終章 5 奥方様の木箱
四日目の昼過ぎ、街道の先に人影が二つ見えた。
馬車が近づくと、片方が跳ねるように前へ出てきた。もう片方は、その後ろで待っている。
「エリシア!」
セドリックだった。最後に会ったときより背が伸び、肩のあたりも少し厚くなっている。
俺が馬車を止めると、エリシアが御者台から降りるより先に、セドリックはもう馬車の横まで来ていた。
「今度は、ずいぶん近くに住むんだね」
「そうね」
アルベリクもあとから歩いてきて、車輪の脇で足を止めた。旅装ではあるが供は二人だけで、王の外出という格好ではない。
エリシアが降りて、二人の前に立った。
「迎えに来てくれなくても、よかったのに。落ち着いたら、私から会いに行くつもりだったの」
アルベリクはセドリックのほうを見た。
「この子が、どうしても待てないと言うのでね」
「父上!」
「待ちきれなかったの?」
セドリックは口をつぐみ、やがて下を向く。
「……はい」
エリシアが笑った。
セドリックは顔を上げてエリシアを見る。
「エリシア、元気そうだね」
「うん。もうすっかり元気」
エリシアはそう言って、セドリックの隣に並んだ。背丈の差も、前よりずっと縮んでいる。
「これなら、セドリックが頻繁に押しかけても許してもらえそうだ」
「父上!」
「来てくれたら、私は嬉しいけど」
エリシアが言うと、セドリックが窺うようにこちらを見た。
「いつでも来たらいい」
セドリックの顔が明るくなった。
国境から先は、アルベリクたちも途中まで一緒に来た。分かれ道でセドリックが何度も振り返るので、エリシアはそのたびに手を振り返していた。
街道を緩やかに下っていくと、開けた土地に出た。畑のあいだの道を子どもが駆けていき、そのあとを犬がついていく。向こうには屋根が寄り集まり、その奥に森と山が霞んでいた。
エリシアは御者台で何度か身を乗り出し、ずっとそちらを見ていた。
「今日からここで暮らすんだね」
「ああ。そうだな」
町を抜けて坂を上がると、木立の中に屋敷があった。二階建てで、公爵家を見慣れた目には、ずいぶん小ぶりだった。正面の扉の前には、人が並んで待っている。
「伯爵様」
「奥方様」
家令が先に頭を下げ、後ろの者たちもそれに続いた。エリシアは一度動きを止めてから、頭を下げ返す。
「……よろしくお願いします」
家令は一瞬だけ顔を上げ、さっきより深く頭を下げた。
中へ入ると、エリシアが俺のそばへ寄って声を落とした。
「奥方様って、私のこと?」
「ほかにいないだろ」
「そうよね」
エリシアは入ってすぐの広間を見回して、天井の高さを目で測っていた。
*
それから何日かは、荷を解くのと、人の名前を覚えるのに費やされた。
俺のほうは初日から書付に埋まった。これまで代官が預かっていた記録を引き継いで、去年の収穫と税の入りを照合する。村へ出て話を聞き、道の傷んでいるところを見て回り、備蓄の蔵を開ける。
父と実家の家令に叩き込まれたことを、一つずつ実際にやっていく。数字の合わないところが二か所あって、それを詰めるのに数日かかった。
朝食のとき、エリシアが窓の外を見ながら言った。
「今日は午前中、庭を見てくるね」
「ああ」
その日は結局、昼食を挟んで夕方まで庭にいたらしい。庭師と何を話したのか、夜になって「あの木は切ったほうがいいんだって」と報告してきた。別の日には町へ出て、パンを二種類買って帰ってきた。どちらが好きか、俺に決めさせるつもりだったらしい。
雨の日には、朝食のあと寝台に戻っていた。
「今日は何もしない日にする」
「そうか」
昼に一度部屋を覗くと、本を伏せたまま眠っていた。
家令の話では、エリシアは屋敷の勘定にも顔を出しているらしい。数字を全部自分で確かめようとして、二日目に諦めたという。
「奥方様は、お任せになるのがまだ少し不得手のようです」
「そうだろうな」
そう返すと、家令はそれ以上何も言わなかった。
廊下ですれ違うとき、俺はいつの間にかエリシアの腰へ手を回すようになっていた。エリシアも避けず、そのまま少しこちらへ寄ってくる。村へ出ようと外套を羽織っていると、階段を降りてきて、口づけてから「気をつけて」と言う。
執務室にも来る。書付の山を覗き込んで「これ、全部読むの?」と聞き、勝手に椅子を持ってきて隣に座る。何度か繰り返すうち、俺も椅子一脚分の場所を空けておくようになった。
エリシアは読むわけでもなく、しばらくそこにいて、ときどき腕を絡めてくる。そのうち、満足したように出ていった。
*
訓練場は、屋敷から坂を下りたところにある。
