第39話 普通の人が強くなるには
朝の散歩の途中、屋敷の裏手まで足を延ばすと、訓練場のほうから木剣の音がした。
柵の隙間から覗くと、ルーカスだった。
額に汗をにじませて、素振りを繰り返している。動きは、正直に言えば、あまり洗練されていない。
こちらに気づいたルーカスが手を止める。
「あ、エリシア」
「おはよう」
「もうこんなところまで歩いて大丈夫なの?」
「うん。散歩してるの」
ルーカスは木剣を肩に担いだまま、柵のほうへ寄ってきた。
「一人で練習してるの?」
「朝はね。ジェラルドはもっと早く来てるらしいんだけど、俺、朝弱くて」
そう言ってから、少し声を落とす。
「あのさ、この前教えてくれたやつ、また聞いてもいい?」
「いいよ」
私は柵の内側へ入った。
ルーカスが木剣を構える。試合のときより、少しだけ足の置き方が変わっていた。
「相手が打ってきたら、半歩前に出ればいいよ」
「前に? 退がるんじゃなくて?」
「うん。剣がいちばん強く当たるのは、先のほうでしょう」
私はルーカスの木剣の先を指さして、そのまま柄のほうへ指を滑らせる。
「根元のほうなら、剣先ほど勢いはつかない。だから、剣先が届く前に相手の懐へ入ってしまえば、剣先は私の後ろを通りすぎる」
ルーカスは、しばらく黙っていた。
「……エリシア、それ、無理だよ」
「え?」
「相手が打ってきてから動くんでしょう?」
「うん」
「そんなの、見てからじゃ間に合わないよ。振られたと思ったら、もう目の前に来てるんだから。普通の人は、そんなに速く動けない」
「……できないの?」
「できると思ってたの?」
「できると思ってた」
ルーカスが、口を半分開けたまま私を見ている。私も、たぶん似たような顔をしていた。
「エリシアって……本当に、不死の星だったんだね」
「今は違う」
「そういうことじゃなくて」
「じゃあ……」
私は、ルーカスの立ち方をもう一度見た。
「先に、相手の肩を見るのは?」
「肩?」
「剣は腕で振るけど、腕は肩から動くの。だから、剣より先に肩が動く」
私は自分の右肩に手を置いた。
「……それ、見て分かるの?」
「分かるよ」
「エリシアはね」
「……そうか」
また同じだった。少し考える。
「じゃあ、前に出るのは後でいい。まず、退がれるようになって」
「退がる?」
「うん。剣は、届かないところにいれば当たらないから。肩が動いたと思ったら、一歩退がってみて」
私は、ルーカスから木剣一本ぶんほど離れて立った。何も持たないまま、剣を振りかぶるつもりで、右腕をゆっくり上げる。
「今、動いたでしょう」
「……腕?」
「その前。肩」
「……もう一回」
もう一度、同じように腕を上げる。
「あ」
「分かった?」
「今のは分かった。肩がちょっと上がった」
「じゃあ、動いたと思ったら退がって」
最初のうち、ルーカスの足が動くのは、私が腕を上げきってからだった。剣を持っていたら、もう当たっている。何度か繰り返して、五度目で、腕が上がりきる前にルーカスの足が後ろへ動いた。
「今の」
「え?」
「できてた」
「ほんと?」
「うん。肩が動いたところで退がれてた。今のなら、剣は届かない」
「もう一回!」
私は、また腕を上げた。
*
肩を見る。それだけでも、ルーカスはなかなかうまくできなかった。うまくいく回もあれば、また遅れる回もある。
「今のは?」
「無理」
「どうして?」
「肩を見てたら、足が見えなくなった。相手がどのくらい踏み込んでくるのか、分からない」
「……両方見るのは?」
「無理だって」
「そうなの?」
「そうなの!」
少し考える。
「じゃあ、肩だけでいい」
「うん」
もう一度やる。うまくいかなければ別のやり方を考え、それでも駄目なら、また変える。
三百年やってきたことを、どうやって人に教えればいいのかは、私にも分からない。だから、ルーカスにやってもらいながら考えることにした。
ルーカスは何度失敗しても木剣を構え直し、できないと言っても、やめるとは言わない。
「ルーカスは、覚えるまで何度でもやるから、教えやすい」
思ったことをそのまま言うと、ルーカスが木剣を止めた。
「……それ、褒めてる?」
「褒めてるよ?」
「なんか微妙だなあ」
そう言いながらも少し嬉しそうで、また木剣を構える。
「もう一回」
「うん」
*
訓練場の隅で休んでいるとき、水を飲んでいるルーカスに聞いてみた。
「ねえ、ルーカス。おやつって、どのくらい食べるものなの?」
「どのくらいって?」
「毎日食べる?」
「うーん……毎日は食べないけど」
「……毎日じゃないの?」
「そりゃそうでしょ」
「……知らなかった」
おやつも、出されればそのまま食べていた。
「……食べすぎてたみたい」
「太ったの?」
「少し。侍女にも言われた」
ルーカスが私を上から下まで見てから言う。
「エリシアは細いから、もっと太っても大丈夫だよ」
「そう?」
「うん。兄上もそう思うんじゃない?」
ガルフォードがどう思うかは分からないし、今はここにいない。
少し考えた。
「……でも、おいしいから」
「じゃあ食べれば?」
「でも、食べすぎると苦しくなるの」
「ああ……」
ルーカスは妙に納得した顔になる。
「難しいね」
「うん」
二人でしばらく考えてみたが、答えは出なかった。
*
それから、朝のことは決まった流れになった。
散歩のついでに訓練場へ寄る。ルーカスがいて、昨日の続きをやる。そのまま一緒に屋敷へ戻って、朝食を食べる。
肩を見て退がるのが形になってくると、今度はそのあとの動きを考えるようになった。
ある朝、訓練場へ着くと、ルーカスがすぐに駆け寄ってきた。
「エリシア、聞いてよ。昨日の、学校でもやってみたんだ」
「できた?」
「半分くらい。でも、この前より打たれなかった」
「じゃあ、続けて」
いつもの場所に立って相手役になり、右腕をゆっくり振りかぶってみせる。
うまくいくと、ルーカスが笑った。私も、少し笑った。
「さっきの、相手が横から振ってきたらどうなる?」
「横?」
「うん」
「……明日、やってみようか」
「うん」
いつの間にか、明日の話をしていた。




