終章 3 小さな式、預かっていた言葉
「簡単なのでいいよ。できれば、人も多くないほうがいいな……」
「ええ。式は静かにしましょう」
アデリナはそう言って、私の手を軽く握った。
その三日後、部屋に箱が運び込まれてきた。侍女が二人がかりで抱えてきて壁際に置き、また出ていっては、別の箱を持って戻ってくる。そのあとから、布見本の束を抱えた女が入ってきた。王都の仕立て屋だという。
「……その箱は?」
「ドレスです」
「何着あるの?」
アデリナは箱の紐を解いて、中の薄紙をめくった。
「式は小さくするのですよ。招くのも身内だけです」
「うん」
「ですから、こちらは別の話です」
私は椅子に座って、次の箱が開くのを見ていた。布はどれも柔らかい。白いのと、それより少し黄みのあるのと、また少し違う白。並べられると、違いが分かるようになってくる。
「これ、同じ色じゃない?」
「違います」
アデリナは即答した。
午後いっぱいかけて三着まで絞り、最後の一着は私が選んだ。仕立て屋が細い紐で寸法を測り直し、何か書きつけてから帰っていった。そのあとは髪型の話になった。櫛と細い留め具が何十本も並べられ、侍女が私の髪を持ち上げては下ろし、また持ち上げる。
「この髪は本当に、いくらでも遊べます」
「痛くない? って何度も聞かれるほうが疲れる」
「では聞きません」
「聞いてよ」
アデリナが笑った。
夕方には首も肩も強張っていたが、鏡の中の自分を見て、悪い気はしなかった。
*
式の日は、朝から晴れていた。
支度部屋で髪に最後の留め具を差してもらい、廊下へ出た。裾が思っていたよりも重く、階段は少し足を上げて降りる。
礼拝堂の前で、ガルフォードが待っていた。
騎士の礼装で、白い上着に銀の金具が入り、黒い剣帯には式典用の剣を下げている。私を見て動きが止まり、そのまま何も言わないので、しばらく待った。
後ろから出てきたヴィクトルが、弟の肩を叩く。
「何か言ってやれ」
ガルフォードが口を開いた。
「……綺麗だ」
ヴィクトルは少し笑って、先に礼拝堂へ入っていった。
「ありがとう」
私が言うと、ガルフォードはうなずいて腕を差し出した。
礼拝堂は小さかった。席にいるのはヴァンデル、アデリナ、ヴィクトルとマリア、その子どもが二人、ルーカス。それから、メルキテウスとシルフィとスレン。前の三列で足りた。
前に並ぶと、先にガルフォードの名前が呼ばれた。
「ガルフォード・アインベルグ。エリシアを妻とし、これから先を共に生きることを誓いますか」
「誓います」
今度は、私の名前が呼ばれた。
「エリシア。ガルフォード・アインベルグを夫とし、これから先を共に生きることを誓いますか」
隣を見ると、ガルフォードもこちらを見ていた。
「誓います」
手を重ねた。ガルフォードの手は乾いていて、少し熱かった。
誰も、すぐには動かなかった。
最初に拍手をしたのはルーカスだった。振り返ると、ヴィクトルたちがそれに続き、シルフィは手を叩きながら目元を拭っている。隣ではスレンが黙って手巾を差し出していた。
アデリナは泣いていた。マリアから受け取った手巾を握ったまま、何度も目元へ当てている。
メルキテウスは端の席で、膝の上に手を置いてこちらを見ていた。
上の子が大人たちを真似て手を叩き、下の子はその音に驚いて泣き出した。
席を離れるとき、アデリナが何も言わずに私を抱きしめた。肩のところが濡れたので、手巾はあまり役に立っていなかったらしい。ヴァンデルが後ろから、そろそろにしろというようにアデリナの肩へ手を置いた。
式は、それで終わりだった。
*
出発の日が近づいてから、研究所へ行った。
一緒に来たガルフォードは、門のところで足を止めた。
「俺は、ここで待ってる」
「うん。分かった」
中は、廊下の匂いも床の軋み方も、前と変わっていなかった。
階段の途中で、書類を抱えたシルフィに会った。私を見るなり、その書類を一度落としかける。
「エリシア! 来るなら言ってよ」
「言ったら、片付けるでしょう」
「片付けるよ!」
シルフィは私の顔を見て、それから笑った。
「師匠なら、部屋にいるよ。最近ずっとそこ」
「仕事は?」
「私に押しつけてくる」
そう言いながら書類を抱え直し、階段を降りていった。
足音が下へ遠ざかっていく。私は少しだけその背中を見送ってから、階段を上がった。
