第十五章 残したいもの
十一月の末、白石さんが来た。
はがきで知らせてくれていた通り、黒い鞄を持って、そっと引き戸をあけた。今回は四泊の予約だった。チェックインの応対をしながら、わたしは白石さんの顔を見た。前回より少し痩せたように見えたが、眼鏡の奥の目は変わらず穏やかで、鋭かった。
「お待ちしておりました」
「また来ました」
「お部屋は二号室をご用意しています」
「ありがとう」
廊下を歩いていく白石さんの背中を見送りながら、また言葉が来るな、と思った。白石さんが来ると、わたしの中の何かが少し緊張する。怖いのではなく、正確なものを渡される予感のような緊張だった。
翌日の夕方、白石さんが帳場の前に現れた。
外出から戻ってきたらしく、上着に秋の冷気を含んでいた。帳場のカウンターに鍵を置きながら、わたしの方をちらりと見た。
「少し話せますか」
「はい」
白石さんは帳場脇の小上がりに腰かけた。わたしもそちらに移った。
「ことば帳、書きましたか」
「二行、書きました」
「読んでいいですか」
少し驚いた。白石さんが直接聞いてくるとは思っていなかった。でも、断る理由もなかった。ことば帳を取ってきて、渡した。
白石さんはゆっくりページをめくって、わたしの二行を見つけた。読んだ。数秒の沈黙があった。
「これは正直な言葉ですね」
「うまくはないと思います」
「うまさは関係ない」
白石さんはことば帳をカウンターに戻した。
「前より顔が変わった」
「そうですか」
「最初に来たときより、今の方が、ここにいる顔をしている」
ここにいる顔。その表現が、少し温かく感じられた。
「白石さん、少し聞いてもいいですか」
「どうぞ」
「書くことで、何かが変わりましたか。白石さん自身にとって」
白石さんは少し考えた。考える間が、いつもより長かった。
「変わった、という言い方は少し違うかもしれません。書くことで、自分が何者かが、少し見えてくる。見えてくることで、次に何を書くべきかが分かる。その繰り返しが、積み重なって、今の自分になっている」
「書き続けることで、自分が作られていく」
「そういうことです。止まったら、その時点で固まってしまう」
「白石さんは、止まったことがありますか」
また少し間があった。今度は、より長かった。
「あります。若い頃に何冊か書いて、少し評価されて、それから長い間、本当に書きたいものが書けなくなった。評価された自分に合わせようとして、自分の言葉を失った時期がありました」
「どうやって戻ったんですか?」
「戻り切っていないかもしれません」
その答えは、予想していなかった。白石さんがそういうことを言う人だとは思っていなかった。
「でもここに来るようになったのは、その頃からです。道後の空気と、ことば帳の言葉たちが、名前のついていない言葉を持ち続けるための場所になった。書けなくても、ここに来ると、まだ書く人間でいられる気がした」
書けなくても、書く人間でいられる場所。
わたしは、ことば帳を見た。
おばあちゃんが作ってきた場所が、白石さんにとってもそういう場所だったのかもしれない。言えなかった人が言葉を置いていく場所が、書けなくなった書き手の場所にもなっていた。
「二宮さん」
白石さんが呼んだ。
「はい」
「あなたはここにいるか出ていくか、それはどちらでもいい問題です」
「どちらでも?」
「でも、自分の言葉で選び直すことは、避けてはいけない。流れに乗ることと、選ぶことは違う。今の状態がたとえ正しくても、選んだ結果としてそこにいるのと、気づいたらそこにいたのでは、まったく違う」
湊人さんが電車の中で言っていた言葉が重なった。流れで決まったことと、自分で決めたことの区別。
「選ぶのが怖いです」
「当然です」
「また間違えるかもしれない」
「間違えます」
「間違えると分かって選べますか」
「間違えると分かって選ぶことが、選ぶということです」
白石さんは穏やかに言った。断定だが、責めてはいなかった。ただ、正確なことを言っていた。
白石さんが部屋に戻ったあと、おばあちゃんが帳場に来た。
夕食の準備が一段落したのか、エプロンで手を拭きながら、小上がりに腰かけた。
「白石さんと話してたの」
「はい。少し」
「あの方、由良に話すことが増えたね」
「そうですか」
「最初にいらしたとき、わたしに聞いてた。由良はどんな子かって」
「白石さんが?」
「うん。珍しいのよ、あの方が誰かのことを聞くのは」
わたしはその話を、少し意外に感じながら聞いていた。白石さんがわたしのことを、おばあちゃんに聞いていたとは思っていなかった。
「何て答えたんですか?」
「正直な子だって」
「正直かどうか、分からないですけど」
「嘘をつくのが下手な子、の方が正確かもしれない」
おばあちゃんは少し笑った。目尻のしわが深くなった。
「ねえ、由良」
「うん」
「少し見せたいものがある」
