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幼馴染を憐れむごっこなら、家族だけでしてください  作者: 九葉(くずは)


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2/10

第2話

翌朝、アデーレは花屋へは向かわず、朝靄の残る小道を抜けてハミルトン邸を訪ねた。

寝室のカーテンは引かれたままで、部屋の隅に煎じ薬の匂いがこもっていた。寝台のフリーダは、白い寝間着の胸元を小刻みに上下させ、浅い息を繰り返している。枕元では初老の主治医と侍女が、少女の額を冷たい布で拭っていた。


「フリーダ様、お加減はいかがですか」

声をかけると、フリーダは重そうに瞼を開け、弱々しく口元を緩めた。

「アデーレ様。せっかくの催しを台無しにしてしまって、ごめんなさい」

「謝らないでください。体調を崩すのは、誰のせいでもありません」

アデーレは寝台の脇に膝をつき、少女の冷えた指先に触れた。


「伯爵夫人とオスカー様が、お見舞いに大輪の百合と薔薇をお持ちになるおつもりです。もし香りがお辛いようでしたら、遠慮なく仰ってくださいね」

フリーダの顔がこわばった。傍らの主治医が眉をひそめ、首を横に振る。


「今は強い香りを避けてください。お見舞いの花は寝室に入れないよう、家令に伝えておきます」

「お花は、とても綺麗だと思います」

フリーダは掠れた声で、それでもはっきりと言った。

「でも今は、匂いを嗅ぐだけで、胸が押し潰されそうになるんです。どうか、お断りしていただけませんか」


「かしこまりました。安心してお休みになってください」

アデーレが深く頷くと、家令も寝室に花は入れないと約束し、見舞い客の応対を引き受けてくれた。医師も使用人も、少女の容態をよく分かっている。ここで自分にできることは、もう一つしか残っていなかった。


隣のグレイヴス伯爵邸に戻ると、玄関ホールはむせ返るような甘い匂いで満ちていた。

大理石の床に、特大の花籠が二つ据えられている。純白の百合が幾重にも花弁を広げ、濃紅の薔薇がその間を埋め尽くしていた。


「あら、アデーレさん、戻ったのね」

階段を下りてきた夫人は上機嫌だった。出仕前の正装を整えたオスカーも、満足げに籠を見下ろしている。

「母上が待ちきれずに、昨夜のうちに注文なさったんだ。朝一番で市場から届かせた。素晴らしいだろう? これなら病室の陰気な空気も一気に華やぐ。さあ、花瓶に移して、あいつの枕元へ運んでやってくれ」

「オスカー様、奥様。このお花を、ハミルトン邸の寝室へお持ちすることはできません」

アデーレがはっきり告げると、二人の笑顔が同時に固まった。

「……なんですって?」

夫人が眉を吊り上げた。

「主治医の先生に伺ってまいりました。今は強い香りを避けるように、とのことです。フリーダ様ご自身も、お断りしてほしいと仰っています」

「大袈裟な」

オスカーが鼻を鳴らし、一歩詰め寄った。

「母上がどれだけ心を砕いてこの花を選んだか、分からないのかい? 弱っているときこそ、美しいものに囲まれるべきなんだ。百合の匂いが毒になるはずがないだろう。君はいつもそうやって、僕たちの好意に水を差す」

「その好意のせいで、ご本人が苦しんでもよろしいのですか」

「フリーダが嫌がるはずがないわ!」

夫人が金切り声を上げた。

「あの子は昔から、私の選ぶものを何でも喜んでくれたのよ。それを他人のあなたが勝手に決めつけて。なんて冷たい人なのかしら。病人を気遣う心が、あなたには欠けているんじゃないの?」


