第9話
夏の日差しが石畳を白く照らす週末、二人は約束通り、隣町の定期市を訪れた。
広場には色とりどりの天幕が並び、香辛料と干し草の匂いが混ざり合っている。人混みに入る手前で、マティアスが足を止めた。
「はぐれると面倒だ。手、いいか」
いちいち聞いてくれるのが嬉しくて、アデーレは返事の代わりに自分から手を繋いだ。
染め物の天幕で、アデーレは野の草で染めた藍色と茜色の糸束を、時間をかけて選んだ。マティアスは古道具の天幕で、羊皮紙に描かれた小さな沿岸の海図を見つけて動かなくなった。
「港の入り口の岩礁まで、細かく描いてある。昔の船乗りの手書きらしい」
子どものように目を輝かせて海図を眺める彼の隣で、アデーレは自分の糸束を光にかざした。藍の方は、あの椅子の布と並べたらきっと映える。
同じものを好きにならなくていい。違うものに夢中になっている相手を、隣で面白がっていられる。それだけで、一日が驚くほど短かった。
帰りの乗合馬車は、停留所の時刻表を二人で覗き込んで、日暮れの混雑を避けた一本早い便に決めた。
翌週、近況と交際のことを書いた手紙を実家に送ると、父からすぐに返事が来た。
娘の都合を確かめた上で、次の日曜の午後に貸し部屋を訪ねてくれるという。
アデーレは最初、上等な茶葉を買い揃え、貴族を迎えるのにふさわしい椅子をどこかで借りてくるべきかと悩んだ。工房でその迷いを打ち明けると、マティアスは首を横に振った。
「無理して体裁を整えても、あんたの親父さんにはすぐ見抜かれる。あんたがあの部屋でどんなふうに暮らしてるか、そのまま見てもらう方がいいんじゃないか」
その一言で、アデーレは迷うのをやめた。背伸びはしない。いつもの部屋で、いつものお茶で父を迎える。
マティアスも、貴族の父親と会う緊張を隠さなかった。「怖いのは当たり前だ。でも、逃げない」と言って、汗ばんだ手でアデーレの手を握った。
日曜の午後。
南の窓から夏の風が入り、小机には厚手の陶器のカップと、いつもの固焼きのビスケットが並んでいる。
約束の時刻を告げる教会の鐘が鳴りやんですぐ、扉が控えめに叩かれた。
マティアスと目を合わせ、一度深く息を吸ってから、アデーレは扉を開けた。
立っていたのは、飾り気はないが仕立てのいい上着を着た父だった。娘の顔を見るなり、父の目元がふっと緩む。
「元気そうだな、アデーレ」
その声を聞いて、アデーレはようやく肩の力を抜いた。
アデーレの斜め後ろにいたマティアスが、一歩進み出て背筋を伸ばした。
「家具職人のマティアス・ケラーと申します。アデーレさんと、真剣にお付き合いをさせていただいております」
父は娘が選んだ楢の椅子に腰を下ろし、厚手のカップを両手で包むように持って、二人を見た。
「二人がこれからどんな暮らしをしていきたいのか、聞かせてほしい」
アデーレはマティアスの隣に立って答えた。
「私は、これからも縫い物の仕事を続けたいです。引き受ける量は自分で決めて、仕事だけで一日を埋めてしまわないように。お父様に会いに帰る時間も、ちゃんと持ちたいと思っています」
「……そうか」
父は深く息を吐き、皿のビスケットに目を落とした。
「前の縁談のとき、私はお前が誰かのために自分を殺して尽くす姿を、美徳だと見誤っていた。親として恥ずかしいよ」
「お父様のせいばかりではありません。私自身、そうするしか居場所はないと思い込んでいたんですから」
アデーレが笑うと、隣のマティアスが口を開いた。
「住まいは当面、今のままです。その先のことは、家賃も仕事の都合も、二人で考えたいと思っています。俺たちは意見がぶつかることもありますし、好みもよく違います。ですが、これからは俺が一人で不安になって、勝手に結論を出したりはしません。必ず言葉にして相談します。二人の居場所を、二人で作っていきたいんです」
父は青年の言葉を黙って聞き、それから娘の顔を確かめるように見た。頬の血色がいいのを見て取ると、口元に笑みが浮かんだ。
「お前たちが二人で選んだ道だ。互いを大事にしなさい」
それから父は、思い出したように付け加えた。
「そういえば、グレイヴス夫人から手紙が来た。婚約の件を考え直してはどうか、近く開く集会の準備をアデーレに手伝ってもらえないか、とな」
アデーレは驚かなかった。隣でマティアスが眉をひそめる。
「返事は出していない。それと、お前から預かったあの手帳だが、写しを作って、領地の伯爵ご本人に送っておいた。夫人ではなく、伯爵にな」
「ありがとうございます、お父様。あの手帳のことは、お任せします」
そう答えながら、アデーレは自分の胸が驚くほど凪いでいることに気づいた。あの家がこれからどうなるのか、知りたいとも思わなかった。
父を見送ったあと、貸し部屋には西日が長く伸びていた。
二人は窓辺と壁際を見比べながら、小声で相談した。
「長椅子を置くなら、あの壁沿いだな。朝の光が斜めに入る」
「ええ、素敵です。……あの、もしできたら、肘掛けのすぐ横に、読みかけの本を二、三冊立てておける小さな棚をつけられませんか?」
マティアスは顎を撫で、楽しそうに口の端を上げた。
