終章 2 選んだ土地
セレスティアから戻って数日後、エリシアと二人で父に呼ばれた。居間には父と母がいて、俺たちはその向かいに座る。茶が出てから、父が本題に入った。
「これからのことだ」
父は茶を一口飲んで、カップを置く。
「二人とも、このままこの家で暮らしても構わない」
父にそう言われ、俺は頷いた。
「……はい」
「急いで決める必要もない。お前たちが暮らしやすいようにすればいい」
「もちろんです」
母は横からそう言って、あとは黙っている。
エリシアは膝の上で手を組んだまま、すぐには口を開かなかった。
「……私。普通に、暮らしてみたい」
父が顔を上げる。
「普通?」
「はい」
「普通っていうのを、うまく説明できないんだけど」
エリシアは組んだ手を一度ほどいて、また組んだ。
「朝起きて、今日は何をしようかなって考えたり。出かけるか、家にいるか決めたり」
父は黙って聞いている。
「そういうことを、自分で決めて暮らしてみたい」
エリシアは、それ以上は何も言わなかった。父はしばらくエリシアを見ていた。
「……そうか」
それから、俺のほうを見る。
「お前はどうだ」
「エリシアが望むように、俺も一緒に暮らしていきたいです」
父は短く頷いた。
「分かった。やってみろ」
「ありがとうございます」
父は残っていた茶を飲み干した。母も何も言わなかったが、部屋を出るときにエリシアの背を軽く叩いた。
*
その夜、部屋で聞いた。
「どういうところがいい」
「うーん」
エリシアは寝台に腰かけて、足を組んでいた。
「静かなところがいいかな」
そう言ってから、組んだ足をほどいてこちらを見る。
「この家が嫌とかじゃないのよ」
「ああ。分かってる」
「人が多すぎないところがいい。でも、何もないところは困るかも」
「そうだな」
そのあとは、市までは歩いて行けるほうがいいとか、庭は少しあってほしいとか、そんなことを話しているうちにエリシアが先にあくびをした。結局、何ひとつ決まらなかった。
*
完全封印までの功績について、王家から正式な決定が下りたのは、それから半月ほど後だった。俺に伯爵位が与えられ、あわせて領地が下される。家督は兄が継ぐため、俺は公爵家から分かれて新しい家を立てることになる。手続きだの書類だのの話が続いたが、要するにそういうことだった。
土地は一つに決まっておらず、いくつかの候補から選べという形になっている。
俺は父のところへ行った。
「父上。少し相談があります」
「領地のことか」
「はい」
父は書き物の手を止めて、椅子を回した。
「条件はあるか」
「王都から離れすぎていないこと。大きな街でないこと。自然が多いこと」
「ほかには」
「暮らすのに困るほどの僻地でないこと。それと、俺が治めていける規模であること」
父は俺を見てから、机の上の書き物へ目を落とした。
「エリシアが暮らしやすい場所か」
「……はい」
父は何か言いかけて、やめた。棚から地図と、綴じた書付をいくつか出して机に置く。
「見ろ」
地図には候補の土地に印がつけてあった。書付を一冊取ってめくると、収穫の記録と人口の数字が年ごとに並んでいる。
「あのときは、何も言わずに出ていったな」
顔を上げた。父は地図のほうを見ている。
「捜させた」
「……すみませんでした」
「謝れと言っているんじゃない」
父は束から別の書付を抜いて、俺の前に置いた。
「帰ってきたときは、何を言えばいいのか分からなかった」
そのまま、地図の南の印を指で叩く。
「ここは隣が大きい。境のことで揉めた記録がある。先に読んでおけ」
*
その晩、資料をエリシアの部屋へ持っていった。机に地図を広げ、向かいに座って説明を始める。
「ここは?」
「王都から遠い」
「こっちは?」
「街道から外れてる。行き来に手間がかかる」
「これは」
「街が大きい」
書付をめくって、収穫の記録と人口の数字を追う。エリシアは指で地図をなぞって、川の位置を確かめていた。
「じゃあ、こっちの南のは?」
「悪くない。ただ、隣が大きな領地だ」
「うーん」
エリシアは地図を見たまま自分の椅子を引いて、俺の隣へ回ってきた。座るなり、肩に頭を乗せる。
「ここの、この線は何」
「街道だ」
「じゃあ、こっちは」
「そこは川だな」
扉が開いた。顔を出したルーカスが、そのまま固まる。
「……やっぱり、あとにする」
「ルーカス。待て」
閉まりかけた扉が、途中で止まった。
「何か用があったんだろう」
「いや、あの、母上が明日の朝の時間を聞きたいって」
ルーカスは俺の顔と、エリシアの頭の位置を交互に見た。
「……朝食のときに決めるって伝えとく」
「ルーカス、おやすみ」
エリシアが扉のほうへ目をやって言うと、ルーカスは小さく「……おやすみ」と返して扉を閉めた。
エリシアはまた地図に指を戻す。頭は俺の肩に乗せたままだった。
