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第40話 帰ってきたガルフォード

 裂け目の調査が、ようやく終わった。


 封印そのものは、ずいぶん前に済んでいた。そのあとも周辺を調べ続けたが、新しい眷属は現れず、裂け目が開き直す兆しもない。長くかかったが、結論は異常なしだった。


 撤収が決まり、スレンは地下都市へ、シルフィは記録を持って研究所へ回ることになった。俺は一足先に王都へ発ち、街道を抜けて公爵家の門をくぐった頃には、家を出てから二か月近くが経っていた。


*


 屋敷に入り、出迎えた家令に荷を預けていると、奥から母が出てきた。


「ただいま戻りました」


「おかえりなさい。ずいぶん長かったわね」


「異常はありません。詳しい話は、父上と兄上に明日します」


「そう。なら、今日は休みなさい」


「エリシアは?」


「ルーカスと一緒よ。訓練場にいると思うわ」


「……ルーカスと?」


 母は、何でもないことのようにうなずいた。俺だけが、その当たり前を知らなかった。


 外套を脱ぎかけていた手を止めて、そのまま裏手へ回った。


*


 訓練場の柵の手前で、足が止まった。


 エリシアが立っていた。寝台でもなく、椅子でもない。誰かにもたれているわけでもなく、自分の足で地面を踏んで、ルーカスの動きを見ている。


 明らかに顔色がいい。出ていったときの白さはなく、頬も以前より少しだけふっくらして見えた。


 その姿が信じられなくて、しばらく声をかけられなかった。


「今の、どう?」


「少し早い」


 ルーカスが木剣を構え直す。


「もう一回。相手の肩を見て」


「肩……こう?」


「そう」


 ルーカスがもう一度やってみせると、エリシアが小さくうなずく。二人のあいだには、俺の知らないやり取りがすっかり出来上がっていた。


 柵の金具に手をかけた音で、エリシアがこちらを向いた。


「ガルフォード」


 目が合うと、ぱっと笑った。そのまま柵のそばまで歩いてきて、俺の前で足を止める。


「おかえりなさい」


 言葉が、出てこなかった。


 エリシアはこちらを見たまま、俺の返事を待っている。


「……ただいま」


 やっと、それだけ返した。


「兄上!」


 ルーカスが木剣を置き、こちらへ駆けてきた。


「いつ帰ったの?」


「ついさっきだ」


「調査、終わったんだ?」


「ああ」


 ルーカスは俺のそばまで来ると、振り返ってエリシアを指さした。


「兄上、エリシアって教え方すっごくうまいんだよ。学校でも前より全然打たれなくなったんだ」


「ルーカスは、覚えるまで何度でもやるから。教えやすいのよ」


 エリシアがそう返すと、ルーカスが得意そうな顔になる。弟がエリシアに懐くのは悪いことではないと、分かってはいる。


「……随分、仲良くなったんだな」


「毎朝会ってるから」


 ルーカスがあっさり言う。


「毎朝?」


「うん。朝練、毎日一緒にやってるんだ。エリシアが散歩の途中で寄ってくれてさ」


「毎日か」


「そう。もう三週間くらいになるかな。なあ、エリシア」


「そのくらいね」


 二人が顔を見合わせてうなずく。俺はその横で、口を挟むところを見つけられずにいた。


 ルーカスにはもとより悪気がない。ただ人懐こく、いつの間にかエリシアにも懐いただけだ。怒る筋合いはどこにもないのに、据わりが悪い。


「兄上、疲れてるでしょ。エリシア、もう戻る?」


「そうね」


 ルーカスに答えてから、エリシアが俺を見た。


「朝食、まだでしょう」


「……ああ」


 三人で屋敷へ戻る道を歩く。ルーカスは今朝の素振りがどうだった、次はどこを直したいとまだ喋っていて、エリシアがそれに一つずつ答えている。


 俺の少し前を、エリシアが自分の足で歩いていく。二か月前は、支えなければ庭も歩けなかった。その背中を、俺は少し後ろから見ていた。


*


 朝食の席にも、俺の知らないものがいくつもあった。まず、エリシアがよく食べる。


 最初は、たまたま腹が空いているのかと思った。だが、パンを食べ、卵を食べ、スープも飲んで、それでも手が止まらない。途中から、俺は自分の皿よりエリシアの皿を見ていた。以前の、体のために口へ運ぶだけの食べ方とは、まるで違う。


