第38話 食べることと、体を使うこと
翌朝も、体は軽いままだった。歩いても階段を下りても、途中で力が抜けることはない。朝食のあと、私は自分から魔法研究所へ向かった。
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メルキテウスは私の手を取って、しばらく黙っていた。一度離して、もう一度、手首のあたりに指を当てる。眉のあいだに皺を寄せて、何かを確かめている。
「……戻っておるな」
「何が?」
「マナの循環じゃ」
メルキテウスは私の顔を見た。
「流れ出ておらん。体の中に留まっておる。普通の人間と同じようにな」
「昨日から、体が楽なの」
「じゃろうな」
杖に手を置いて、私を上から下まで眺める。
「だからといって、今日から走り回っていいという意味ではないぞ」
「分かってる」
メルキテウスは鼻を鳴らして、水差しから薬湯を注いだ。
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次の日、朝食のあとで厨房へ足を向けた。昨日と今日とで、スープの味が少し違ったからだ。
「このスープと、昨日のスープ、何が違うの?」
鍋の前にいた料理人が、驚いた顔で振り返った。それでも、すぐに答えてくれる。
「昨日は鶏で出汁を取りました。今日は野菜を多めにしております。玉ねぎと、人参と、あとは豆を」
当たり前のことなのかもしれない。でも、スープの味が何で変わるのかなんて、考えたことがなかった。
パンも昨日よりこくがあると思ったら、バターを多めに使っているのだという。
台の隅に果物が置いてあった。指さすと、料理人が桃を一切れ切ってくれる。かじると果汁が広がった。甘くて、それから少しだけ酸っぱい。隣にあった別の果物も、一切れもらった。
「……全然違う」
「何がでございますか」
「甘いのが違う」
料理人は笑って、別の一皿を出してくれた。私は片端から口に運んだ。
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その日の昼は、少し食べすぎた。
あれもこれも味が違うのが面白い。肉には肉の味があって、野菜も種類によって違う。パンにつけるものを変えれば、また味が変わる。気づけば、出されたものをほとんど食べ終えていて、向かいではヴァンデルがぽかんとして私を見ていた。
「エリシア。まだ食べるの?」
アデリナが私の皿に目をやる。
「急にたくさん食べるのはよくありませんよ。ずっと少ししか食べていなかったのだから、体がびっくりしてしまいます」
「でも、昨日より少し多いだけよ」
「あなたの『少し』は、あまり信用できませんね」
どこかで聞いたようなことを言われた。それでも、食後に出た桃まで食べた。
午後になると、お腹が苦しくなった。自室の長椅子に横になり、胃のあたりに手を置くと、張っているのが分かる。
「食べすぎると、こうなるの?」
「はい」
侍女は困ったように答えて、上掛けをかけ直してくれた。
「どのくらいなら、いいの?」
「それを、これから覚えていきましょう」
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何日か経った朝、侍女に髪を整えてもらいながら、鏡の中の自分を見て首をかしげた。
「なんか、私の顔、丸くなった?」
侍女が櫛の手を止めて、鏡越しにこちらを見る。
「少し、ふっくらされましたね」
頬に触れてみると、以前より柔らかい気がした。
「……太った?」
「もっとふっくらされたほうが良いかと」
「……でも、食べたいものがいっぱいある」
「それなら、召し上がってください。お体もだいぶ楽になったのでしょう? 少しずつ歩いてみるのもよろしいかと」
「……やってみようかな」
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次の朝、いつもより早く起きて、庭を歩いた。
朝の空気は冷たく、草の匂いがする。屋敷をぐるりと回るくらいの、短い距離のつもりだった。歩き出してすぐ、息が上がらないことに気づく。胸も苦しくならず、体の底から力が抜けていくこともない。角を曲がるたびに、もう少し先まで行ってみたくなって、いつの間にか屋敷の裏手まで来ていた。
庭へ戻る途中で、脚が重くなった。息は上がっていないし、苦しくもない。それなのに、脚が思うように前へ出ない。
端のベンチに腰を下ろすと、ふくらはぎがじんと張っていた。しばらく座っていると張りが引いて、立ち上がればまた歩ける。
マナが抜けて動けなくなるのとは、違う疲れだった。休めば戻る。そのことが、なんとなく分かった。
屋敷へ戻って朝食の席に着くと、いつもよりお腹が空いていた。スープを一口飲むと、体の芯まで温かさが染みる。お腹が空いていると、こんなにおいしいのか。そう思いながら、もう一口飲んだ。
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昼を過ぎた頃、まぶたが重くなってきた。本を開いても、同じ行を二度読んでいた。
「少しお休みになりますか?」
侍女が声をかけてくる。
「……うん」
本を閉じて寝台に横になり、そのまま眠った。
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次の朝、寝台から下りようとして、脚が痛んだ。
ぶつけた覚えも、転んだ覚えもない。それなのに、太腿とふくらはぎが動かすたびに痛む。食堂で、控えていた侍女に聞いてみた。
「脚が痛いの。昨日、どこかで打ったのかも」
「昨日は、ずいぶん庭を歩いておられましたから。窓から見ておりましたが、何度も角を曲がっておられました」
「……歩いただけで?」
「普段使っていなかったところを使えば、翌日に痛むこともありますよ」
自分の脚を見ても、痣も腫れもない。
痛みは三日ほどで引いた。その頃には、前より歩けるようになっていた。
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それからは、朝に庭を歩き、戻って食べ、昼に少し眠る日が続いた。屋敷の外周まで回れるようになっても、階段を続けて上ると途中で脚が止まる。それでも、昨日より少し歩けるのは悪くなかった。
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ある朝、庭のまっすぐな道の途中で、ふと駆けてみた。
十歩ほどで止まった。心臓が速く打ち、息も弾んでいる。けれど、苦しくはない。脚も、体の中も温かく、頬に当たる風が歩いているときより冷たかった。
少し歩いて息を整えてから、もう一度駆けた。今度は庭の端まで行って、帰りは歩いた。
その日、窓辺に座って庭を眺めていると、お腹が鳴り、そこへ手を当てた。
「……お腹、空いた」
窓の外は、もう夕暮れだった。




