第41話 もう、必要ない
俺が戻ってから、しばらく経った。
朝になると、エリシアは散歩へ出る。途中で訓練場へ寄り、ルーカスに付き合ってから戻ってくる。昼には自分から休むようになり、夜になれば眠くなって朝まで眠る。
マナが抜けて動けなくなることも、もうなかった。最初のうちはまだ信じられずにエリシアを目で追っていたが、いつの間にかそれもしなくなっていた。自分の足で歩いていることも、食べたいものを食べていることも、この家ではもう珍しいことではなくなっている。
*
体の変化には、母のほうが先に気づいた。
その日の昼、居間を通りかかると、母と侍女がエリシアの服を見ていた。
「やっぱり、少し直したほうがよさそうですね」
「どこ?」
「このあたりです」
母が胸元から脇にかけての布を軽くつまんだ。
「前より少し、きつくなっているでしょう?」
エリシアが自分の体を見下ろす。
「太ったから?」
「いいえ。前が細すぎたんです」
母はエリシアを見て微笑んだ。
「少し、大人っぽくなった気がします」
そう言って母が侍女に何着か仕立て直しを頼む横で、エリシアはまだよく分からないらしく、つままれたあたりに手を当てていた。
俺はそのまま通り過ぎた。そのときは、それだけのことだと思っていた。
*
俺が気づいたのは、夜だった。
いつものように寝台へ上がると、エリシアも隣へ入ってきた。支度が済むのを待って、軽く肩を抱き寄せる。何度も繰り返してきた日課だった。
それなのに、腕の中へ入れたところで手が止まった。
以前と、違う。
どこがどう、と考えるより先に分かった。いつ折れてもおかしくないほど細かった体に、柔らかさが増している。昼間、母が言っていたことを思い出した。
「ガルフォード?」
「……いや」
俺は目を逸らした。いつものことをするだけだと思い、顔を寄せて唇を触れさせる。マナを巡らせて送り込んだが、以前のように流れ出ていく感触はない。
補給なら、もうそれで十分だった。
それでも、すぐには離れられない。一度離しかけて、また唇を重ねる。抱いている腕にいつの間にか力が入っていたことに気づいて、俺は顔を離した。
「……もういい」
何が起きたのか分からないという顔で、エリシアがこちらを見上げる。
「ねえ。今日、長くなかった?」
「……そうか?」
「うん。いつもより長かった気がする」
エリシアは不思議そうにこちらを見ている。
「補給の仕方、変わった?」
「……いや」
「ねえ、ガルフォード」
「なんだ」
「最近ときどき変なの」
「……変?」
「終わったあと、心臓が速くなる。体も熱いし、なかなか眠れなくなることがある」
「……」
「前は、補給してもらったら楽になったのに」
エリシアが胸のあたりに手を置いた。
「最近は逆なの」
原因は、分かっていた。分かっているのは、たぶん俺だけだ。
「マナが戻ったところに、またガルフォードのを入れてるからかな」
「……もう、入れてない」
「え?」
エリシアがこちらを向いた。
「補給はもう必要ないだろ」
「でも、これ、補給じゃなかったの?」
「……いや」
「違うの?」
「入れてないというか……あまり、入れてない」
自分でも何を言っているのか分からなくなってきた。エリシアはしばらく俺を見ていたが、やがてまた胸元へ手をやった。
「やっぱり、マナをもらいすぎるのはよくないんじゃない?」
「……かもな」
「明日、研究所に行ってシルフィに聞いてみようかな」
「……聞きに行くのか?」
シルフィなら、たぶんすぐに見抜く。マナのせいではないことも、俺が何をしていたのかも。
「ガルフォードも来て」
「……俺も?」
「うん。異常事態かもしれないから」
「……異常事態」
「違うの?」
「……」
違う、とも言えなかった。
「……分かった」
