第10話
翌朝、オスカーは儀礼官長の執務室に呼ばれた。
ベルナー卿は書類から顔を上げないまま、昨日の集会のことは妻から聞いた、と切り出した。
「招く相手の意思も確かめず、席次も満足に組めない者に、王家の式典の末席は任せられん。見習いは今日で終わりだ」
「お待ちください。席次は、僕が組んだわけでは」
「では、誰が組んだ」
オスカーは答えられなかった。
「これまで君の家の催しで、席次を組んでいたのは誰だ」
「……婚約者が」
「その婚約者は、どうした」
沈黙が落ちた。ベルナー卿はそれ以上何も聞かず、手の甲で退室を促した。
廊下に出ると、ピクニックの話をしたときに褒めてくれた同僚たちが、柱の陰で笑っていた。
「病人を丘に担ぎ上げようとした会の人だろう」
「花で寝込ませた方じゃなかったか」
オスカーが振り向くと、彼らは何もなかったように目を逸らした。
屋敷に戻ると、玄関ホールに父がいた。
領地にいるはずのグレイヴス伯爵は、旅の埃も払わないまま、一冊の綴りを手にしていた。表紙にはヘイウッド子爵の署名がある。中身は、アデーレの手帳の写しだった。
「座布団の側布、四枚分。ピクニックの弁当、従僕の分を含めて立て替え。見舞いの菓子、立て替え。肩掛けの裏地外し、夜なべ」
父は淡々と読み上げ、綴りを閉じた。
「婚約者に二年も立て替えさせて、来月返すと言ったまま、一度も返さなかったのか」
「それは、母上が」
「来月まとめて清算する、と言ったのはお前だと書いてある」
父の声は低かった。
「ヘイウッド家には、私から詫び状をつけて全額返した。ハミルトン準男爵からは、正式な抗議が届いている。お前の母は、来週、領地の別邸へやる。王都の家政は家令に任せる。お前の手当ては今月で止める。立て替えの分は自分の給金から私に返せ、と言いたいところだが」
父は、息子の顔を見た。
「その給金も、もうないそうだな」
ホールの隅には、集会の花籠がまだ置かれたままだった。百合は茶色く萎れ、籠の底に溜まった水が、甘さと腐った匂いを混ぜて漂わせている。誰も片づけろと言わなかったから、誰も片づけなかったのだ。
二階の母の部屋は、カーテンが閉ざされていた。百合の匂いが上がってくると吐き気がする、誰にも会いたくない。母は使用人に、そう繰り返しているという。
見舞いに来る者は、一人もいなかった。
その晩、オスカーは自室で紙を広げた。
アデーレがしていたことを、書き出してみようと思った。席次表。礼状の下書き。献立。付け届け。見舞いの手配。座布団。肩掛け。同僚に褒められた礼状の文面も、思い返せば彼女の下書きだった。
書いても書いても終わらない。その横に並べられる自分の仕事は、一つも出てこなかった。
二年間、自分が褒められてきたものの全部が、あの手帳の中にあった。
そして、そのどれも、もう二度と自分のためには動かない。
それでも、とオスカーは紙を握りつぶした。あのアデーレなら、頭を下げれば戻ってくる。人に尽くすことしか知らない女なのだから。
三日後の昼下がり、アデーレが工房の軒先で座面袋の糸を始末していると、通りがざわついた。
石畳の向こうから、オスカーが歩いてくる。上着には皺が寄り、いつも撫でつけていた髪が額に落ちていた。向かいの鍛冶屋の親方も、隣の塗師の女将も、手を止めてこちらを見ている。
工房の中から、マティアスが戸口まで出てきた。前には出ず、アデーレの斜め後ろで足を止める。
オスカーはアデーレの前まで来ると、ためらうように一度周りを見回し、それから石畳に膝をついた。
伯爵家の子息が、職人街の真ん中で。
ざわめきが大きくなった。
「アデーレ、頼む。戻ってきてくれ」
声が裏返っていた。
