第6話 「生きて」
シルフィの詠唱はまだ続いていた。足元には淡い円が描かれ、少しずつ光を増していく。
その時間が、やけに長かった。
エリシアは脇腹を赤く染め、片膝を地についたまま、俺たちと闇のあいだから動かない。その背中越しに闇がうねるたび、障壁の光が明滅した。
足の裏が地から浮くような感覚がして、転移が始まった。
その瞬間、考えるより先にエリシアのほうへ手を伸ばしていた。
こっちへ。一緒に。
届かなかった。
エリシアがほんの少し振り返り、俺の伸ばした手を見た。その目元が、わずかにやわらいだ。
「生きて」
それだけだった。
視界が白く灼けた。
*
次に目を開けたとき、俺は谷の外に立っていた。遠くはない。振り返れば、涸れた谷の入り口がまだ見える。
闇の気配はここまで届いておらず、あたりは静かな昼だった。
隣で、シルフィが崩れ落ちた。両手で顔を覆い、声を殺して泣いている。
「戻るぞ」
俺は来た道へ足を向けた。
「だめです」
シルフィが俺の腕を掴んだ。
「まだ、あそこにいるんだぞ!」
「分かってます!」
初めて、シルフィが俺に怒鳴った。顔は涙でぐしゃぐしゃだった。
「……分かってます。でも、行っても邪魔になるだけです。エリシアが、私たちを生かすために飛ばしたんです」
俺は動けなかった。戻ろうと思えば戻れる距離なのに、足が出ない。
右手を見る。
何も握っていなかった。
*
行きは三人だった。
帰りは、二人だった。
王都までの道を、シルフィと黙って歩いた。シルフィはもう泣かなかった。
途中、来たときにも休んだ川辺を通った。三人で囲んだ焚き火の跡は、もう残っていない。
歩いているあいだ、ずっとあの一言が耳に残っていた。
――生きて。
言われた通り、俺は生きて帰っている。
エリシアを置いて。
*
王都へ戻ると、研究所の門の前でシルフィが足を止めた。
「ガルフォードさん」
「ん?」
シルフィは何か言いかけて、少し迷った。
「……ありがとうございました」
「……俺は何もしてない」
「それでも、です」
そう言って、シルフィは頭を下げた。俺は何も返せなかった。
シルフィが研究所へ入っていくのを見届けて、騎士団へ戻ると、上官に呼び出された。人払いをした部屋で「今回の件は終わった」と短く告げられ、見聞きしたことは一切口外するな、と念を押され、話は終わった。
「対象は」
俺は訊いた。
「あの人は、どうなったんですか」
「お前が気にすることじゃない」
上官は目を合わせなかった。
「任務は終わりだ。よくやった。……もう、忘れろ」
よくやった。
連れ帰れと言われて、連れ帰れなかった俺に、上官はそう言った。俺は頭を下げて部屋を出た。
あの日のことが表に出ることはなかった。谷で何があったのかも、あの人が何をしたのかも知らされないまま、初めから何もなかったように日々だけが続いていった。
*
世界は、何も変わらなかった。
化身が目覚めかけたことを、誰も知らない。同僚はいつも通り訓練をして、酒を飲んで笑っている。俺もその中にいた。
けれど目を閉じると、あの背中が浮かんだ。脇腹を赤く染め、膝をついて、それでも退がらなかった背中。届かなかった手。
噂で聞いたんじゃない。この目で見てしまった以上、忘れられるはずがなかった。
公爵家の次男に生まれ、騎士として剣の腕もそれなりにあると思っていた。だが、あの谷では何の役にも立たなかった。
――強ければ。
もっと強ければ、あの場で何かできたんじゃないか。夜になると、そればかり考えた。どれだけ強くなればあの闇に届くのかさえ分からない。それでも、一つだけ分かっていた。
このままでは、次も同じだ。
*
ひと月ほどして、誰にも行き先を告げずに家を出た。騎士の身分も、家の名も置いてきた。
話に聞いた場所がある。どこの国にも属さない地の底にあって、強さだけが物を言う無法の街だという。そこへ行くつもりだった。
誰かを守れるようになるため、なんてたいそうな理由じゃない。
生きて、と言われた。なら、せめて――次は、あの背中を見ているだけの男ではいたくない。




