第47話 ランタンの夜
私たちは昼を過ぎても屋台のあいだを歩き、二度目にお腹が空いたところで店へ入った。通りを一本外れた、小さくてよく片づいた店だ。焼いた肉と薄く切ったパン、それに野菜の酢漬けのようなものが出てくる。
「これ、少しだけ辛いね」
「食えるか?」
「うん。辛いけどおいしい」
肉をパンにのせながら、二人で食べ進める。食べているあいだも、私は城で見た肖像画の話をしていた。
「お兄さまのお髭ね」
「まだ髭か」
「だって、こんなにあったのよ」
顎の下で手を広げてみせると、ガルフォードが口の端を上げる。
「王様だからな」
「そういうものなの?」
「知らん」
私は笑って、酢漬けを一つ口に入れた。思ったより酸っぱくて、少し顔をしかめる。
「何か飲むか?」
「うん」
温かい飲み物を頼み、残っていたパンをつまみながら、しばらくそのまま話していた。
店を出ると、日はもうずいぶん低くなっていた。
*
通りを歩いていると、店の女が軒先へ何かを持って出てきた。小さな灯りだ。紙を張った四角い枠に、火を入れた小さな器が収まっている。女はそれを台の上に置いて、少し位置を直した。
隣の店でも、同じものが置かれる。向かいの家では、父親と子どもが扉の前に並んで座り、父親が火を移して、子どもが両手で枠を持っている。子どもの手が揺れると、父親が下から支えた。
窓辺にも置かれていく。二階の窓、三階の窓、道の脇、橋の手前。
少し離れた家の前では、老人が椅子を出して座り、膝の上に灯りを置いていた。その先の路地では、子どもが三人で一つの火を囲み、順番に枠へ入れようとして大人に取り上げられている。
夕闇が濃くなるにつれて、地面に近いところから順に明るくなっていく。
私は足を緩めた。
「……灯り」
「ああ。増えてきたな」
灯りの前を通るたびに、つい足が遅くなる。ガルフォードも急がず、私の隣を歩いていた。
通りを一つ抜けるたびに、明るいところが広がる。歩いている人も灯りを手に持っていた。小さな枠を胸の前で抱えて歩く女がいて、その火が顎のあたりを照らしている。
私は灯りを一つずつ見ながら歩いた。足を止めれば、ガルフォードも止まる。歩き出せば、また隣に並んだ。
*
川に架かる橋まで来た。欄干には灯りが等間隔に並び、橋の上の人たちは、それぞれ立ち止まったり歩いたりしている。
川面に灯りが映って、水が動くたびに形を崩す。顔を上げると夜空があり、星が出ていた。
上にも下にも、光があった。
私は欄干のところで足を止め、ガルフォードも隣で止まった。
そのとき、どこかから声が聞こえた。
歌だった。
誰か一人の、女の人の声だ。橋の向こう、家並みのあいだから届いてくる。よく通る、きれいな声だった。
橋の上の人たちが、話すのをやめた。歩いていた人も何人かが足を止め、通りのざわめきが引いていって、その声だけが残る。すぐ横にいた男が、灯りを見ながら口を動かしている。声は出ていなかった。
私の大切な一番星
遠い夜にも光っていて
同じ夜空を見上げるたび
今日もあなたを思う
私は、動かずに聞いていた。
昼間の史料官の言葉が、頭の中を通っていく。母は夜ごと窓辺に灯りを一つ置いて、この歌を歌っていた。
昨日のカタリナの声も重なった。ずっと待ってたんだろうな、って思うんだよね。
冷たい廊下を歩いた夜があった。扉が少しだけ開いていて、そこから母の声が漏れていた。押し殺した泣き声だった。父は、他に方法があるはずだと言っていた。まだ探せる、時間はある、と。
朝になって、私は行くと決めた。いちばん気に入っていた服を選び、支度は全部自分でした。私は大丈夫だと、そう見せたかった。
そして、両親に告げた。私、行くね。泣かないで。私なら大丈夫だから、と。
でも、母の顔が見たくて、門のところで最後に振り返った。
私の大切な一番星
夜の向こうで光っていて
また明日の夜も
あなたを見つけられますように
歌が、そこで終わった。
橋の上の人がまた歩き出し、どこかで誰かが話し始めて、通りの音が戻ってくる。
私は欄干を掴んでいた。
「……私ね」
ガルフォードがこちらを見る。
「みんなを、守ったつもりだった。お父さまも、お母さまも、お兄さまも」
声が、思っていたところより低く出た。
「私が行けば、大丈夫だと思ってた」
ガルフォードは何も言わなかった。
「でも……」