それ以上は何も言わず、エリシアを寝かせて灯りを落とした。彼女はしばらく胸のあたりに手を当てていたが、やがて目を閉じる。
必要がないなら、次からはやめればいい。
そう決めようとするたびに、腕に力が入ったときのことが戻ってくる。
結局、朝まで決められなかった。
*
翌日、二人で研究所へ行った。
シルフィはエリシアの脈を取り、額に手を当てて目を閉じる。しばらくマナの流れを確かめてから、もう一度手首へ指を当てた。
「……ちゃんと体の中を巡ってる」
「本当?」
「うん。流れ出てもいないし、変なところもないよ。魔法的には、何も異常ない」
「でも、心臓が速くなるの」
「いつから?」
「ガルフォードに補給してもらったあと」
シルフィの手が止まった。
「体も熱くなるの。そのまま眠れなくなることもある」
「……へえ」
シルフィがゆっくり俺を見る。目が合っても何も言わないが、何かを察した顔だった。
「……ガルフォードさん」
「なんだ」
「いえ。なんでもないです」
地下都市から戻っていたスレンが、壁際で小さく鼻を鳴らす。
シルフィはエリシアへ向き直ると、少し声の調子を変えた。
「エリシア、最近体も変わったでしょう?」
「体?」
「うん。前より丸くなったし、顔色もいいし」
「太った、ってこと?」
「そういうことじゃなくて」
シルフィが笑った。
「前は、妖精さんだったから」
「私が?」
「食べなくても平気で、怪我しても勝手に治って、歳も取らなくて。ずっと、同じところで止まってたでしょう」
エリシアは黙って聞いている。
「でも、もう人間になったんだよ」
「……人間」
「今はね!」
「食べれば体も変わるし、動けば疲れるし、眠くもなる。体が熱くなったり、心臓が速くなったりすることだってある」
「じゃあ、異常じゃないの?」
「異常じゃないよ」
「……そっか」
「だから、また何か変わったことがあったら教えて」
「うん、分かった」
エリシアはしばらく、自分の手を見ていた。
俺は何も言えなかった。
*
帰り支度をしていると、エリシアがふと、シルフィとスレンを交互に見た。
「ねえ」
「どうしたの?」
「二人はなんで、いつも一緒にいるの?」
シルフィが固まった。壁際にいたスレンも、こちらを見たまま動かない。
シルフィは耳のあたりを赤くして、記録帳を意味もなくぱたぱたとめくりはじめた。
「え? なんで答えてくれないの?」
「……エリシア、帰るぞ」
「まだ聞いてるんだけど」
「別に、なんだっていいだろ」
「どうして?」
「いいから」
俺はエリシアの背を押した。後ろでシルフィが「もう、エリシアってば」と上ずった声を上げ、スレンの笑う声がした。
*
その夜も、エリシアは俺の部屋へ来て、寝台に上がった。
いつもの時間になっても、俺は動かなかった。少しして、エリシアがこちらを見る。
「……ガルフォード?」
「なんだ」
「補給は?」
「もう、いらないだろ」
「……しないの?」
「ああ」
エリシアは少し黙ってから、「そうね」とだけ言って横になった。
「おやすみ、ガルフォード」
「……ああ。おやすみ」
灯りを消す。隣から聞こえる呼吸は、なかなか寝息に変わらない。
俺は何も言わず、目を閉じた。
*
それから、何日かが過ぎた。
昼間はいつも通りで、エリシアも変わらず俺に話しかけてくる。
ただ、夜だけが変わった。
寝台に入っても、もう顔を寄せない。エリシアが少し待っているのが分かっても、そのまま「おやすみ」と言って灯りを消す。同じ寝台で眠ることだけは、変えなかった。
ある夜、灯りを消してしばらくすると、エリシアがぽつりと言う。
「……なんか、違う」
俺は答えない。
何が違うのかまでは、まだ分かっていないようだ。
俺も目を閉じた。
隣から寝息は聞こえてこなかった。




