第1話
「フリーダは本当に健気な子なのよ。ずっと部屋に閉じこもっていては、気も滅入ってしまうでしょう? だからね、アデーレさん。今度の水曜日に、裏の果樹園の丘までピクニックに連れ出してあげようと思うの」
グレイヴス伯爵邸の応接間で、マティルダ夫人は満足そうに紅茶のカップを置いた。
窓辺には色とりどりの刺繍糸と見本の布地が広げられている。夫人の正面に座るアデーレ・ヘイウッドは、膝の上で揃えた指先に力を込めた。
「裏の丘、ですか。あそこは傾斜が急だったと記憶しておりますが」
「ええ、だから馬車をぎりぎりまで寄せるのよ。オスカーが手を引いて、敷物を広げた木陰まで連れていけば問題ないわ。ねえ、オスカー?」
「ああ、母上の言う通りだ」
夫人の隣に腰掛けていたオスカーが、整った顔をほころばせて頷いた。儀礼官見習いとして王宮に通い始めたばかりの彼は、仕立ての良い上着の袖口を整えながら胸を張る。
「フリーダもきっと喜ぶよ。あいつは昔から庭の木を眺めるのが好きだったからね。病気のせいで同じ年頃の友人とも遊べず、ずっと一人なんだ。僕たちが外へ連れ出してやれば、いい気晴らしになる」
「まあ、なんて優しい子でしょう。あの子の母親代わりとして、私たちが気にかけてあげなくてはね」
母と息子が笑みを交わす。
アデーレは口を開きかけ、二人の笑顔を見て言葉を飲み込んだ。代わりに手帳を開く。
「フリーダ様のお体は、長い外出に耐えられますでしょうか。先週も熱が出たと伺いましたが」
「大丈夫よ。若いのだから、少しくらい風に当たった方が元気になるわ」
夫人は軽く手を振って、アデーレの心配を払いのけた。
「それよりも準備よ、アデーレさん。あの子の細い体では、硬い地面に座るのは辛いでしょう? 草の上に敷く厚手の敷布と、背中を支える座布団を四つほど用意してちょうだい。道中で冷えないように、薄手のひざ掛けも。風除けの幌も点検しておいてね」
「座布団を四つ、ですね」
「それと、弁当も大事だ」
オスカーが身を乗り出した。
「あいつの胃に障らないよう、脂っこいものは避けてくれ。白身魚の蒸し物や、皮を剥いた果物のコンポートがいい。もちろん僕と母上の分は別で、見栄えのするものを頼むよ。同僚に話したら、素晴らしい催しだと褒められてね。少し多めに作って、付き添いの従僕たちにも配れるようにしてほしい」
「承知しました。料理長と相談して献立を考えます。費用の見積もりですが――」
「ああ、そのあたりは君の手元でうまくやりくりしておいてくれ。来月にまとめて清算するから」
オスカーは事もなげに言って立ち上がった。
「僕はこれから登庁だ。母上、あとはアデーレに任せておけば安心ですよ。彼女は本当に気が利く」
「ええ、頼りにしているわよ、アデーレさん」
アデーレは立ち上がり、淑女の礼で二人を見送った。扉が閉まってから、手帳を握る指先が白くなっていることに気がついた。
アデーレ・ヘイウッドは、子爵家の次女だった。
三つ年上の姉は早くに良家へ嫁いでいる。器量も人当たりも申し分のない姉の陰で、アデーレは昔から目立たない妹だった。幼い頃に亡くなった母の口癖は、「女はね、家族を支えて、周りの役に立つことで居場所をもらうのよ」。
その言葉は、母がいなくなってからもアデーレの中に残り続けた。
二年前、伯爵家の次男オスカーとの婚約が決まったとき、格上の家との縁に恐縮する父のためにも、立派な妻にならなければと誓った。一年前からは婚礼に備えて伯爵邸の一室を与えられ、家政の見習いとして暮らしている。伯爵は領地の経営で王都を離れていることが多く、王都邸の采配は夫人が握っていた。
頼まれた用事は断らなかった。親族への付け届けも、夫人の茶会の席次表も、オスカーの名で出す礼状の下書きも、すべて引き受けてきた。
頼られるのは、必要とされている証拠。そう思っていた。
ところが、この半年ほどで「頼まれごと」の中身が変わってきた。
