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ことば湯、ひとしずく――道後の小さな宿に、言えなかった想いを置いていく  作者: 明石竜


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第十六章 澪の春、由良の冬

 十二月に入った。

 道後の冬は、湯けむりがいちばん白くなる季節だ。朝の空気が冷えるほど、温泉本館の屋根から立ち上る湯気が濃くなって、町全体が白い呼吸をしているように見える。観光客の数は秋より落ちるが、冬の道後を目当てに来る人もいる。寒い季節に温泉へ来ることの、特別な意味を知っている人たちだ。

 宿の仕事は、冬仕様に変わっていた。

 湯たんぽの準備、厚い布団への切り替え、暖房の確認。細かいことが増えるが、体が覚えているので、考えなくても手が動く。おばあちゃんと並んで動いていると、二人の間に余計な言葉がなくても、仕事が回っていく。

 その感覚が、今は好きだった。

 言葉がなくても伝わること。動きで分かること。ここへ来た頃には気づかなかった、この場所の和やかな豊かさが、今は少しずつ見えていた。


 その一方で、言葉にしないまま残っているものもあった。

 お父さんとの関係は、あの夜以来、表面上は元に戻っていた。食事の時に短い会話をして、テレビを見て、おやすみを言う。本当のことは、まだ話せていない。でも、あの夜にわたしが感情的になったことも、お父さんが言葉足らずだったことも、二人の間でうやむやになって、時間が上から薄く覆っていた。

 そういう覆い方が、家族の間ではよくある、とは思う。でも、覆われているだけで、下にあるものはそのまま残っている。


 澪さんから連絡が来たのは、十二月の初めだった。

 今度はメッセージではなく、電話だった。着信に気づいたのが仕事中だったので、折り返すと、二回目の呼び出し音で出た。

「由良さん、お電話してもよかったですか」

「もちろん。どうしたの」

「合格したので、ご報告したくて」

 一拍置いてから、意味が届いてきた。

「合格したの? 受験、合格したの?」

「はい。第一志望です」

 わたしは帳場の椅子に座っていたが、そのまましばらく動けなかった。

 よかった、という言葉が、胸の中からまっすぐに出てきた。飾りのない、ただのよかった。澪さんのことを、本当によかったと思った。

「本当によかった。おめでとう」

「ありがとうございます」

 電話越しに、澪さんの声が少し違った。いつもの、整った話し方の中に、緩んでいる部分があった。緊張が解けた人の声だった。

「すごく頑張ったんだね」

「頑張りました。でも、合格できたから言えることで、ダメだったら頑張ったとも言えなかったと思います」

「それでも頑張ったことは変わらないよ」

「由良さんにそう言ってもらえると、素直に受け取れます」

 少し間があった。電話越しの静かな間だった。

「由良さん、前に手紙を返してくれたとき、言いたいことが言えないとき、自分もまだできていないと書いてくれましたよね」

「うん」

「宿で由良さんと話したことと、ことば帳の言葉と、あの手紙が、家族に言えるきっかけになりました。由良さんが正直に書いてくれたから、わたしも正直に言えた気がします」

「わたし、正直に書いただけで、何かを教えられたわけじゃないよ」

「でも、できていないと書いてくれたことが、よかったんです。できている人に言われると、自分がだめみたいで。でも、できていない人が、でも少しずつ分かってきていると書いてくれたから、わたしも少しずつでいいんだって思えた」

 できていない人間が、正直に書いたことが、誰かの助けになった。

 その言葉が、しばらく胸の中に残った。

 白石さんが言っていた。言葉はうまく書くものではなく、残したいものを選ぶことだ、と。澪さんへの手紙に書いたことは、うまくはなかった。でも、残したいと思ったことを書いた。それが届いたのだとしたら、言葉はうまさではなく、正直さで届くのかもしれない。

「澪ちゃん、春から新しい場所で頑張ってね」

「はい。由良さんも」

「わたしも」

「由良さんは、これからどうするんですか」

「まだ決めてないけど、決めようとしてる。ちゃんと自分で選ぼうとしてる」

「そうですか」

「うん。澪ちゃんが動いたから、わたしも動かないと、って思ってる」

「わたしが?」

「澪ちゃんが言えたって聞いたとき、自分だけまだ同じ場所にいる気がして。それが悔しかった。いい意味で」

 澪さんは少し笑った気配がした。

「じゃあ、おあいこです。わたしも由良さんに動かしてもらったので」

 電話を切ったあと、帳場でしばらく座っていた。

 窓の外に、冬の朝の光が差していた。

 澪さんは動いた。進学先が決まって、春から新しい場所へ向かう。あの宿に来たときの、重いものを一人で持っている顔から、緊張が解けた声になっていた。

 変わった、と思った。

 人は変わる。少しずつ、でも確実に。澪さんが変わった。わたしも、来たときとは違う場所に立っている。変わることを怖がっていたが、変わっていくことの方が、止まっていることより自然なのかもしれない。

