第35話 裂け目の完全封印
夜会から数日後、朝食を終えてすぐに研究所から知らせが届いた。裂け目の状態が安定し、完全封印を試みられる段階に入ったという。
支度は半日で済んだ。荷を積み終える頃には、シルフィもスレンも、研究所から来た人員も、庭先で馬の腹帯を確かめていた。
俺は最後に、正面の石段の下でエリシアと向かい合った。
「本当に大丈夫なのか」
「うん、大丈夫」
「……お前の大丈夫は信用できない」
エリシアは少し考えた。
「じゃあ、たぶん大丈夫」
「もっと悪くなった」
横からシルフィが口を挟んだ。
「瓶のマナもありますし、足りなくなったら研究所に行けば師匠が詰めてくれますから」
それは分かっている。俺がいなくても、すぐに困ることはない。
「行ってくる」
「気をつけて。……後始末、任せてごめんね」
「ああ」
エリシアは、ついていくとは言わなかった。石段の手すりに片手を置いて、俺たちを見送っている。
馬のところまで戻って鞍に手をかけたが、すぐには乗れなかった。
「早くしろ。日が暮れる」
スレンが先に馬を出した。俺は鞍にまたがり、一度だけ振り返った。エリシアはまだ、そこに立っていた。
手綱を引き、門を出た。
*
同じ日、研究所では古い記録の整理が進んでいた。裂け目を閉じるにあたって、過去の術式と照らし合わせる必要があった。
若い研究員が、資料の束を一つずつ読み上げていく。
「これですね。当時の記録……『対化身戦力の運用について』」
紙をめくる音が続く。
「『不死の星を北部へ向かわせる』……こっちも同じですね。名前は出てこない」
隣の研究員が、別の紙を覗き込む。
「出立、帰還、待機……ずっとこの書き方か」
「そうみたいです」
「人というより、戦力の記録だな。これじゃ、まるで兵器だ」
悪意のない口ぶりだったが、棚の前でメルキテウスの手が止まった。
「兵器ではない」
棚を向いたままの声に、二人が顔を上げる。
「あの子には、名前がある」
誰も何も言わないうちに、メルキテウスは次の記録を手に取っていた。
*
現地に着いたのは、三日後の昼だった。
かつての決戦の跡は、崩れた坑道の口も、割れた岩も、剥き出しの地面も、荒れたまま残っている。だが、以前この場所を満たしていた圧のようなものはずいぶん薄れて、眷属が湧く気配もない。
その中央に、裂け目はまだあった。
「じゃあ、始めます」
シルフィが地面に印を打ち始め、研究所の人員もその指示に従って、離れた場所に印を置いていく。
「ガルフォードさんたちは、周囲をお願いします。何か出たら、すぐ声をかけてください」
「出るのか」
「出ないと思います。でも、思うだけなので」
俺とスレンは、崩れた坑道のほうへ回った。坑道を下り、崩れて塞がった最深部の手前まで確かめる。落ちた岩の裏にも、水の溜まった窪みにも、枝分かれした坑道にも、動くものはいなかった。
「静かなもんだな」
スレンが、坑道の壁に手を這わせた。
「昔は、こんな場所にいたら背筋が寒くなったもんだが」
「今は?」
「何も感じねえ。それが逆に気味悪い」
地上へ戻ると、シルフィはまだ印の位置を直している。
術式は、一度では通らなかった。シルフィが印をつないで術を起こすと、裂け目の縁がわずかに光って細くなる。だが途中で光が散り、また元の幅へ戻る。
「……ここが弱いですね」
シルフィは印の一つを消して少し離れた場所に打ち直し、もう一度術を起こす。今度は縁が半ばまで縮んで、そこで止まった。
「もう一回」
組み直しては起こし、様子を見ては直す。それを何度も繰り返したが、日が傾いても、裂け目は閉じきらなかった。
見回りから戻るたび、裂け目は少しずつ細くなっていた。
*
二日後の夕方だった。
シルフィが印をつなぎ終えて術を起こすと、裂け目の縁が縮んでいく。半ばを過ぎて細い線になり、その線も、やがて消えた。
肌をぴりつかせていた感じが、ふっとなくなる。派手な音も、光も残らなかった。
シルフィは、裂け目のあった場所を見つめたまま動かない。
「……閉じた」
「終わったのか?」
すぐには返事がない。
「……たぶん」
誰も声を上げず、俺も、何もなくなった地面を見ていた。
「確認するぞ」
俺が言うと、シルフィがうなずいた。
*
同じ頃、王都の研究所では、書類に向かっていたメルキテウスの手が止まった。しばらく動かず、やがてペンを置いて窓のほうを見る。
「……気配が、消えた」
*
公爵家の一室で、エリシアはふと顔を上げた。窓の向こうには、夕暮れの空が見えている。
「……?」
しばらく見ていたが、やがてまた手元へ目を戻した。
*
封印が成功しても、すぐには王都へ戻らなかった。裂け目の跡地や旧坑道、以前眷属が出た場所、近くの集落まで、何度も確認して回った。
三週間経っても、裂け目が戻る兆候も、眷属も、マナの異常も見つからなかった。それでも調査は続く。エリシアのもとへ帰るのは、まだ先になる。
*
調査拠点での夜、火の番を交代したところでスレンが横に座った。
「騎士に戻ったんだってな」
「ああ」
「公爵家にも」
「まあ、な」
「ずいぶん真っ当な人間になったな」
「元からだ」
スレンが枯れ枝を火にくべると、ぱちりと音がして、火の粉が上がった。
「で、その先は?」
「何がだ」
「ずっと騎士やるのか」
すぐには答えられなかった。
「……まだ分からん」
スレンは、それ以上聞かなかった。
「そうか」
しばらくして、思い出したように付け足した。
「お前、五年前は何にも戻る気なかったからな」
「……あの時はな」
スレンが見張りの位置へ戻っていき、火のそばには俺一人が残る。
裂け目は閉じた。家にも、騎士にも戻った。この先のことは、まだ決めていない。