隣の準男爵家に住む十六歳のフリーダ・ハミルトン。オスカーの幼馴染である彼女は、幼い頃から気管支が弱く、季節の変わり目には必ず寝込む。両親は地方の本領の経営に追われて王都邸を空けがちで、屋敷には家令と数人の使用人が残っているだけだ。
マティルダ夫人はそれを「哀れな境遇」と呼び、ことあるごとに隣家の世話を焼くようになった。
そして、その世話に要る手間は、一つ残らずアデーレのところへ回ってくる。
その日の午後、アデーレは自室の小机に向かい、座布団の側を縫っていた。
納戸にあった座布団は草木染めの素朴な布で、地面に置くにはちょうどよかったのだが、夫人は「みすぼらしい」と顔をしかめた。新しく買う予算は出ない。結局、アデーレが実家から余り布を取り寄せ、四枚分の側を急いで仕立て直すことになった。
針を運びながら、窓の外に目をやる。生け垣の向こうに、ハミルトン邸の二階の窓が見えた。昼間でもカーテンが引かれたままの、フリーダの部屋だ。
乾いた咳をこらえて、伏し目がちに笑う少女の顔が浮かぶ。
フリーダ様は、本当に丘へ行きたいのだろうか。
アデーレは針を針山に戻し、手帳を持って隣家へ向かった。
通された薄暗い私室で、フリーダは肩にショールを掛け、寝台に浅く腰掛けていた。
「お弁当の献立について、召し上がりたいものや控えたいものを伺いに参りました」
アデーレが腰をかがめて尋ねると、フリーダは困ったように細い眉を寄せた。
「わざわざありがとうございます、アデーレ様。あの、伯爵夫人には言えなかったのですけれど、丘は風が強く吹き抜けると聞いていて。冷たい風を吸うと、咳が止まらなくなってしまうんです。もし許していただけるなら、遠出ではなく、うちの裏庭のベンチでお日様に当たるだけで、私は十分嬉しいのですが」
消え入りそうな声だった。誰かの善意を傷つけるのが怖いのだろう。少女は言い終えるまでに、何度も息を整えていた。
夕刻、アデーレは伯爵邸の居間で、登庁から戻ったオスカーと夫人に言葉を選んで伝えた。
「フリーダ様は、丘の風で咳が出ることを心配しておいででした。丘ではなく、ハミルトン邸の庭先でお茶をご一緒する形に変えてはいかがでしょうか」
夫人は眉を下げて笑った。
「まあ、あの子ったら、また遠慮して。若い娘の遠慮を真に受けてどうするの。丘の上の澄んだ空気を胸いっぱいに吸えば、胸の曇りだって吹き飛ぶわよ。ねえ、オスカー」
「母上の言う通りだ。アデーレ、病人には少し強引な励ましが要るときもあるんだよ。君は慎重すぎる」
オスカーは書類から顔も上げずに手を振った。
少女がやっとの思いで口にした頼みは、「遠慮」の一言で片づけられた。
その晩、アデーレは手帳に新しい行を書き足した。
座布団の側布、四枚分。実家の余り布。ピクニックの弁当、従僕の分を含めて立て替え。
ひとつ上の行にも、そのまた上の行にも、同じ「立て替え」が並んでいる。「来月にまとめて」と言われた月は、もう何度も過ぎていた。
火曜の夜、ピクニックの前日。
縫い上げた四枚の座布団を布で包み終えたところへ、ハミルトン家の使いが駆け込んできた。
フリーダが夕方から激しく咳き込み、熱を出して起き上がれなくなったという。外出はとても無理だと、家令からの丁寧な詫びが添えられていた。
急いで知らせに行くと、夫人は居間の長椅子でため息をついた。
「困った子ね。せっかくオスカーも休みを合わせたのに」
けれど、その目は落胆に沈むどころか、すぐに別の熱を帯びた。
「でも、落ち込んでいたら病気が長引くだけよ。アデーレさん、ピクニックは延期にして、明日の朝一番にお見舞いに伺いましょう。薄暗い病室をぱっと明るくするの。香りの強い大輪の百合と薔薇を、部屋いっぱいに飾りつけるのよ。市場の花屋で、腕いっぱいに買ってきてちょうだい」
風の強い丘さえ怖いと言った少女の枕元に、香りの強い百合を部屋いっぱいに。
弾んだ声で花の色を数え始めた夫人の前で、アデーレは座布団の包みを抱えたまま立っていた。
丘へ行くはずだった四枚は、まだ誰の重みも知らない。
花屋より先に、行かなければならない場所がある。