  

 その夜、六号室でことば帳を開いた。

 二行が、そこにある。


 大丈夫じゃなかったと言うのは、わがままだと思っていた。

 言えなかったのは、言葉がなかったからじゃなくて、聞かれたくなかったからかもしれない。


 読み返した。

 書いたときと今では、少し読み方が変わっていた。最初の一行を書いたとき、それはまだ怖さを含んでいた。大丈夫じゃなかったと認めることの怖さが、その一行の中にあった。でも今読むと、怖さよりも、それが本当だったという確認の重さがある。

 二行目は、書いたあとに少し驚いた言葉だった。聞かれたくなかったから、という言葉が、自分から出てきたことに。今読むと、その正直さが、あの夜のわたしの一番大切な部分だったと思う。

 三行目は、まだない。

 でも、今夜は書けるかもしれない、という感覚があった。

 澪さんの電話、おばあちゃんの帳簿、白石さんの言葉、お父さんとの言い合い、佐和さんの前で初めて泣いた夜。それらが全部、この冬の間に起きて、全部が今のわたしを作っている。

 残したいのは何か。

 ペンを持った。

 今夜動いたものは、澪さんの声を聞いてから続いていた感覚だった。誰かが動くと、自分の停滞が見える。悔しい、とわたしは澪さんに言った。いい意味で、と付け加えたが、悔しいは本当だった。

 でもその悔しさは、前向きな悔しさだった。置いていかれる怖さではなくて、自分もそこへ行きたいという気持ちから来る悔しさ。

 それを書こうとした。

 でも、ペンを走らせながら、出てきた言葉は少し違うものだった。


 戻ってきたのは、終わったからじゃなく、もう一度始めるためだった。

 

書いてから、手が止まった。

 読み返した。

 これは、まだ本当じゃないかもしれない、と思った。もう一度始めるため、と書いたが、まだ始めていない。始めようとしているが、まだ選べていない。この言葉は、今のわたしには少し先の言葉だった。

 書いてから消す、ということをこれまでしたことがなかった。ことば帳に書いたことは、書いたままにしてきた。でも今夜書いたこの一行は、今のわたしの正直な言葉ではなかった。

 どうしようか、と少し迷った。

 消せないペンだった。消しても跡が残る。でも、そのまま残すのも違う気がした。

 結局、その一行の横に、小さく書き添えた。


 まだ、途中。


 これが今夜の正直なところだった。

 戻ってきたのが終わったからではない、という感覚はある。でも、もう一度始めるためだったと断言できるほど、まだ先が見えていない。途中にいる。その途中を、途中のまま書いた。

 ことば帳を閉じた。

 三行目と、その余白に書き添えた言葉。うまくはない。でも、今夜のわたしの正直なところだった。

  

 翌日の昼過ぎ、商店街で湊人さんと会った。

 向こうから声をかけてきた。

「二宮さん、少し顔色が違いますね」

「そうですか」

「いい意味で。何かありましたか」

「知り合いの高校生が受験に合格して」

「澪ちゃん?」

「知ってるんですか」

「宿に来てた子でしょ。女将さんから聞いた。よかったですね」

「よかったです。それで少し、自分も動かないとって気持ちになって」

 湊人さんは少し笑った。

「二宮さんが動く気になったなら、何か変わりそうですね」

「まだ何も決めてないですけど」

「でも、決めようとしてる顔してる」

「そういうふうに見えますか」

「見えます。来たときと全然違う」

 来たとき。四月の終わり、キャリーケースを引いて坂を上った日のことを、湊人さんは知らない。でも、知らない人から見ても違いが分かるのなら、確かに変わっているのだろう。

「久米さんは、どうですか」

「俺は相変わらずですよ」

湊人さんの笑い方がいつもと少し違った。

「ただ、二宮さんと話してから、少し考えることが増えた気がします」

「何を考えてるんですか」

「旅館の仕事をどうしたいか。継ぐのは変わらないけど、どう継ぐかは、自分で考えていいんだと思い始めて」

「電車の中の話が、何か関係してますか」

「あの日から少し、です。残った人間は最初からそれしかなかったみたいに思われる、って二宮さんに言ったら、二宮さんが、迷うことと全部やめることは別だと言ってくれたでしょ」