その日は午前に領兵の訓練を見て、そのあと兵長の話を聞いていた。山から獣が下りてきたときのために、代官の頃から決めてある配置を、地面に図を広げて見せてもらっている。
坂のほうから足音がして顔を上げると、外套も持たずに、エリシアが下りてくるところだった。
「ねえ、何してるの?」
兵長が少し姿勢を正し、素振りをしていた若い兵が二人、手を止めた。
「奥方様。こんな土埃の立つところへ……。ご覧になっても、退屈なさいますよ」
「そう? 見てていい?」
「……はい。もちろんです」
兵長は図を指して、森沿いの道と川沿いの二か所に人を置く案を説明した。エリシアは横から覗き込んで、しばらく黙っていた。
「ふうん」
それだけだった。俺が兵長に続きを促そうとしたとき、エリシアが図の一点に指を置いた。
「でも、ここから入られたらどうするの?」
「……ここ、ですか?」
「うん。こっちに人数を置いたら、反対側が見えなくなるでしょう?」
誰も答えなかった。エリシアは指を動かした。
「この人数なら、分けないほうがいいと思う。二か所を見ようとすると、どっちも薄くなるから」
それから、図の別の場所を押さえる。
「一度ここまで引いて、狭いところで止めたほうが楽じゃない?」
「…………」
兵長が俺を見た。俺は図を見直して、エリシアが指した場所を順に追った。
「一度、それでやってみよう」
その午後、その形で動かしてみると、実際に楽だった。
*
二日後の午後、訓練場へ行くと、若い兵が木剣を構えていた。エリシアは柵の外に立って、それを見ている。誰かが持ってきたのだろう、腰かけ用の木箱が横に置いてあった。
兵が踏み込んで、大きく振った。形はきれいだった。
「それ、格好いいけど、そこまで振ったら次が遅いよ」
兵が止まった。
「……遅いですか?」
「うん」
エリシアは柵をくぐって中へ入り、兵の正面に立った。木剣は持たず、自分の手で位置を示す。
「今ので私だったら、ここを斬る」
兵の脇の下あたりに、指先が触れていた。
「…………」
「もう一回やる?」
「お願いします!」
兵が構え直した。
「今度は、そこまで振らないで」
もう一度、踏み込む。今度は、さっきより手前で木剣が止まった。
「うん。そっちのほうがいい。もう一回」
「はい!」
気づけば、ほかの兵も集まってきていた。俺はそのまま少し見てから、屋敷へ戻った。
翌日には、屋敷の前でエリシアが呼び止められていた。
「奥方様、少し見ていただいてもいいですか」
「うん。いいよ」
その翌日は、坂の途中で捕まっていた。
「奥方様、昨日のやつなんですが」
「どれ?」
そのうち、訓練場の柵の内側に、エリシア用の木箱が置きっぱなしになった。午前に俺が基礎をやらせ、午後にエリシアが捕まる。そういう形が、自然とできていた。
「奥方様! 明日の午後もいらっしゃいますか!」
坂を上がっていくエリシアの背へ、下から声が飛んだ。
「行かない。明日は本を読む」
数歩行ってから、エリシアは付け足した。
「明後日行くよ」
坂の下で歓声が上がった。エリシアは振り返って、小さく笑った。
*
半月ほど経った日、執務室の扉が叩かれた。兵長だった。背筋を伸ばして立ち、真顔で言う。
「伯爵。奥方様を午後の訓練にお借りしてもよろしいでしょうか」
俺は書付から目を上げなかった。
「本人に聞け」
「はっ」
兵長が出ていくと、廊下で足音が二つに増えて、遠ざかっていった。
その日の夕方、訓練場へ寄ると、兵が七、八人で輪になっていた。真ん中でエリシアが地面に何か描いていて、全員が真剣な顔で覗き込んでいる。
「……何をしている」
兵たちが一斉に固まった。エリシアだけが顔を上げる。
「作戦会議」
「そうか。続けてくれ」
俺は輪の外から地面を見た。川沿いの林の図で、線が何本か引いてある。そのうちの一本が、明らかに間違っていた。
「そこは、雨のあとは通れんぞ」
エリシアが線を消した。
「じゃあ、こっちだね」
俺も輪に入って、日が落ちるまでその話をした。
*
それからしばらくして、隣の領地から客が来た。用件は境の道の修繕の相談だったが、帰りぎわに妙なことを言った。
「伯爵様が着任されてから、こちらの兵がずいぶん強くなったと聞きまして」
「なんだ、その話は」
「伯爵様が相当な使い手だという噂です」
「……俺の話じゃない」
男は腑に落ちない顔のまま帰っていった。
その晩、食卓でその話をすると、エリシアがパンを切る手を止めた。
「そういえば、私も最近、町でよく聞かれる」
「どんなふうに?」
「奥方様も教えてるんでしょって」
「実際、教えてるだろ」
「聞かれたから答えてるだけよ」
エリシアはパンを口に入れて、それきりその話をしなかった。




