが帰ったあと、湊人さんがもう少し残っていた。

 帳場の前で、わたしが翌日の準備をしていると、湊人さんが小上がりに腰かけていた。

「二宮さん、少し聞いてもいいですか」

「はい」

「この先、どうするつもりですか。女将さんの体のこともあるし、宿のこれからのことも」

 直接な問いだった。でも、責めているわけでも、急かしているわけでもなかった。

「まだ決まってないです。でも、今日一日を通して、ここを続けたいという気持ちがある、ということは分かった」

「続けたい、と、続けると決める、は違いますよね」

「違います」

「その違いを、どうやって超えるつもりですか」

「怖いです」

 湊人さんは黙っていた。

「また間違えるかもしれない。ここを続けることが正解かどうか、分からない。好きだという気持ちだけで続けられるかどうかも分からない。おばあちゃんの帳簿を見たとき、現実の重さも分かった。それでも続けたいという気持ちはある。でも、続けると決めることへの怖さが、まだある」

「白石さんが言ってましたよ。ここで聞いた話ですけど」

「何を?」

「残るって決めるのも、出るって決めるのも、どっちも簡単じゃないって。俺も同じだと思ってます」

「久米さんは、どうやって折り合いをつけてるんですか」

「折り合い」

湊人さんは繰り返した。

「折り合い、か。うまく言えないですけど、決めたから怖くなくなる、んじゃないと思ってます。決めたあとも怖いまま進んでいくことが、決めるってことなんじゃないかな」

 白石さんの言葉と重なった。間違えると分かって選ぶことが、選ぶということです。

「久米さんも、同じことを言いますね、白石さんと」

「そうですか。会ったことほとんどないですけど」

「でも同じことを言う」

「当たり前のことだから、当たり前に思う人は同じことを言うんじゃないですかね」

 当たり前のことが、当たり前に思えない時期があった。怖いまま進んでいくことが決めるということだ、なんて、今のわたしには少しだけ分かる。でも、本当に分かるのは、決めたあとのことを経験してからだろう。

「二宮さんが本当に怖かったのって、何ですか」

 湊人さんは前にも似たことを聞いてきた。電車の中ではなく、今夜は帳場の前で。

「また選ぶことが怖かった。東京で選んで、うまくいかなかった。壊れてしまった。だから、また選ぶことへの怖さがある。選んだ結果が、また失敗だったら、と」

「失敗だったら?」

「また壊れてしまうかもしれない」

「でも、二宮さん、今日壊れてないじゃないですか」

「今日?」

「今日、女将さんが倒れて、てんてこまいで、夜まで動き続けた。壊れなかったでしょ」

「壊れなかった」

「前と何が違いますか」

 考えた。

 東京での最後の頃と、今日は何が違うのか。同じように忙しくて、同じように一日中動いていた。でも今日は、壊れなかった。

「やらされてる感じがなかった」

 自分でも意外な言葉が出てきた。

「東京では、やらなきゃいけないからやってた。でも今日は、やりたいからやってた。その違いが、たぶんある」

「それじゃないですか」

 湊人さんはそれだけ言った。それ以上続けなかった。

 やりたいからやっていた一日は、どんなに疲れても、壊れなかった。それが全てではないかもしれない。でも、大事なことの一つだった。

  

 湊人さんが帰ったあと、わたしは帳場に一人残った。

 おばあちゃんの部屋から、かすかな気配があった。眠っているのだろう。穏やかな静けさが、廊下の向こうから漂ってきていた。

 帳場の灯りが、橙色に帳場を照らしている。外から見ると、この灯りがことの葉亭の灯りとして見える。おばあちゃんが何十年も、この灯りを毎夜ともしてきた。

 今夜は、わたしがともしていた。

 ことば帳を手に取った。

 余白のページを開いた。先日書いた「まだ途中」の書き添えが見えた。

 途中。

 今日一日を経て、途中の場所が少し変わった気がした。同じ途中でも、どちらを向いているかが、少し定まってきた。

 ペンを取った。

 今夜は書ける、という確信があった。残したいものが、今夜はちゃんと形になっていた。

 でも、書こうとした言葉は、最終的なものではなかった。決意表明でも、答えでもなかった。

 ただ、今夜分かったことを、書いた。


 やりたいからやっている日は、どんなに疲れても、壊れなかった。

 

書いてから、読み返した。

 これだ、と思った。

 うまくはない。でも、今日起きたことの中で、いちばん残したかった言葉だった。

 これを書けたということは、次の言葉も、いつか来るかもしれない。

 ことば帳を閉じた。

 帳場の灯りを落とした。廊下が暗くなった。

 六号室へ向かって歩いた。

 冬の宿の廊下は、静かで、少し冷えていた。でも、足の下の板の感触が、体に馴染んでいた。どれだけ歩いたか分からない廊下を、今夜も同じように歩いていた。

 それが、今は好きだった。


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