「言いました」

「あれ、自分に言われた気がして。迷いながら継げばいい。どう継ぐかは、まだ迷っていい。それだけで、少し楽になった」

 わたしが自分に言いたかった言葉が、湊人さんに届いていた。

 言葉は、言った本人が思う以上のところへ行くことがある。白石さんが言っていた。書いた本人より、言葉の方が正直なことがある、と。

「久米さんも、途中ですね」

「途中?」

「決まりきっていないっていう意味で。わたしも途中で、久米さんも途中で、たぶんそれでいいんだと思って」

 湊人さんは少し考えてから、「途中か」とだけ言った。

「悪くないですね、途中って」

「そうですよね」

「途中って言うと、いつか先に行くことが前提になってるから。止まってるとは違う」

 そうだ、とわたしは思った。

 途中にいることは、止まっていることではない。まだ歩いている。どちらへ向かうかが決まりきっていないだけで、動いている。ことば帳の余白に書き添えた「まだ途中」は、止まっていることの告白ではなく、まだ歩いているという確認だった。

「二宮さん、春はどうするんですか」

「まだ分からないです。でも、ここにいながら、もう少し考えます」

「それでいいと思いますよ」

「久米さんはそう言ってくれますね、いつも」

「本当にそう思うから」

 湊人さんは荷物を持ち直して、「また」と言って歩いていった。

 その背中を少し見てから、わたしも歩き始めた。

 冬の商店街は、人が少なくて、でも温かい光が店の窓から漏れていた。みやげもの屋の軒先に、みかんが並んでいた。この町のいつもの色だった。

  

 夕方、宿に戻るとおばあちゃんが帳場にいた。

「今日は澪ちゃんから連絡があって」

「そう、合格したのね」

「知ってたんですか」

「女将さんネットワークよ」

おばあちゃんは笑った。

「花の木の女将さんから聞いた。澪ちゃんのお母さんが話してたって」

「道後、狭いですね」

「狭いから、いいこともある」

 おばあちゃんはそう言って、帳場の引き出しを開けた。何かを探している様子で、しばらく手を動かしていた。

「由良、これ」

 取り出したのは、小さな封筒だった。

「澪ちゃんから、届いてた。由良に渡してほしいって書いてあって」

 封筒を受け取った。開けると、手紙が入っていた。

 澪さんの丸い字で、短く書かれていた。

 由良さんへ。合格しました。ことの葉亭のことは、ずっと覚えていると思います。由良さんが話を聞いてくれたから言えました。そのお礼を、もう一度言いたくて。それから、ことば帳に書いた言葉を、わたしはもう知っていると思います。行きたい場所があるのは、わるいことじゃないと。由良さんも、行きたいと思えたとき、行ける人でいてください。

 最後の一行を、二度読んだ。

 行きたいと思えたとき、行ける人でいてください。

 澪さんはことば帳に書いた自分の言葉を、由良へ返してくれた。行きたい場所があるのはわるいことじゃない。それをわたしに言い返してくれた。

 目が、少し熱くなった。泣くほどではなかった。でも、確かに温かいものが目の奥にあった。

 おばあちゃんがお茶を出してくれた。

「いい子だね」

「いい子です」

「由良も変えたんだよ、あの子を」

「澪ちゃんに変えてもらったのも、わたしの方です」

 おばあちゃんは何も言わなかった。ただ、お茶を自分の分も持ってきて、帳場の隅に座った。

 二人で、しばらく黙っていた。

 冬の夕方の光が、窓から斜めに入ってきていた。道後の湯けむりが、その光の中に白く立ち上っている。

 由良も変えたんだよ、あの子を。

 おばあちゃんの言葉が、確かに残っていた。

 変えた、のかどうかは分からない。でも、誰かと言葉を渡し合うことで、お互いが少しずつ変わっていく。そういうことが、この宿では起きている。ことば帳に残された言葉たちも、書いた人が去ったあとも、読んだ人の中で何かを変え続けている。

 場所が、言葉を生かし続けている。

 おばあちゃんがずっとここにいて、続けてきたことの意味が、今夜また少し深くなった気がした。

 窓の外で、路面電車の音がした。

 冬の道後を、電車が走っていく。その音が、遠くなって、消えた。

 わたしはお茶を飲んで、手紙を丁寧に封筒に戻した。

 これも、残しておこうと思った。


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