第42話 二人で、少し遠くへ
「この紅茶、好き」
午後のお茶で私がそう言うと、侍女が「では、次からこちらを多めにご用意しますね」と笑う。
雨の翌日には散歩に行きたいと言い、ルーカスには次の試合がいつなのかを聞いて、見に行きたいと伝えた。
好き、と、したい。前はどちらも、うまく出てこなかった言葉だった。
ただ、夜のことだけは分からなかった。
*
その日の午後。
アデリナと二人でお茶を飲みながら、窓から卓に落ちる小さな光をしばらく見て、私は口を開いた。
「アデリナ。相談があるの」
「相談?」
「ガルフォードのことなんだけど」
アデリナは驚いた顔をしてから、カップを置いた。
「聞きましょう」
「マナ補給が、もういらなくなったの。身体がもう大丈夫になったから」
「ええ」
「それで、ガルフォードが、しなくなった。前は、寝る前にしてたんだけど」
アデリナは口を挟まずに聞いている。
「でも、寝るのは今も一緒。同じ寝台で。そこは、変わらないの」
「そうですか」
「最近、少し困ってる」
アデリナはカップを持ち上げかけて、また置いた。
「何に困っているのです?」
私は考えた。ガルフォードは冷たくないし、避けられているわけでもない。昼は普通に話して、隣で眠るのも変わらない。困る理由など、ないはずだった。
「……それが、分からなくて。困ってるのに、何が嫌なのかも分からない」
アデリナがゆっくりうなずく。
「一つ、聞いてもいいですか」
「うん」
「ガルフォードとは、別のお部屋で眠りたい?」
別の部屋で、ひとりで眠るところを考えた。
「それは嫌」
言葉は、思っていたよりすぐに出た。ほかのことは何も分からないのに、それだけは迷わなかった。
「では、一緒にいることが嫌なのではありませんね」
「うん」
アデリナがもう一つ聞いた。
「ガルフォードに触れられるのは、嫌だった?」
今度は考えた。
嫌だと思ったことはなかった。抱き寄せられることも、寝る前に顔が近づいてくることも、ずっと当たり前だった。
それがなくなってから、夜が長い。灯りを消してもなかなか眠れず、隣にいるガルフォードの気配ばかり気にしている。
「……なくなったら、嫌だった」
窓から卓に落ちていた光は、いつの間にか端のほうへ寄っていた。
*
しばらく黙ってお茶を飲んでいると、アデリナがカップを置いた。
「二人で、少し出かけてきたら?」
「二人で?」
「ええ」
「ガルフォードと?」
「ほかに誰がいるのです」
「……どうして?」
「ここにいると、あなたたちの周りには人が多すぎますもの」
言われてみれば、そうだった。この家には家族も使用人もいて、ルーカスもいるし、シルフィたちが来ることもある。ガルフォードと二人きりでいられるのは、夜くらいしかない。
「急いで答えを出さなくてもいいのですよ。分からないなら、少し二人でいてみればいいわ」
私が返事を探しているあいだに、アデリナは思い出したように続けた。
「ちょうど、セレスティアで建国祭があるのです」
カップを持つ手が止まった。
「……セレスティア」
私の生まれた国だった。八歳のときに出て、それきり一度も戻っていない。三百年のあいだ、近くを通ることはあっても、足を向けたことはない。
どうして戻らなかったのか。今は、考えたくない。
「とても綺麗なお祭りだそうですよ」
アデリナはそれ以上何も言わず、私も何も答えなかった。
*
その日の夕方、廊下でガルフォードとすれ違った。向こうから足を止めたのに、すぐには口を開かない。
「母上から聞いたか」
「二人で出かける話?」
「……ああ」
「行くことになったの?」
「そうらしい」
「らしい?」
「俺も、さっき聞いた」
ガルフォードは片手で顔をこすった。
「……押し切られた」
「嫌だった?」
顔が上がるのは早かった。
「嫌とは言ってない。……行き先は、聞いたか?」
「うん。セレスティア」
ガルフォードは少しのあいだ私を見たけれど、それ以上は聞いてこなかった。私も話さなかった。
*
それから、家の中が少し慌ただしくなった。アデリナの言いつけで旅装が仕立て直され、小さな鞄が用意されて、必要なものが少しずつそこへ詰められていく。
私はまだ、「行く」とは言っていない。母屋の一角に私とガルフォードの荷物が並べて置かれていくのを、離れたところから見ていた。
セレスティアという名前を聞いてから、口数が減った。食事はするし、ルーカスとの朝の時間もいつも通りだったが、旅の話になると返事が遅れる。手に持ったものをどこへ置こうとしていたのか、分からなくなることもあった。
戦いへ向かうときとは違う。行く先に何があるのか、今度は分からない。
*
その夜、荷物の並んだ部屋で、私はしばらく鞄を見ていた。もう半分ほど埋まっていて、手を伸ばせば届くのに、触れられない。
「エリシア」
入ってきたガルフォードが、私の後ろで足を止めた。しばらく、黙っている。
「母上に押し切られたからって、無理に行かなくていい」
私は鞄を見たまま、すぐには答えられなかった。
「……うん」
ガルフォードは私の隣に立って、同じように荷物を見ていた。
旅装は、椅子の背に掛かったままだった。




