第4話
「前の縁の補強板は、そのまま残していただけませんか」
アデーレの言葉に、マティアスは眉を寄せて腕を組んだ。
「残したら角は当たったままだぞ。削れば楽にはなるが、あそこの厚みを落とすと座枠全体が弱る。何年も持たせるなら、あの板はいじりたくない」
「でしたら木はいじらずに、上に載せる布と詰め物で何とかなりませんか」
アデーレは立ち上がり、楢の座面を指でなぞった。
「木工のことは分かりませんけれど、針仕事なら少しは分かります。座布団を縫うとき、端まで綿を均等に詰めると、縁が硬くなりすぎて膝の裏を押してしまうことがあるんです。手前の詰め物を薄くして、腰の乗る奥の方を厚くすれば、自然に傾きがついて、角が当たらなくなるのではないかしら」
マティアスはしばらく、座面とアデーレの指先を見比べていた。やがて作業台の隅から、麻布の端切れと詰め物用の馬毛の束を掴んできた。
「試してみるか」
無駄のない手つきで麻布を畳み、座面の奥側にだけ仮に置いて、その上に革の当て布を重ねる。
「もう一度、座ってもらえるか」
腰を下ろすと、さっきの違和感が嘘のように消えていた。座る位置を少しずらしてみても、腿の裏は痛まない。
「どうだ」
「不思議なくらい、痛くありません」
「ちょっと代わってくれ」
マティアスはアデーレと入れ替わり、長い脚を窮屈そうに折りたたんで座った。何度か体重をかけて背もたれを軋ませてから、頭を掻く。
「なるほどな。俺が座って平気でも、あんたが楽とは限らない。丈夫ならいいと決めつけてた。悪かった」
言い訳ひとつせずに非を認める姿がおかしくて、アデーレは小さく吹き出してしまった。
「何か可笑しいか?」
「いいえ、失礼しました。ご自分の間違いを、そんなにあっさり認める殿方を、あまり存じ上げなかったものですから」
皮肉ではなく本心だった。かつての婚約者は、自分の非を認めるくらいなら、病人の体調の方を疑う人だった。
「間違った寸法で納める方が、よっぽど恥ずかしいからな」
マティアスは苦笑して立ち上がり、棚から布の見本帳を取ってきた。
「座面の造りはそれでいく。次は張る布だが、うちの在庫でその予算なら、この灰色の厚織りか、茶色の帆布の二択だ」
アデーレは差し出された布地を見つめ、少し考えた。
「あの、よろしければ、布は私の手持ちのものを使っていただけますか? 部屋を借りたときに実家から持ってきた、丈夫な青い織り布が余っているんです。あの部屋の光に、とてもよく合う色で」
「余り布か。幅と厚みが足りれば使える。持ってくるなら、次の日曜の昼過ぎだ。その時間なら手が空いてる」
「分かりました。では日曜日に、また伺います」
工房を出たアデーレの足取りは、来たときよりずっと軽かった。
思ったことをそのまま言って、それをまともに受け止めてもらえる。たったそれだけのことが、こんなに楽しいとは知らなかった。日曜日が、今から待ち遠しい。
日曜日の昼前、アデーレは鏡の前を何度も行ったり来たりしていた。
手持ちの麻のワンピースに淡い灰色のショールを合わせるか、動きやすい薄緑の上着にするか。工房へ布を届けに行くだけなのだから、木屑がついても困らない服で十分なはずだ。それなのに迷っている自分に気づいて、苦笑する。
胸のあたりがそわそわと浮き立つのを、彼女はまだ、新しい暮らしが楽しいせいだと思うことにしていた。
青い布の包みを抱えて工房に着くと、マティアスは作業台の削り屑を箒で払っているところだった。
「こんにちは、マティアスさん。布をお持ちしました」
「ああ」
彼は手を止め、藍に近い青の織り布を広げて両手で引き、目の詰まり具合を確かめた。
「しっかり詰まってるな。これなら擦れにも強い。十分使える。ただ、座枠に巻き込んで裏から鋲で留めるなら俺の手間だけで済むが、袋に縫って中身を出し入れできるようにするなら、仕立ての手間が別にかかる。縫い子に頼むと、そのぶん予算を超える」
恩着せがましさのない説明に、アデーレは首を横に振った。
「それなら、私が縫います。自分の椅子ですし、布の端の始末くらいなら慣れていますから」
「客に作業を押しつける気はねえぞ。面倒なら鋲留めで済ませる」
「押しつけられたわけじゃありません。自分で針を入れたいんです」
誰かの体裁のために急かされて動かす針とは、まるで違う。自分が毎日過ごす場所を、自分の指で整えていく。かつては重荷でしかなかった針仕事が、今日は楽しくて仕方がなかった。
作業台の隅を借りてアデーレが布を裁ち、針を運ぶ横で、マティアスは楢の脚を削り、組み手の緩みを打ち直していた。
工房には木槌の乾いた音と、糸が布をくぐる音だけが続いている。黙っていても、少しも気詰まりではなかった。
削り粉を息で吹き飛ばしてから、マティアスが口を開いた。
「航海記の話をしただろう」
「ええ。川の土手で読まれるという」
「十の頃、東の海に棲むっていう大海蛇の挿絵を本気で信じてな。あの川の底にもきっといるはずだと、春の間じゅう、干し肉を針に刺して土手で見張ってた」
アデーレは針を止めて、彼を見上げた。
「釣れましたの?」
「釣れるわけがない。上がったのは錆びた蹄鉄と腐った流木だけだ。最後は親父に、川に海蛇がいるかと頭を小突かれて終わった」
ぶっきらぼうな口ぶりのわりに、口元が緩んでいた。大真面目な顔で土手に座り込んでいる少年の姿が目に浮かび、アデーレは笑いをこらえきれなくなった。
「ふふ、可愛らしい失敗ですこと」
「笑うな。本人は真剣だったんだ」
「では、おあいこです。私も子どもの頃、庭の薔薇を早く咲かせたくて、毎朝温めたミルクを根元に注いで、庭師にこっぴどく叱られたことがありますわ」
「植物にミルクか。どっちもどっちだな」
マティアスが肩を揺らして笑い、アデーレも声を立てて笑った。くだらない勘違いを、そのまま笑い合える。それだけのことが、どうしようもなく嬉しかった。
座面の袋を縫い上げ、楢の枠にぴたりと収めたときには、窓の外が橙色に傾いていた。
「脚の仕上げと油の塗り込みは明日中に終わらせる。三日後、水曜の夕方にあんたの部屋へ運ぶが、都合はどうだ?」
「ええ、その時間でしたら家におります」
アデーレは生まれ変わった椅子を眺め、それから彼に目を移した。
「部屋をお見せするのが、今から楽しみです」
言ってから、独り暮らしの娘が男の人を部屋に招く言葉としては軽はずみだったかと、頬が熱くなった。
マティアスも工具を片づける手を止め、視線を宙にさまよわせた。
「……そうか。運び込むから、通り道の荷物はどけておいてくれ」
短く返した彼の耳の端が、夕日のせいだけでなく赤くなっている。アデーレは、それを見なかったふりをした。




