第8話
「……傷つきました」
声がかすれた。アデーレは一度息を整え、もう一度はっきり言い直した。
「とても、傷つきました。身分の違いを突きつけられたからではありません。あなたが私の気持ちを一度も聞かずに、勝手によそよそしくして、線を引いたからです」
マティアスは背を向けたまま、肩をこわばらせていた。
「俺は、あんたのためを思って――」
「私に選ばせてください!」
張り上げた声が、工房の梁に跳ね返った。握りしめた手の爪が、掌に食い込む。
「あなたが私と行きたくないのなら、そう言ってくださればいいんです。でも、私のためだなんて決めないでください。あなたまで、私の居場所を勝手に決めないで。あの方たちと同じように、お前のためだと言って、私の望みを塗りつぶさないでください」
語尾が震えた。それでもアデーレは続けた。
「定期市に行きたいと言ったのは、仕事の義理でも、同情でもありません。私の、願いです」
マティアスは長いこと黙っていた。やがて、手にしていた鉄の道具を作業台に置いた。ごとりと重い音。
彼はゆっくりと振り返り、アデーレと正面から向き合った。灰色の目は行き場を失ったように揺れ、口元が苦く歪んでいる。
「……悪かった」
掠れた声だった。
「俺が卑怯だった。あんたを傷つけた」
ごまかさずに、彼は自分の非を口にした。
「伯爵家の坊ちゃんが乗り込んできて、ちゃんとした従僕が来て、上等な紙の手紙が届いて。そのたびに思い知らされた。俺みたいな職人が、あんたの隣にいていいはずがないって。もしこの先を望んで、あんたの親父さんに叩き出されたらと思うと、怖かった。断られるのが怖くて、あんたのためだと言い訳して、先に突き放した。全部、俺の都合だ。本当に、すまない」
飾りのない弱音だった。身分の壁より、彼自身の臆病さが、あの頑なな態度の正体だった。そう分かった途端、アデーレのこわばっていた肩から力が抜けた。
「平民と貴族の結婚が、禁じられているわけではありません」
アデーレは濡れた目元を指で拭い、彼を見た。
「それに、父にはまだ何も話していません。どうして話す前から、一人で諦めてしまうんですか。怖いのを隠すために、私を理由にしないで」
「ああ。あんたの言う通りだ」
マティアスは片手で顔を覆い、それから深く息を吸い込んだ。
迷いを振り切るように一歩踏み出し、アデーレの目をまっすぐに見る。
「あんたが好きだ。仕事を手伝ってもらってるからでも、椅子の礼でもない。俺が、あんたと一緒にいたいんだ」
「謝罪は、受け取ります」
アデーレは呼吸が落ち着くのを待ってから、彼を見上げた。
「でも、約束してください。また不安になったり、怖くなったりしたときは、一人で結論を出して私を締め出さないで。言葉にして、私に伝えてください」
「ああ。二度とごまかさない」
マティアスは神妙な顔で頷いた。
「あんたも、嫌なことがあったら、今みたいに言ってくれ。俺が間違ったら、ちゃんと怒ってくれ」
弱いところを隠さずに差し出し合う言葉に、胸のつかえがほどけていった。
親切にされたから惹かれたわけではない。海蛇を信じた子どもの頃の失敗を、一緒に笑えたこと。菓子の好みがまるで違っても、その違いを面白がって次の約束ができたこと。この人の隣でだけ、アデーレは取り繕わない自分のままで息ができた。
「私も、マティアスさんが好きです。あなたと一緒にいたい」
口にした途端、涙がこぼれた。
マティアスは伸ばしかけた手を途中で止め、触れていいかと目で尋ねてきた。アデーレは涙を拭い、自分から手を差し出した。
重ねられた手は、鉋で鍛えられて分厚く、かすかに木の匂いがして、驚くほど温かい。指を絡められると、指先までじんと痺れた。
「定期市、行こう」
アデーレの手を包んだまま、マティアスが言った。
「帰りの乗合馬車も、一緒に時刻を調べよう。どのくらい見て回りたいか、あんたの希望を聞いてから切符を取る」
「はい。素朴な染め糸を並べているお店と、手触りのいい焼き物が見たいです」
「ああ、付き合う。好きなだけ歩け」
取り消されかけた約束を結び直して、二人は顔を見合わせて笑った。
マティアスは工房の奥に積んだ木材に目をやり、照れ隠しのように咳払いをした。
「いつか、あんたと並んで座れる長椅子を作りたい。窓辺のあの一脚の横に置けるようなやつを」
不意にこぼれた先の話に、アデーレは胸を突かれ、それから吹き出した。
「ふふ、また一人で勝手に設計なさるおつもりですか? 今度は最初から、私の希望もたっぷり入れさせていただきますわ」
「当たり前だ。ただ、俺の脚を投げ出せる幅だけは、絶対に譲らんぞ」
「ええ。そこは座り心地を確かめながら、相談しましょう」
ひとしきり笑ってから、アデーレは言った。
「父には、まず私から手紙を書きます。近況を知らせて、父の都合を聞いてから、改めて日取りを相談しましょう」
「分かった。決まったら教えてくれ。逃げずに、ちゃんと話す」
繋いだ手に、彼が力を込めた。その力と同じだけ、アデーレも握り返した。