「できるぞ。海図を丸めて差しておける隙間も一緒に組む。その代わり、俺が足を伸ばせる幅は、きっちりもらうからな」
「ふふ、もちろん。どちらも我慢しなくていい寸法にしましょう」
材料代は二人で分け、木の部分はマティアスが、座面の布はアデーレが受け持つことに決めた。
「それと、仕上がるまで工房の奥の棚は覗くなよ」
「どうしてですか?」
「どうしてもだ」
そっぽを向いたマティアスの耳が赤かったので、アデーレはそれ以上聞かないことにした。
飾り幕の裾が、左右で拳ひとつ分ずれている。
慈善集会の当日、オスカーがそれに気づいたのは、最初の客が広間に通された後だった。急ぎで雇った縫い子に縫わせた幕は、縫い目まで波打っている。気づいたところで、直せる者はもういない。
グレイヴス伯爵邸の大広間は、百合と薔薇で埋め尽くされていた。母が花屋に命じて、壁際にも窓辺にも籠を並べさせた。甘い匂いが、天井近くまで溜まっている。
広間の中央には、リボンで飾った肘掛け椅子が一脚据えてあった。背には「フリーダ・ハミルトン嬢」と書いた札。座面には座布団が四枚、きっちりと重ねてある。いつかのピクニックのために、アデーレが縫った四枚だった。誰が縫ったものか、母はおそらく覚えていない。
その椅子に座るはずの少女は、来ない。
ハミルトン家からは、出席しないと書面で申し入れがあった。それでも母は、招待状はもう出してしまったのだから今さら取りやめられない、と言い張った。オスカーも止めなかった。上司である儀礼官長ベルナー卿の夫人が、来賓として来てくれることになっていたからだ。
二十人ほどの夫人たちが席に着くと、すぐに小さなざわめきが起きた。ベルナー夫人の席が、男爵夫人の下座に置かれている。
席次表は、母に言われてオスカーが書き写したものだった。これまでの席次表を誰が組んでいたのか、彼は考えたこともなかった。
運ばれてきた菓子は、どれもバターの匂いが強かった。胃の弱い老夫人が、手をつけずに皿を押しやる。これまでの茶会なら、こういう客の皿だけは別の菓子になっていた。それを誰が手配していたのかも、オスカーは知らなかった。
「皆さま、ようこそお越しくださいました」
母の声が広間に響いた。
「残念なことに、フリーダは今朝から熱を出してしまって。でも、皆さまのお気持ちはきっとあの子に届きますわ。私はあの子の母親代わりとして……」
母が空の椅子に手を差し伸べ、目元を押さえたときだった。
広間の扉が開いた。
入ってきたのは、旅装も解かないままの壮年の男と、ハミルトン家の家令だった。
「ハミルトン準男爵……」
誰かが呟いた。フリーダの父親だった。
準男爵は広間を見渡し、空の椅子に掛けられた札に目を留めると、顔色ひとつ変えずに言った。
「娘は熱など出しておりません。今朝も、庭のベンチで日に当たっておりました。来ないのは、本人が来たくないと申したからです」
広間が静まり返った。
「伯爵夫人。当家は書面で、出席をお断りしたはずです。それでも招待状に娘の名が使われていると、王都に着いて知りました。熱が下がったばかりの娘を、風の強い丘へ連れ出そうとなさったことも。医師が止めた花籠を当家の玄関に置いていかれ、娘がその晩、医師が朝まで付き添うほど咳き込んだことも。すべて家令から聞いております」
「わ、私は、あの子のためを思って」
「娘は、あなたが優しい方に見えるための飾りではありません」
準男爵は形ばかりの一礼をして、続けた。
「それから、これまで娘の世話の手配は、いつもヘイウッド家のお嬢さんがしてくださっていたと聞きました。ご子息の婚約者だった方です。当家が礼を申し上げるべきは、そのお嬢さんお一人です」
夫人たちの間に、ささやきが広がった。
「ヘイウッドのお嬢さんといえば、去年の茶会の席次も、あの方が」
「婚約は解消なさったのでしょう。この家の『ご親切』の後始末を、全部押しつけられていたのね」
ベルナー夫人が、席を立った。
「グレイヴス様。主人がよく申しますの。儀礼とは、招く相手の望みを形にすることだと。望まない方のお名前で人を集めるのは、儀礼とは申しませんわね」
夫人は、オスカーに目を向けた。
「オスカー様は、主人のもとで見習いをなさっていたのでしたわね」
なさっていた。その言い方の意味に気づいて、オスカーの背筋が冷たくなった。
ベルナー夫人が広間を出ていくと、一人、また一人と夫人たちが席を立った。帰りに渡すはずだった贈り物の包みを受け取る者は、一人もいない。
「お待ちになって、皆さま、まだお茶が……」
母が、出口へ向かう夫人の袖に縋りついた。振り払われてよろめき、空いていた肘掛け椅子に倒れ込む。フリーダのために置いた四枚の座布団の上に、母の体が沈んだ。
「ああ、息が……誰か、窓を……」
母は胸を押さえて喘いでいる。百合の匂いが濃すぎるのだ、とオスカーは思った。窓を開けろと使用人に言いかけて、どの窓が開くのかさえ、すぐには分からなかった。
最後の客が出ていき、扉の閉まる音がした。
空になった広間で、オスカーは立ち尽くす。床に落ちた席次表に、誰かに踏まれた靴の跡がついている。
むせ返るような甘い匂いの中で、オスカーは生まれて初めて、息が苦しいと思った。