廊下の奥に、メルキテウスの部屋がある。
*
メルキテウスの部屋は、いつものように散らかっていた。
机の上には本と紙が積まれ、その端には、空になったインク瓶がいくつも寄せられている。窓辺の椅子に座っていたメルキテウスが、こちらを見た。
「来たか」
「うん」
私は向かいの椅子に座った。
「あのね、実は、ガルフォードとセレスティアに行ってきたの」
メルキテウスは驚いた顔もせず、少し間を置いてから言った。
「……そうか」
私はぽつぽつと話した。建国祭の日に王城が開いていたこと。古い肖像画が残っていたこと。父と母と、兄と、幼い自分が描いてあったこと。
「お兄さまが、お髭の王様になってたのよ?」
「髭?」
「そう。こんなに」
顎の下で手を広げてみせる。
「王になったのなら、そのくらいにはなるじゃろう」
「……そうなんだけど」
メルキテウスが息だけで笑った。
「お腹も出てた」
「そうか」
「あと、結婚してた。子どもも三人いたの」
メルキテウスは椅子の背に体を預けて、黙って聞いている。
「命って、ちゃんと続いていくんだね」
「人の生とは、そういうものじゃ」
私は膝の上で手を組んだ。
「それでね、お母さまの歌が、残ってたの」
「……」
「建国祭で、歌われてた」
私も、それ以上は説明しなかった。
「お墓にも、花を持って行ったんだ」
「そうか」
廊下の向こうで、扉が一つ閉まる音がした。
「わしも、いつまでもここにおるわけではないからの」
不意にそう言われて、私はメルキテウスの顔を見た。
「研究所のことは、少しずつシルフィたちへ回しておる。あの子はよく働くわい」
「……メルキテウスも、いなくなるの?」
「今すぐの話ではない」
メルキテウスは机の上の紙を一枚、指で押さえた。
「まだ、その時のことを考えるつもりはない」
「そっか……」
「エリシア」
「なに?」
メルキテウスはこちらを見ていた。
「神託だったとはいえ、お前には長いこと辛い思いをさせた。……すまなかった」
窓辺の椅子で、メルキテウスは背を丸めて座っている。三百年前から、その座り方だった。私は少し黙ってから、口を開いた。
「……今さらだね」
「三百年越しじゃからな」
「遅すぎるよ」
メルキテウスが少し笑った。私も笑った。
「言う機会がなかったわい。お前はずっと、戦いの繰り返しだったからの」
「そうだったね」
「……もう一つある」
メルキテウスは椅子から立ち上がって棚のほうへ行き、何かを取り出すでもなく、そこに手を置いただけで戻ってきた。
「お前の父親から、預かっておる」
私は、組んでいた手をほどいた。
「……お父さまから?」
「お前がここへ来た日にな」
メルキテウスは椅子に座り直した。
「いつか、この子がもう戦わなくてよくなったときに、と」
「うん」
「そのときまで、お前がそばにいるのならと」
メルキテウスは私を見た。
「よく頑張った、と伝えてくれ」
私は口を開いた。
声が出なかった。
もう一度開いて、やめた。膝の上で指を組み直し、息を吐いた。
メルキテウスは急かさなかった。窓の外を見たまま、待っている。部屋の隅で、水を張った鉢に日が当たり、その光が天井に映って揺れていた。私はそれを見ていた。
「それだけ?」
やっと言えたのは、それだった。
「それだけじゃ」
「……なぜ、今なの?」
「言う頃合いというものがある。お前が自分からあの国へ帰った。それを聞いたからじゃ」
「……」
私はしばらく、膝の上の手を見ていた。
「あのね。私たち、北のほうで暮らすことにしたの」
「……そうか」
「北のほう。静かなところなの」
私は顔を上げた。
「今度は、普通に暮らしてみる」
メルキテウスは黙ったまま、膝の上の手を一度握って、また開いた。
「エリシア」
「なに?」
「幸せになるんじゃぞ」
私は椅子から立ち上がり、座ったままのメルキテウスを抱きしめた。服から、古い紙の匂いがした。
メルキテウスの腕が、背中に回った。
どちらも、何も言わなかった。
少しして離れると、メルキテウスは椅子に座ったまま、手を振った。
「待たせておるんじゃろう? 行け」
「……うん。また、会いに来るね」
扉のところで一度振り返った。メルキテウスはもう机の紙を見ていた。
*
外に出ると、ガルフォードが門の柱に寄りかかって待っていた。
「終わったか」
「うん」
並んで歩いて、公爵家へ帰った。