冷たい人。

座布団を縫い、献立に頭を悩ませ、少女の寝室の空気まで気にかけて走り回った時間は、この二人にとって「気遣いの欠如」でしかなかった。

フリーダが嫌だと言った。その言葉をそのまま伝えても、二人は花の美しさと自分たちの心遣いの話しかしない。


アデーレは背筋を伸ばした。

声は震えなかった。二年間、言いかけては飲み込んできた言葉が、今朝はもう喉で止まらなかった。


「奥様、オスカー様。フリーダ様は今、主治医の先生のもとで休んでおいでです。あの方の息を苦しくする花を、私の手で運ぶことはいたしません」

「アデーレ、君は何様のつもりだ! 僕の婚約者として――」

「いいえ。もう、婚約者ではございません」

アデーレは左手を持ち上げ、薬指の細い金の指輪に触れた。

ゆっくりと引き抜く。二年前、オスカーが少し照れくさそうに嵌めてくれた日のことは覚えている。あのときは確かに嬉しかった。それでも、指から抜けた輪は、ただの冷たい金属だった。

放り投げたりはしない。呆然と立ち尽くすオスカーの、半ば開いた掌の上に、丁寧に載せた。


「幼馴染を憐れむごっこなら、ご家族だけでどうぞ」

「……え?」

「他人の時間と手間を踏み台にしなければ成り立たないお優しさなら、私には必要ございません。婚約は、本日をもって解消させていただきます」

オスカーの顔から色が抜けた。指輪の重さを確かめるように、掌の上で指先が小さく震えている。

「お待ちなさい、アデーレさん! こんな些細なことで!」

「失礼いたします」

一礼して、アデーレは甘ったるい匂いの立ちこめる玄関を出た。背後で夫人がまだ何か叫んでいたが、百合の香りにまぎれて、もう言葉としては聞き取れなかった。

部屋に残した荷物は、あとで実家から人をやって引き取らせればいい。


ヘイウッド子爵邸に戻ったアデーレは、執務室で父と向かい合った。

これまでの経緯と、指輪を返してきたことを、感情を交えずに報告する。最後に、二年分の手帳を机に置いた。頼まれた用事と、立て替えた費用が、日付ごとに書きつけてある。「来月にまとめて」と言われたまま、一度も戻ってこなかった分も含めて。

黙って聞いていた父は、手帳を何枚かめくり、深く息を吐いて眼鏡を外した。

「すまなかった、アデーレ。良縁だと信じて送り出したが、お前をここまで追い詰めていたのだな」

「いいえ、お父様。私が、役に立つことばかりに必死になっていたのです」

「相手が伯爵家だろうと、娘をこんなふうに使う家へ嫁がせる気はない。後のことは私に任せなさい。この手帳も、預かっておく」

数日後、伯爵家との間で婚約解消の書面が正式に取り交わされた。伯爵家にも見栄がある。表向きは「双方の合意による円満な解消」として処理された。


それから一週間。

身辺を片づけたアデーレは、王都の職人街に近い静かな通りに立っていた。

家督を継ぐ兄夫婦に気兼ねせず暮らすため、小さな貸し部屋を借りることにしたのだ。嫁ぐときのために用意されていた蓄えの一部を、父が分けてくれた。それを少しずつ崩しながら、自分の裁量で暮らしを組み立てる。

案内された二階の部屋は、小さな台所と、隅に寝台を置ける居間だけの質素な造りだった。そのかわり、南向きの窓から午後の光がたっぷり差し込んでいる。


「何もないわね」

空っぽの部屋の真ん中で、アデーレは呟いた。

床には傷があり、壁紙も少し古びている。誰かのために誂えた調度も、見栄のための飾り布も、ここには一つもない。

窓辺に歩み寄り、陽だまりに両手をかざした。

まずは、椅子を一つ買おう。

誰かに頼まれて縫う座布団とは違う。自分が腰を下ろして、陽を浴びながら本を開くための、しっかりした木の椅子を一脚。

それを自分で選んでいいのだと思った途端、笑い出したいような気持ちが込み上げてきた。

アデーレは誰もいない部屋で、声を出して少しだけ笑った。


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