候補の中に、北部の領地があった。ダームベルグとの国境に近い。小さな町がいくつかと、村と、農地と、森。人口も収穫も、飛び抜けたところはない。街道が通っていて、ダームベルグへも半日で出られる。王都からは離れているが、切り離されるほどではない。
書付を読む限り、条件に一番合っていた。俺はそれを、束の下のほうへ回した。
「今の、何」
エリシアが顔を上げた。
「北部の領地だ」
「見せて」
「……ほかを先に見よう」
「ガルフォード」
エリシアが手を出す。渡さないわけにもいかず書付を回すと、エリシアは地図の北の端を見てから、その字を追い始めた。町の名前を一つずつ読んでいる。
「ここ、森があるのね」
「ああ」
「街道も通ってる」
「……通ってるな」
エリシアはしばらく読んでいた。
「私、ここがいい」
俺は手を止めた。
「……ここでいいのか?」
「うん」
エリシアは書付を机に置いた。
「静かだし。街にも行けるし」
それから、地図の上を指でなぞる。
「景色も綺麗そうだから」
俺は、すぐには何も言えなかった。書付を一枚めくりかけて、戻す。
「だが、あの谷も近い」
エリシアは地図をもう一度見た。北の、俺たちが五年前に入った辺りに指を置いて、それから離す。
「でも、もう何もいないでしょう?」
「……ああ」
「なら、いい」
エリシアはその領地の書付をもう一冊取って、読み始めた。屋敷の場所を聞かれて、地図の上を指す。俺は、そのままそこを見ていた。
「ここ、川に近いのね」
「近いな」
「じゃあ、水は困らないんだ」
*
領地が決まってから、家の中が忙しくなった。
エリシアは日中、母のところへ通うようになった。使用人の使い方、家の切り盛り、客の受け方、領内の行事、領民との付き合い方、困っている者への手当て。そういうことを、一つずつ順に教わっていた。
俺は父と家令に捕まった。税の集め方、備蓄、農地の割り振り、道の普請、治安、役人への仕事の任せ方。書付を積まれ、日付ごとに数字を追わされる。剣を振っていたほうが早いと思ったが、口には出さなかった。夜中に机で寝ていて、家令に起こされたことが二度ある。
ある日の午後、廊下を曲がると、エリシアが侍女の運ぼうとしていた箱を抱えていた。侍女が困った顔で手を伸ばしている。声をかけようとしたところへ、母が来た。
「エリシア」
呼ばれて、エリシアが足を止める。
「それは、その子に任せなさい」
「でも、これくらいなら持てるよ」
「持てるかどうかではありませんよ」
母は箱を侍女に戻させる。
「何でも自分でやらなくていいのです。任せられることは、任せなさい。それもあなたの仕事ですよ」
エリシアは、すぐには返事をしなかった。
「……はい」
*
その夜、部屋へ戻ると、エリシアが先に寝台の端に座っていた。俺も隣に腰を下ろす。二人とも、その日の分の書付を抱えて上がってきていた。エリシアは膝の上にそれを置いたまま開く気配がなく、俺も開かなかった。
「今日は何を習った?」
「使用人に任せること」
エリシアは真面目な顔をしている。
「……できそうか?」
「う〜ん」
少し考えていた。
「やってみる」
つい、笑ってしまった。
「なによ」
「いや」
「ガルフォードは?」
「備蓄と税収」
「……難しそう」
「そうだな。難しい」
エリシアは笑いながら膝の書付を寝台脇の小卓へ置いた。俺もつられて笑う。
「でも、ちょっと楽しみ」
「ああ」
髪に口づけた。それから頬に触れると、エリシアがこちらを向いて目を閉じた。口づけて、離れる。
「……ガルフォード。もう一回」
目を開けたエリシアが、小さな声で言った。
今度は長くなった。離れたあと、俺も書付を小卓へ置く。エリシアが俺の首に腕を回して、そのまま後ろへ倒れた。引かれるまま、上掛けの上に手をつく。
枕元の灯りへ手を伸ばしたのは、エリシアのほうだった。
*
領地の屋敷の手配が進み、連れていく者の名が決まり、荷も少しずつ箱に収められていった。
エリシアの荷は少なかった。持ち物は公爵家へ来てから増えたものだけで、母がいろいろ持たせたため、それでも箱は二つになった。
その日、部屋へ戻ると、エリシアが壁に立てかけてあった絵を膝に載せ、布をかけ直していた。ほかの荷は侍女たちに任せ、この絵だけは自分で包んでいた。紐を結び終えると、包みを膝に載せたまま顔を上げる。
「どんなところかな」
「地図や書付では見ただろ」
「そうじゃなくて」
エリシアは少し笑った。
「住んだら、どんな感じなのかなって」
俺はその顔を見ていた。それから、口づけた。エリシアが瞬きをする。
「……ガルフォード?」
「いや。可愛かったから、つい」
エリシアは俺を見て小さく笑い、それから自分から顔を寄せてきた。膝の包みがずれかけて、エリシアが片手で押さえる。もう片方の手は、俺の袖を掴んだままだった。




