終章 4 旅立ちの朝
荷は出入口近くの一室にまとめられ、あとは運び出すばかりになっていた。先に発つ者の馬車も手配が済み、屋敷の準備が整ったという知らせも、北から届いている。
出発を控えたある日、ジェラルドが公爵家へ来た。
「ルーカスから聞きました。領地へ移られると」
応接間に通されたジェラルドは、まっすぐ座っている。背筋の伸ばし方が、あの夜会のときと同じだった。
「その前に、一度ご挨拶をと思って」
「わざわざ?」
「はい」
横ではルーカスが茶を飲みながら、菓子の皿を自分の手前へ寄せていた。
「あの夜から、少し考えました」
ジェラルドは膝の上で手を握っている。
「僕は、強い人は前に立つべきだと思っていました。英雄なら称えられるべきだとも」
「うん」
「でも、あの夜に……」
言葉を探している。
「強い人が、全部一人で背負えばいいわけじゃないんだなって」
私は黙って聞いていた。
「前に立つ人でも、誰かに支えてもらうことがあるんだって、思って」
それから、少し下を向いた。
「……まだ、うまく言えないですけど」
顔を上げたジェラルドが、私を見る。
「そっか。それを言いに来てくれたのね」
ジェラルドが小さくうなずいた。
「ありがとう。ジェラルドも頑張って」
ジェラルドは少し止まってから立ち上がり、きちんと礼をした。深く頭を下げたので、その髪に手を置いて、二度、三度と撫でた。
「……っ」
ジェラルドが顔を上げた。耳まで赤くなっている。
「……子ども扱いしないでください」
「だって、まだ十六でしょう?」
「俺も十六だけど、しょっちゅうだよ」
ルーカスがカップを置いて言った。
「ルーカスは、いいの」
「なんで」
ジェラルドが小さく笑った。
*
出発の前の晩、私は窓辺に立っていた。庭の木が風で鳴っている。
「明日だね」
「ああ」
「荷物、忘れ物ないかな」
「朝、もう一度見ればいい」
「そうね」
窓を閉めて、ガルフォードのところへ戻った。灯りを落とすと、木の音だけが残った。
*
出発の朝は、風がなかった。
荷はほとんど運び出され、屋敷の前には馬車が着けてある。使用人が最後の箱を積み、二人で紐の掛かりを確かめていた。ヴィクトルの子どもたちは馬の前に立ち、鼻のあたりを撫でようとしては手を引っ込め、そのたびにマリアが後ろから襟を引いている。
「エリシア。また遊びに行くね」
ルーカスが言った。
「うん。待ってる」
「今度、ジェラルドも連れていくよ」
「ジェラルドも?」
「うん」
私はルーカスを見て、少し考えた。
「ルーカスは、ちょっとどんくさいけど」
「えっ」
後ろでヴィクトルが吹き出した。
「でも、筋はいいから。頑張って」
「……褒められてる?」
「褒めてるよ」
「よかったな、ルーカス」
ヴィクトルに背を叩かれたルーカスは、納得のいかない顔のまま、それでも笑っていた。
アデリナが布の包みを二つ抱えて屋敷から出てきた。
「これも持っていって」
「母上、もう積めません」
「では、こちらだけでも――」
「母上」
「必要になります」
結局、二つとも御者台の下へ押し込まれた。私は横で笑っていた。
最後にヴァンデルが階段を降りてきた。
「ガルフォード」
「はい」
「領主になったからといって、一人で全部抱えるな」
「……はい」
ヴァンデルはガルフォードの肩に手を置いた。少しして、その手が離れた。ガルフォードはそのまま父を見ていたが、何も言わなかった。
ヴァンデルがこちらを見る。
「エリシア」
「はい」
「困ったことがあれば、いつでも知らせなさい」
少し間を置いて、続けた。
「ここも、お前の家だ」
私は返事の代わりに、深く頭を下げた。
横でアデリナが、また目のあたりを押さえている。
「いつでも帰ってきなさい」
「うん。帰ってくる。……ありがとう」
私は屋敷のほうを見た。扉は開いたままで、その向こうに見慣れた廊下が続いている。
「行くか」
隣に来たガルフォードが言った。
「うん」
馬車に乗ると、ガルフォードも隣に座った。侍女たちの馬車は後ろについている。
外から御者の声がした。
「出発いたします」
「ああ、頼む」
車輪が回り出す。
門を抜けるところで窓から振り返ると、屋敷の前にはまだ全員が立っていた。ルーカスが大きく手を振り、アデリナも振っている。ヴァンデルは動かなかったが、そこにいた。
私も手を振り返しているうちに、馬車は角を曲がり、屋敷は見えなくなった。王都の通りを抜けて街道へ出ると、道の両側に畑が開けていく。
私は前を向いた。
しばらくして、膝の上にあったガルフォードの手に、自分の手を重ねる。ガルフォードは手を返して、私の手を握った。
馬車はそのまま北へ向かった。




