第3話
第三話 窓辺の一脚
石畳の路地の角を曲がると、乾いた木屑と塗料の匂いが鼻先をかすめた。
貸し部屋の大家に「腕は確かだが愛想はない」と教えられた工房は、初夏の風を通すために扉を半分ほど開け放っていた。
敷居の外から声をかけると、奥の作業台で鉋を引いていた男が手を止めた。
「いらっしゃい」
削り屑を払って出てきたのは、袖を肘まで捲り上げた青年だった。背が高く、肩幅がある。木屑で白くなった前髪の奥から、灰色の目がアデーレの靴先から帽子までをざっと眺めた。
「大家さんに、こちらを教えていただきました。アデーレ・ヘイウッドと申します。窓辺に置く椅子を一脚、探しているのですが」
「一脚か。今あるものから選ぶなら、奥へどうぞ」
青年は手桶の水で指先を大雑把に洗い、布で拭きながら歩いてきた。
「マティアスだ。うちにあるのは三種類。新品、手直しした中古、木を選んで一から組む注文品。先に予算を聞かせてくれ。無理な数字を聞いてから断るのは、お互いに時間の無駄だ」
ぶっきらぼうな物言いに少し戸惑いながらも、アデーレは銀貨の入った小さな革袋を取り出し、出せる上限を正直に伝えた。
マティアスは片方の眉だけを上げた。
「なるほど。なら、右手の新品の棚は見ないことだ。目が肥えるだけで腹が立つ」
彼は踵を返し、手直しの済んだ家具が並ぶ一角へアデーレを案内した。
「その予算なら、引き取った古い楢の椅子がある。手入れはしてあるが、前の持ち主がつけた傷はそのままだ」
置かれていたのは、飾り彫りのない簡素な椅子だった。背もたれの縁には細かな打ち傷があり、濃い茶色の木肌は、手のひらが何度も触れた場所だけ色が明るく抜けている。
「傷が気になるなら削り落とすが、そのぶん手間賃をもらう」
「いいえ、このままで構いません。誰かが毎日のように腰掛けていた跡でしょう? いい風合いだと思います」
アデーレが背もたれの木目を撫でると、マティアスは少し意外そうに喉を鳴らした。
「そう言う客は珍しい。座面の麻布は擦り切れてるから、在庫の端切れで張り替える。あとは脚をあんたの背丈に合わせて切れば、ちょうどその予算で納まる」
押し売りもしなければ、憐れんで値を引くこともしない。言われた条件の中でできる仕事を、淡々と組み立てていく。その態度が、アデーレには妙に心地よかった。
「ありがとうございます。では、そのようにお願いできますか」
「いいが、その前に一つ聞く」
マティアスは作業台の縁に腰を預け、腕を組んだ。
「あんたは、この椅子で何をするんだ?」
「え?」
「本を読むのか、手仕事をするのか、ただ外を眺めるのか。それで脚の長さも、座面の硬さもまるで変わる。あんたは、この椅子に座って何がしたい?」
アデーレは答えに詰まった。
言われた通りに座布団を縫い、言われた通りに手配をしてきた日々の中で、自分の一日をどう過ごしたいかなど、ほとんど考えてこなかった。
窓辺で本を開く自分の姿なら、部屋を借りたときに思い描いた。けれど、朝起きてから日が落ちるまで、そこでどんな時間を重ねるのかと聞かれると、言葉が出てこない。誰の役にも立たない時間を、自分はどう過ごしたいのだろう。
「……本を読みたいです」
アデーレは楢の背もたれを見つめながら、一つずつ言葉を拾った。
「それから、袖口のほつれを直すような、ちょっとした手仕事。あとは、お茶を飲みながら、何もしないで通りを眺める時間もほしいです」
「休むための椅子だな」
マティアスは短く頷いた。
「一日じゅう机にかじりついて帳面をつける椅子じゃないなら、背もたれは少し寝かせた方がいい。俺も休みの日に川の土手で航海記なんかをめくるときは、背筋を伸ばしてたら肩が凝る」
さらりとこぼれた休日の話に、アデーレの肩から少し力が抜けた。この人は、休むことを怠けだとは言わない。
「一度座ってみてくれ。足が床に届くか見たい」
マティアスは座面の木屑を布で払い、一歩下がった。
促されるまま腰を下ろすと、古い木が低く鳴った。深く座ると、靴の爪先が床をかすめるくらいで、足の置き場が定まらない。
「浮いてるな」
彼は作業台の足元から薄い端材を二枚拾い、アデーレの足元に重ねて置いた。
「その上に足を乗せてみてくれ」
言われた通り靴底を板に預けると、膝が自然な角度に曲がり、体の重みが座面にすとんと落ちた。脚を板二枚分切るだけで、こんなに座り心地が変わるのかと驚く。
けれど、そのまま少し座っていると、別の違和感が膝の裏に出てきた。
「あの」
「なんだ」
「座面の前の縁が、腿の裏に強く当たる気がします。骨に響くような……」
専門の言葉は知らないので、感じたままを口にした。
「前の持ち主が座枠を歪ませないように、前の縁に厚い補強板を噛ませてあるんだ。頑丈さを優先した造りだからな」
理屈を説明されて、アデーレは反射的に口を閉じた。
「そう、ですか。なら、座布団を敷けば気にならなくなるかもしれません。このままで――」
長年の癖で引き下がろうとしたアデーレを、マティアスが遮った。
「待ってくれ。困るところは、今のうちに言ってほしい」
彼は作業台に両手をつき、灰色の目でアデーレを見据えていた。
「手直し代をもらうんだ。我慢しながら使う椅子は渡したくない。どこが困るか、もう少し聞かせてくれ」
アデーレは小さく息を吸い、目を逸らさずに彼を見返した。
「では一つ、直していただきたいところがあります」




