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第5話 化身の出現

 化身がいるという場所は、涸れた谷のさらに奥にあった。


 草も生えていない、灰色の岩ばかりの一帯だった。眷属の姿もない。風の音さえなく、その静けさがかえって俺の背筋を冷やした。


 エリシアが岩のひとつに手を触れ、目を閉じた。しばらく動かない。何かを読んでいるようだった。


「どう?」


 シルフィが小声で訊く。手のひらには淡い光の粒がいくつか浮かび、何かを測るように揺れていた。


「浅い」


 エリシアが目を開けた。


「じゃあ、まだ眠ってる?」


「……たぶん」


 その言葉をこの人が使うのを、俺は初めて聞いた気がした。いつも妙に断定的なのに。


「前より、早い」


 エリシアが呟いた。何のことだか俺には分からない。その横顔には、どこか腑に落ちないものが残っていた。


「今日は見るだけ。戻ってメルキテウスに伝える」


 俺は少しだけほっとした。討伐じゃない。調査だと上官も言っていた。見て、帰るだけなら――。


 だが、谷のいちばん奥では岩が裂け、深い亀裂の底に闇が凝っていた。


 闇が動いた。


 ほんのわずか、風もないのに表面が揺れた。それだけで、エリシアが一歩退がった。


 エリシアが自分から退がるのを見たのは、初めてだった。


「――だめだ」


 声が低い。


「もう、こっちを見てる」


 俺には目も顔も見えない。それでも肌が粟立ち、見られていると身体が勝手に悟っていた。


 エリシアが振り返る。


「シルフィ。今すぐガルフォードを連れて戻って」


「俺が前に出る」


 剣を抜いた。騎士だ。守られて逃げるだけなんて、できない。


「お前は下がって――」


「無理」


「まだ何もしてないだろ」


「だから言ってる」


 迷いのない声に、俺は言い返せなかった。


 シルフィが青い顔で両手を組み、聞いたことのない言葉を早口で唱えはじめる。


 その瞬間、闇が奔った。


 目にも留まらない。気づいたときにはエリシアが俺たちの前に立っていて、薄い光の壁が闇を弾いていた。エリシアの手が翻ると、空中にいくつもの光が生まれて闇へ撃ち込まれていく。闇が一瞬退いた。


 いける――そう思いかけた。


 違った。


 亀裂の底から、さらに闇があふれ出した。押し返したはずのものが、倍になって戻ってくる。エリシアの顔から余裕が消えた。


 俺も剣を構えて踏み出そうとしたが、どこへ斬り込めばいいのか分からない。俺より速い、俺より強い――そんなふうに比べていたこと自体が、馬鹿らしくなった。俺の剣では、あの闇に届きすらしない。


 本当に、無理だった。


 闇の一撃が障壁を砕き、エリシアの脇腹から赤いものが散った。それでも立っている。二撃目で膝をついても、俺とシルフィの前から退がらなかった。


 見覚えのある背中だった。


「エリシア!」


「来ないで!」


 初めて聞く鋭い声だった。脇腹から血を流して膝をついたまま、それでもまだ俺を止めようとしている。


「……シルフィ、急いで!」


「で、でも、エリシア――」


「時間がない」


 シルフィの目に涙が浮かんだ。それでも詠唱は止まらない。止めれば、俺たちが飛べない。


 俺は剣を握りしめたまま、その場から動けなかった。入れば邪魔になり、退がればエリシアが一人になる。


 守るために連れてこられた俺が、守られている。この人はたった一人で、あの闇を食い止めていた。

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