「母上が寝込んでいる。父上は僕の手当てを止めた。王宮にも、もう行けない。屋敷の誰も、何をどうすればいいのか分からないんだ。君さえ戻ってくれれば、全部元通りになる。婚約も、もう一度」
「元通り、とは、いつの頃のことでしょう」
アデーレは糸切り鋏を膝に置いた。
「私が座布団を四枚縫って、献立を考えて、立て替えたお金の話をすると『来月にまとめて』と言われていた頃のことですか」
「それは、返した。父上が全部返したと聞いた。だから」
「お金は戻りました。でも、私がオスカー様のために使った二年は戻りません。戻すつもりも、ありません」
オスカーの顔が歪んだ。
「君は優しい人だろう。困っている人間を見捨てるような人じゃない」
「ええ。困っている方のお話は、最後まで伺います。フリーダ様のお話も、そうしました。ですから、オスカー様のお話も、今、最後まで伺いました」
アデーレは、膝をついた彼を見下ろした。
「その上で、お断りします」
「せめて、母上を見舞ってやってくれないか。君の顔を見れば、母上もきっと」
「奥様は、どなたかに会いたいと仰っているのですか」
オスカーは言葉に詰まった。
「……誰にも会いたくない、と。カーテンを閉めて」
「でしたら、伺いません。ご本人が嫌だと仰っているのに、百合の花束を抱えて押しかけるような真似は、私はいたしません」
オスカーの口が、開いたまま止まった。人垣のどこかで、誰かが小さく吹き出した。
彼はすがるように、アデーレの後ろのマティアスを見上げた。
「こんな、職人の男の、どこが」
「この人は、初めて会った日に、私が何をしたいのかを聞いてくれました」
アデーレは言った。
「オスカー様は二年間、一度もお聞きになりませんでした」
オスカーは膝をついたまま、動かなくなった。
「憐れんでほしいのでしたら、ご家族にお頼みください。私はもう、オスカー様の家族になる人間ではありませんので」
アデーレは鋏を取り上げ、縫いかけの座面袋の糸を、ぱちんと切った。
ずいぶん経ってから、オスカーはのろのろと立ち上がった。膝に木屑と砂がついていたが、払ってくれる者は誰もいない。人垣が割れ、彼は一度も振り返らずに、通りの向こうへ消えていった。
通りに物音が戻り、鍛冶屋の親方が「やるねえ、お嬢さん」と笑って槌を取り直した。
アデーレは自分の手を見下ろした。今日は、どこも震えていなかった。
「震えてないな」
後ろから、マティアスが言った。
「ええ。でも、少しだけ袖を貸してください」
彼は黙って隣に来て、捲ったシャツの袖を差し出した。アデーレはそれを指先でつまんで、やっと少しだけ笑った。
それから二週間ほどして、長椅子が仕上がった。
晩夏の金色の光が差し込む午後、マティアスとヨナスが二人がかりで階段を上がってきた。ヨナスは駄賃の銅貨を握って駆け下りていき、部屋には二人だけが残った。
壁際に据えられたのは、胡桃材の長椅子。肘掛けの横には、アデーレが頼んだ小さな本棚が組み込まれ、その隣に、海図を丸めて差しておける隙間がある。座面には、アデーレが縫った藍色の布がぴたりと張られていた。窓辺の楢の椅子と並べると、色の違う二つの木が、不思議なくらいよく馴染んだ。
「座ってみてくれ」
並んで腰を下ろすと、少し硬めの座面が腰を受け止め、背もたれが背中に沿った。マティアスが長い脚を前へ投げ出し、満足げに息を吐く。
「計算通りだ。これなら俺が脚を伸ばしても、あんたの邪魔にならん」
「本棚の角も、手に当たりませんね。何を並べようかしら」
「その前に」
マティアスが、なぜか咳払いをした。
「棚の奥に、何か引っかかってないか見てくれ」
