第7話
「中は木屑が舞っています。風の通るこちらへどうぞ」
アデーレはフリーダの喉を気遣って、戸口の脇の軒下にある腰掛けへ案内した。
マティアスが黙って洗いたての布を持ってきて板の上に広げ、従僕に目礼すると、少し離れた作業台へ戻っていった。初夏の夕風が、二人の間を通り抜けていく。
フリーダは膝の上で細い両手を重ね、息を整えながら話し始めた。
「伯爵夫人の集会には、どうしても出たくありません。そのことを、領地の父に手紙で伝えようと思っています。でも、ずっと書けずにいました。良くしてくださるお隣の方々に感謝もできない、我儘で冷たい娘だと叱られるのが怖くて」
少女の目には、怯えと、それ以上に自分を責める色が滲んでいた。
「アデーレ様に、私の代わりに誰かを説得していただきたいのではありません。ただ、私が苦しいと感じていることが、本当に我儘なのかどうか、聞いていただきたかったんです」
フリーダは一度言葉を切り、アデーレの目を見た。
「それから、謝らなければならないことがあります。去年の秋、伯爵夫人がくださった重い毛織の肩掛けを、私はお断りできませんでした。夫人のご機嫌を損ねるのが怖くて、『アデーレ様にお願いして裏地を外していただきます』と言ってしまって。あの手間を、全部アデーレ様に押しつけました。ごめんなさい。アデーレ様の親切を盾にして、自分の弱さから逃げていました」
言い終えたフリーダの肩が、小さく震えていた。
アデーレは、夜更けまで重い毛織物の縫い目を一目ずつ解いた晩を思い出した。指先にできた赤い筋は、三日ほど消えなかった。
なかったことにして微笑むのは、もうやめよう。
「あのときは、本当に困りました。……フリーダ様。私はもう、誰かのご機嫌を繕うための役目は引き受けません。フリーダ様のためでも、同じです」
フリーダは薄い唇を引き結び、深く頷いた。
「はい。そう言っていただけて、なんだかほっとしました。アデーレ様が嫌なことを嫌と仰るなら、私も言っていいのだと思えます」
少女は、夕日に染まる屋根の連なりに目をやった。
「あの朝のお花も、家令が玄関でお断りしてくれたんです。でも伯爵夫人が、それならせめて玄関に飾っておきなさいと仰って、籠を置いていかれて。匂いが階段を上ってきて、その晩は、先生が朝まで付いていてくださいました」
アデーレはすぐには言葉が出なかった。指輪を返して伯爵邸を出たあと、あの二人は花籠を抱えて、結局隣家へ押しかけたのだ。
フリーダは胸に手を当てた。
「私が本当に望んでいるのは、賑やかな集会でお見舞いを受けることではありません。領地の家に帰って、父や母のそばで、先生と相談しながら庭を歩く暮らしがしたいんです。病気が治らなくても、自分の息ができる場所で暮らしたい」
フリーダは膝の上の手を握り直し、顔を上げた。
「手紙を書きます。誰かの言葉を借りずに、私が嫌だと感じたことと、これからどう暮らしたいかを、自分の手で書いて父に届けます」
「ええ。フリーダ様の字で書くのが、一番届くはずです」
アデーレが頷くと、フリーダの手から少し力が抜けた。
日暮れ前の通りを、従僕に付き添われたフリーダがゆっくりと帰っていく。
アデーレはその背中が角を曲がるまで、軒先で見送った。手紙が届いたとして、父親がすんなり聞き入れてくれるかは分からない。心配は尽きない。それでも、少女の代わりにすべてを整えてやらなければと焦る気持ちは、もう湧いてこなかった。
マティアスが軒下の腰掛けを工房の中へ運び入れ、床に落ちた砂を箒で掃き集めた。
「自分に面倒を押しつけた相手の話でも、最後まで聞くんだな」
箒を動かす手つきに、呆れとは違うものが混じっていた。
アデーレは振り返って、少し笑った。
「言いたいことを飲み込んでばかりいた時間が長かったものですから。マティアスさんは、いつも思ったことをそのまま口にしてくださるので、少し羨ましいです」
何気なく返した言葉に、マティアスは箒を壁に立てかけ、目を逸らした。夕暮れの薄明かりの中で、その横顔がこわばって見えた。
数日後、フリーダから貸し部屋に手紙が届いた。
手紙を読んだ父親から王都邸の家令へすぐに指示が下り、伯爵夫人の集会には出席しないと、正式に申し入れたという。娘の静養を何より優先するとあり、領地へ戻る段取りも、主治医と相談しながら進め始めているとのことだった。
何もかもが一度に良くなったわけではない。それでも、少女が自分の手で書いた言葉は、ちゃんと大人たちを動かしていた。
ちょうど工房へ通う日だった。手紙を持って出かけ、納品前の棚を拭いていたマティアスに中身を伝えた。
「そうか。本人が決めたなら、それが一番だな」
マティアスは棚板に目を落としたまま答えた。
アデーレはエプロンのポケットから、通りで配られていた定期市の案内札を取り出した。
「あの、マティアスさん。今週末、前にお話しした隣町の定期市が開かれるそうなんです。もしご都合がよければ、ご一緒していただけませんか」
勇気を出して口にした誘いだった。
けれどマティアスは、日取りを聞くことも、仕事の詰まり具合を確かめることもしなかった。とっくに磨き上がった棚の角を、布で擦り続けている。
「……やめておく」
乾いた声だった。
「あんたには、家の人か、釣り合う身分の連中と、仕立てのいい馬車で行く方が似合ってる」
「え……?」
思いがけない言葉に、アデーレは息を詰めた。
マティアスは作業台へ歩いていき、背を向けたまま、道具箱の金具をがちゃりと鳴らした。
「そうだろう、アデーレ様」
聞き慣れない敬称に、胸の奥を握り潰されたような痛みが走った。
一度もそんな呼び方をしなかった人が、今は目を合わせようともしない。伯爵家の子息が乗り込んできた日。準男爵家の従僕が、戸口で深々と頭を下げた日。そして今日、上等な封蝋の手紙を自分が持ってきた。そのたびに彼の手が止まっていたことを、アデーレは今になって思い返していた。
「どうして、そんな呼び方をなさるんですか」
震える声で尋ねると、マティアスは顔を半分だけこちらに向け、何度か言葉を詰まらせてから、低く言った。
「あんたは本当なら、こんな工房にいるような人じゃないんだ」