 エリシアが、焼いたパンに何かを塗って一口かじった。


「これ、おいしいよ」


 俺はフォークを止めた。


「……味が、分かるのか」


「うん。少し前に戻ったの」


「そうか」


 そう返すのが、精一杯だった。出会った頃のエリシアは、何を食べても味の感想ひとつ言わなかった。残した皿を、俺は何度も見ている。


「それ、好きなのか?」


「うん。食べてみたら、すごくおいしくて」


 エリシアはそう言って、もう一口、うまそうにかじる。好きな食べ物まで、俺のいないあいだに増えていた。


「たくさん食べるようになったのよ」


 母が言う。


「最初の頃が嘘みたいね」


 マリアも笑っている。


「エリシア、おやつも食べるようになったんだよ」


 ルーカスが余計なことを付け足す。


「食べすぎて、止められたけど」


「……食べすぎたのか」


「うん。お腹が苦しくなったの」


 何でもないことのように言う。俺はその会話を聞いている側で、二か月のあいだにこの家で積み上がったものが、食卓の上にいくつも並んでいる。


 どれも、いいことばかりだった。


 父が、封を切った手紙に目を落としたまま言う。


「セレスティアから、建国祭の招きが来ている」


「今年もなのね」


 母がそう返すあいだに、エリシアの手が止まった。パンを持ったまま、皿のほうを見ている。やがて、そのまま一口かじる。


 俺は、自分の皿に目を戻す。


 黙っていると、エリシアがこちらを見る。


「ガルフォード、食べないの?」


「……食べてる」


 俺はパンをちぎった。


*


 夜になった。


 部屋に戻ってからも、今日見たエリシアの姿が何度か頭に浮かぶ。自分の足で歩いて、ルーカスに剣を教えていた。朝食を残さず食べて、おいしいと言った。家を出た頃とは、見違えるようだ。裂け目の完全封印で、彼女の体にも何かが起こったのだろうか。


 そんなことを考えていると、扉が開いてエリシアが入ってきた。何のためらいもなく寝台の端に腰かけ、上掛けをめくっている。俺は上着を椅子に掛けて、寝台に上がった。


 寝る前の補給。朝と昼と寝る前、一日に三度、家を出るまでずっとそうしてきた。


 顔を寄せようとしたところで、エリシアが思い出したように口を開いた。


「あ、そうだ。ガルフォード」


「なんだ」


「もうマナ補給、必要ないみたい」


 手が止まった。


「……必要ない?」


「うん。メルキテウスに診てもらったら、もう流れ出てないって。循環が元に戻ったみたい」


 エリシアは本当に何でもないことのように言って、枕のほうへ体を倒そうとする。


「……いや、待て」


「なんで?」


「まだ完全に安定したとは限らないだろ」


「メルキテウスは、大丈夫だって」


「一度診ただけだろ」


「何度か診てもらったよ。研究所にも行ったし」


「……」


 エリシアは不思議そうにこちらを見ている。


「……念のためだ」


「念のため?」


「ああ。急に戻ったばかりなんだろう。何かの拍子に、また抜けるかもしれない」


「でも――」


「寝る前だけ、しばらく続けたほうがいい」


 自分でも、苦しい理屈だと思う。エリシアは少し考えてから、あっさりうなずいた。


「……そう? なら、いいけど」


「じゃあ、お願い」


 そう言って目を閉じる。俺は少しためらってから、顔を寄せた。


 唇が触れる。体の奥でマナを巡らせ、いつものように送り込むが、留まりきらずに逃げていく感触はほとんどなかった。もう、必要ないのだろう。それは自分でも分かる。


 分かっていて、俺はしばらく顔を離さなかった。ようやく顔を上げると、エリシアの指が俺の袖を掴んでいた。


「……どうだ」


「大丈夫。いつもどおり」


 そう言ってから、指が袖を離れた。


「ありがとう。それじゃ、おやすみ、ガルフォード」


「……ああ。おやすみ」


 灯りを落とすと、隣でエリシアの呼吸がすぐに寝息へ変わっていく。俺は天井を見ていた。


 念のためだ、と、もう一度自分に言い聞かせた。

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