言われるまま本棚に手を入れると、指先に小さな布の包みが触れた。取り出してほどくと、淡い色の木の指輪が出てきた。丁寧に磨かれて、内側まで滑らかだった。
「これ……」
「あんたの椅子の脚を切ったときの端だ。いい楢だから取っておいた」
マティアスは前を向いたまま言った。耳が真っ赤だった。
「銀のは、そのうちちゃんと買う。でも、最初のはこれにしたかった」
それから彼は、アデーレの方へ向き直った。
「アデーレ」
様をつけずに名前を呼ばれたのは、初めてだった。灰色の目に、もう迷いはなかった。
「これからも、この椅子で俺の隣に座っててほしい。俺と、結婚してくれ」
この人と一緒に笑って、ときどき違う意見をぶつけ合いながら、明日を作っていきたい。誰に言われたからでもなく、アデーレ自身がそう望んでいた。
「嬉しい日も、くだらないことで喧嘩をする日も、全部言葉にして話し合うと約束してくださるなら」
「ああ、約束する。一人で結論を出して逃げたりは、絶対にしない」
「はい。私も、あなたと暮らしたいです」
アデーレが左手を差し出すと、マティアスは「嵌めていいか」と聞いた。こういうときまで、この人は聞く。
頷くと、木の輪は薬指にするりと収まった。測ったように、ぴったりだった。
「いつ、寸法を測ったんですか」
「……あんたが袋を縫ってる間、ずっと手を見てた」
アデーレは笑い出して、そのまま彼の肩に頬を預けた。木の指輪は、彼の掌の温度を移して、まだ温かかった。
数日後、二通の手紙が届いた。
一通はフリーダからだった。主治医と家令に付き添われて、無事に領地の家へ着いたという。気管の弱さはすぐには治らないけれど、風のない午前中には、母に手を引かれて薬草園まで自分の足で歩いているそうだ。
『父が、庭の日だまりにベンチを置いてくれました。いつか、マティアスさんに座り心地のいい腰掛けをお願いしてもいいでしょうか』
丁寧な字の最後に、そう書き添えてあった。
もう一通は父からで、伯爵家からの返金と詫び状を確かに受け取ったこと、オスカーが伯爵の命で王都を離れ、領地へ下ったことが、短く記されていた。最後の一行は、こうだった。
『お前が気にかけることは、もう何もない』
アデーレは手紙を畳んで、引き出しにしまった。
「湯が沸いたぞ」
台所からマティアスが、厚手のカップを二つ持ってきた。
皿の上には、アデーレの好きな柑橘の皮入りの固焼きと、マティアスが買ってきた焦がし砂糖の苦いビスケットが、半分ずつ並んでいる。式の段取りも、この先の住まいも、急がずに二人で一つずつ決めていく約束だった。
二人は壁際の長椅子に並んで座った。アデーレは棚から読みかけの本を抜き、マティアスは隙間から沿岸の海図を取り出して膝に広げる。
「海へ行くときは、途中に大きな市場があるそうだ。寄ってみるか。馬車を乗り継げば、港まで二日だ」
「嬉しいです。そのときは、道中のお菓子をたくさん持っていきましょうね。酸っぱいのと、苦いのを半分ずつ」
「だな。お互い文句を言いながら食えばいい」
マティアスが笑って、背もたれに体を預けた。投げ出した足の爪先が、床の陽だまりに届いている。
しばらくして、海図に目を落としたまま、彼が言った。
「なあ。初めて会った日に聞いたことを、もう一回聞いていいか」
「どうぞ」
「この椅子で、あんたは何がしたい?」
アデーレは本を閉じた。左手の薬指で、楢の指輪が陽を受けている。
「何もしないで、あなたの隣にいたいです。それから、ときどきは喧嘩も」
「喧嘩もか」
「ええ。仲直りまで、ここでします」
マティアスは海図を畳むと、少し考えてから、アデーレの肩を抱き寄せた。
「なら、寸法はぴったりだ」