そこで、続かなかった。息を吸ってもう一度言おうとしたが、うまくいかない。喉の奥が勝手に鳴った。
「お母さま……ずっと、待ってたんだね」
言い終わる前に、頬を何かが伝った。自分の涙だと分かるまでに少し時間がかかり、手の甲で拭おうとしたときには、もう次が落ちていた。
止まらなかった。
うまく息が吸えない。吸っても途中で引っかかり、そのたびに肩が跳ねる。声が出た。自分の声だと思えない音だった。膝から力が抜けて、欄干に体重を預けた。
ガルフォードの腕が背中に回った。
そのまま引き寄せられて、私はその胸元に顔を押しつけた。息が余計にできなくなって、それでも顔を離せない。服を掴むと、指の下の布が濡れていくのが分かった。
ガルフォードは何も言わない。髪を後ろへ撫でる手が、何度も同じ動きを繰り返す。
どれくらいそうしていたのか、分からない。
途中で一度、息が整いかけた。それでもまた次が来て、同じところへ戻る。うまく息を吐けなくて、そのたびに肩が動いた。
橋の上を人が通っていく。誰も止まらなかった。欄干の灯りは並んだままで、川面ではまだ光が揺れている。
ガルフォードの手は、止まらずに動いていた。
*
泣き声は出なくなって、しゃくり上げだけが残った。
顔を上げると、灯りはさっきよりも増えていた。目のあたりが熱くて、鼻が詰まっている。ガルフォードの服は、胸のところがはっきり濡れていた。
「……ごめん」
「そんなこと、気にするな」
ガルフォードは私の顔を見て、それから手を差し出した。私はその手を握った。
「帰るぞ」
「うん」
橋を渡り切るまでに、二度しゃくり上げた。止めようとしても、うまくいかない。ガルフォードは黙って歩調を落とした。
道の両側には灯りが並び、軒先や窓辺にも火がともっている。歩くたびに、その明かりが一つずつ近づいて、後ろへ流れていった。
ガルフォードは私より半歩前を歩き、人の多いところでは私を後ろに置くようにして進む。握られた手は、ずっと同じ強さだった。
私はその背中を見ていた。左の肩が、右より少しだけ下がっている。ずっとそうだった。
坂の途中でもう一度しゃくり上げると、ガルフォードが振り返った。
「……エリシア。歩けるか?」
「うん。歩けるよ」
声はまだかすれていた。ガルフォードはそれ以上聞かずに、また前を向いた。
私が何か言う前に、この人はいつも手を差し出す。
見上げると、屋根の向こうに星が出ている。目を戻すと、灯りの中だった。
つないだ手が、温かい。
ガルフォードと、一緒に生きたい。
宿に着くまで、手は離れなかった。
*
湯を使わせてもらって、部屋に戻った。ガルフォードはまだ下にいる。窓を開けて街を見ると、灯りが残っていた。屋根の向こう、坂の下、遠くのほうまで。歌はもう聞こえない。
目のあたりが腫れぼったい。濡らした布を瞼に当てると、ひんやりした。窓から風が入ると少し寒い。それでも、そのまま窓辺にいた。
扉が開いて、ガルフォードが入ってきた。髪が濡れている。
「まだ起きてるのか」
「うん」
私は布を下ろして窓を閉め、寝台の端に腰を下ろした。ガルフォードも隣に座り、寝台が少し沈む。
机の上の水に手を伸ばす。一口では足りなくて、二口飲んだ。
しばらく、どちらも喋らなかった。
「今日、いろいろあったね」
「そうだな」
「お父さまとお母さまの絵があって。お兄さまが、おじさんになってて」
「なってたな」
私は膝の上で手を組んだ。
「お兄さまには、家族がいて。子どもが三人いて。その先も、ずっと続いてて」
ガルフォードは黙って聞いている。
「それで、お母さまが……あの歌を」
そこで一度、息を整えた。
「あのね。これから、どうするかなんだけど」
組んだ手に、目を落とす。
「まだ、分からないの」
「……そうか」
「何がしたいとか。どこで、どうやって暮らしたいとか。そういうのは、まだ分からない」
ガルフォードは急かさなかった。膝の上で手を組んだまま、私の言葉を待っている。
「でも、ひとつだけ分かった」
私はガルフォードを見た。
「ガルフォードと、一緒に生きたい」
少し考えて、付け足した。
「それは、したい」
ガルフォードは、すぐには何も言わなかった。組んだ指が一度だけ動いて、それから、こちらを見る。
「……ああ」
声が、少しかすれていた。ガルフォードは微笑んだ。目の縁が、少し赤く見えた。
「俺もだ」




