第5話
水曜の夕暮れ、石畳の通りが橙色に染まる頃、貸し部屋の階段がきしんだ。
通りに荷車を停め、見習いのヨナス少年に番を任せたマティアスが、藍色の布を張った楢の椅子を抱えて上がってきた。
「どこに置く?」
「南の窓辺にお願いできますか」
据えられた椅子は、最初からそこにあったように、古い床の木目に馴染んだ。
「座ってみてくれ。寸法に狂いはないはずだ」
腰を下ろすと、布の奥の詰め物が柔らかく沈み、腿の裏にはどこも当たらなかった。小机の本を何気なく開いて顔を上げると、暮れかけた空を横切る燕が、ちょうど窓枠の中を通り過ぎていった。
ここに座って、こうして顔を上げればいい。誰の顔色もうかがわずに。
「素晴らしいです。どこも痛くありません」
「ならよかった」
アデーレは立ち上がり、用意しておいた革袋から代金を数えて渡した。マティアスは手早く確かめ、受け取りの印を押した紙片を返す。
「それと、切った脚の端は工房に取ってある。いい楢だから、捨てるのが惜しくてな」
仕事のやり取りは、これで終わりだった。本来なら、ここで会釈をして見送るところだ。
けれど、道具袋を肩に掛け直そうとする彼の横顔を見て、アデーレは口を開いていた。
「あの、マティアスさん。この後ご予定がおありでしたら、お引き止めはいたしません。でも、もしよろしければ、お茶を一杯だけ召し上がっていかれませんか」
断る余地を残した誘いに、マティアスは虚を突かれたように瞬きをした。窓の外と、部屋の隅の小さな薬缶に目をやり、それから肩の道具袋を下ろした。
「次の仕事は明日の朝だ。一杯だけなら、もらう」
彼は窓から顔を出して、下で待っていたヨナスに「先に荷車を戻しとけ」と声をかけた。
自分で決めて残ってくれたことが、アデーレには妙に嬉しかった。
台所で湯を沸かし、近所のパン屋で見つけた素朴な焼き菓子を皿に出した。高価な砂糖漬けでも、誰かの機嫌を取るために半日かけて焼いた菓子でもない。柑橘の皮の酸味が気に入って、アデーレが自分のために買ってきた固焼きのビスケットだ。
厚手の陶器のカップにお茶を注ぎ、窓辺の小机に並べる。マティアスは納めたばかりの椅子には座らず、部屋の隅の丸椅子を引き寄せた。
「あんたの椅子だ。俺はこっちでいい」
そう言って、太い指でカップの細い取っ手をつまもうとし、指が入らずに眉を寄せた。
「この取っ手は、俺には小さいな」
「つままなくていいんですよ。こうして両手で包むように持つと、温かくて落ち着きます」
アデーレがやってみせると、彼は言われた通り両手でカップを抱え、熱い茶をすすった。ビスケットを齧り、片眉をわずかに動かす。
「ちょっと酸っぱいな」
「私の好みで選んでしまいました。お口に合いませんでしたか?」
「いや、食える。ただ、俺は黒砂糖を焦がしたような、苦くて甘い雑なやつの方が馴染みがあるってだけだ」
遠慮のない好みの申告がおかしくて、アデーレは笑った。相手に合わせなくてもいい。違うと言っても、誰も機嫌を損ねない。それがこんなに楽なものだとは思わなかった。
マティアスはカップを置き、窓の外の空を見上げた。
「明日は崩れるらしいが、日曜には持ち直すそうだ。この間の航海記、まだ半分残っててな。晴れたら、また川の土手まで歩くつもりだ」
何気なく語られた休日の予定に、アデーレは息を詰めた。
私も、その土手へ行ってみたい。
仕事の依頼人としてではない。ただ、この人と同じ風に吹かれてみたかった。
「……ご一緒しても、よろしいですか」
口にしてから、自分の言葉に自分で驚いた。
マティアスはカップに伸ばしかけた手を止め、眉を寄せて彼女を見た。
「来ても、男が一人で草の上に座って本をめくってるだけだぞ。何もない土手だ。退屈するに決まってる」
先回りして断るような物言いは、彼が自分を低く見積もっているせいだと思えた。だからアデーレは、目を逸らさずに言った。
「退屈などしません。風に吹かれて、あなたとお話がしたいんです。椅子のお礼でも、何かの義理でもなくて」
マティアスはしばらく黙り込んだ。やがて目を落とし、首筋を掻きながら小さく息を吐いた。
「日差しが強くなる前、朝の十時だ。東の石橋の袂で待ってる」
ぶっきらぼうな声とは裏腹に、首の後ろを掻く手がなかなか止まらない。見ているうちに、アデーレの頬まで熱くなってきた。
迎えた日曜日は、川面を渡る風の気持ちいい快晴だった。
約束通り橋の袂で落ち合い、ゆるやかな土手の草地に並んで腰を下ろす。マティアスが開いた古い航海記には、彼が少年の頃に信じ込んだという大海蛇の版画が刷られていた。荒波から鎌首をもたげた怪物は、恐ろしいというより妙に間が抜けていて、角の生えた顔がどこか人懐こい。
「これが、川で見張っていた海蛇ですの?」
「本気で信じてたんだから笑うな」
マティアスは頁の端を指で押さえた。
「俺は王都から出たことがないから、本物の海を知らん。いつか腕を上げて仕事に区切りがついたら、港町まで行って、でかい帆船に乗ってみたいんだ」
木屑の匂いのする手で頁を撫でながら、彼は川下の方を見ていた。工房の外の世界への憧れが、そのまま顔に出ている。
「素敵ですね。私は、隣町の定期市に行ってみたいです。婚約していた頃は家の用事ばかりで遠出もしませんでしたけど、知らない土地の染め糸や、素朴な焼き物が並ぶ通りを、気の済むまで歩いてみたくて」
「隣町くらいなら、乗合馬車ですぐだぞ」
「ええ。自分で決めて、自分の足で行ける場所を、一つずつ増やしたいんです」
小さな望みを口にして、相手の望みに耳を傾ける。誰かの期待に応える話ではなく、自分の明日の話をする。それだけで、こんなに体が軽くなる。
「これ、食ってみるか」
マティアスが上着のポケットから油紙の包みを取り出した。中身は褐色の焼き菓子で、二つに割った片方を差し出してくる。口に含むと、強い苦味と焦げた糖蜜の香りが広がった。
「ふふ、本当に苦いですわね」
「だから言っただろうが」
笑った彼の手が、草の上に置かれる。航海記を覗き込もうと身を寄せた拍子に、アデーレの指先が、その厚い手の甲に触れた。
二人の指が同時に跳ねた。けれど、どちらもすぐには手を引かない。川風が草を鳴らす音だけが、しばらく続いた。
この手の温かさを、もう少し知りたい。そう思ってしまった自分を、アデーレはもう、新しい暮らしが楽しいせいにはできなかった。
この人が、好きなのだ。
土手を歩いて戻る道すがら、アデーレは隣を歩く彼の横顔を見上げた。
「マティアスさん。今日は連れてきてくださって、ありがとうございました」
「……俺も、今日はやけに時間が早く過ぎた」
「次は、私の好きな場所にお連れしてもいいですか? あのビスケットを買ったパン屋さんなんです。焼きたてのライ麦パンが、とても美味しくて」
マティアスは少しだけ歩調を緩め、前を向いたまま頷いた。
「ああ。連れてってくれ」
家具の注文でも、身分の義理でもない。二人だけの、次の約束だった。