おばあちゃんは帳場の引き出しを開けて、一冊の帳簿を取り出した。古い、布張りの表紙のものだった。ことば帳とは違う、きちんとした記録のためのノートだった。
「宿の帳簿と、予約の記録。それから、ここ数年の収支も入ってる」
「どうして今」
「由良に知っておいてほしくて」
わたしはその帳簿を受け取った。重かった。物理的な重さだけでなく、年数の重さがあった。
ページをめくると、細かい字で数字と記録が並んでいた。毎月の宿泊客数、食材費、光熱費、修繕費。丁寧に書かれていた。おばあちゃんの字だった。
「赤字の月もある」
「はい、分かります」
「古い宿は修繕費がかかるから。それでも何とかやってこられたのは、常連さんがいてくれたのと、わたし一人だったから人件費がかからなかったのと」
「一人だったから成り立ってた」
「そう。由良が手伝ってくれて、この秋は随分楽になったけど、現実はこういうことでもある」
おばあちゃんは帳簿をわたしに預けたまま、続けた。
「継いでほしいとは言わない。それは由良が決めること。でも、ここがどういう場所で、どういう現実の上に立っているかは、知っておいてほしかった」
「なぜ今、見せてくれたんですか」
「白石さんが来たから」
「白石さんが来ると、なぜ」
「あの方が来ると、由良が何かを考える顔をする。そのタイミングで見せておこうと思って」
おばあちゃんはそれだけ言って、立ち上がった。夕食の続きをしてくる、と言って、厨房へ戻った。
わたしは帳簿を持ったまま、帳場に一人残った。
理想だけでは、宿は続かない。情だけでも、続かない。数字がある。現実がある。好きだという気持ちと、続けていくための力は、別のものだ。
でも、おばあちゃんはそれでも続けてきた。好きだという気持ちと、現実の数字を両方持って、何十年も。
それが何のためだったのか。問えばおばあちゃんは答えるだろうか。でもたぶん、そんなに大げさな答えではない。ただ、ここが好きだから。来てくれる人がいるから。それだけで、続けてきたのかもしれない。
その夜遅く、白石さんが帳場に来た。
珍しかった。夜に白石さんが帳場に現れることは、これまでなかった。手に、古い文庫本を一冊持っていた。
「少しよろしいですか」
「はい」
白石さんは帳場の前に立って、その文庫本をカウンターに置いた。
「これを」
受け取った。ページが黄ばんでいる、古い随筆集だった。著者の名前は知らない。
「開いてみてください。付箋のところ」
付箋が一枚挟まっていた。そのページを開くと、一段落に赤い線が引かれていた。
読んだ。
言葉はうまく書くものではない。残したいものを選ぶことだ。残したいと思えるものがある人間は、書ける。残したいものが何か分からなくなったとき、人は書けなくなる。
顔を上げると、白石さんがわたしを見ていた。
「残したいものを選ぶこと」
「あなたには、残したいものがありますか」
「……あると思います。まだ形になっていないけど」
「形になっていなくていい。残したいものがある、という感覚があれば、それが書けるということです」
「白石さんは、今何を残したいですか」
また間が来た。今夜は何度も、間が来た。
「まだ言葉にしていないものを、言葉にしたい。ことの葉亭のことも、その一つです」
「この宿のことを書くんですか」
「書くかもしれません。まだ分からない。でも、残したいと思っている」
白石さんはそれだけ言って、部屋へ戻っていった。
わたしは文庫本を手に持ったまま、しばらくカウンターの前に立っていた。
残したいものを選ぶこと。
わたしが残したいものは、何だろう。
ことば帳に書いた二行は、残したかったから書けた。大丈夫じゃなかったと言うのはわがままだと思っていた、という一行は、その感覚を残しておきたかったから書けた。
じゃあ、次に残したいのは何か。
今夜、お父さんのことを思い出した。言いすぎた夜のことを。あの夜佐和さんの前で泣いたことを。壊れてしまった自分を認めることが怖かった、と言葉にできたことを。
それを残したい、と思うかどうか。
まだ分からない。でも、残したいかもしれない、という感覚はある。
それがあれば、いつか書ける。白石さんはそう言った。
帳場の灯りを落とす前に、ことば帳を手に取った。
三行目を書く気ではなかった。ただ、持っていたかった。今夜起きたことの重さと一緒に、少し持っていたかった。
白石さんの言葉、おばあちゃんの帳簿、残したいものを選ぶこと。
全部が今夜のことで、全部がここで起きたことだった。
文庫本とことば帳を両手に持って、六号室へ向かった。
廊下は暗くて、静かだった。
選ぶことは怖い。でも、選ばないでいることで失われるものがある。白石さんが最初の日から言い続けていたことが、今夜ようやく、腹の底まで届いてきた気がした。
まだ選べていない。
でも、選ぶ準備が、少しずつ、確実に、整ってきていた。




