第34話 公爵家の夜会
鏡の前で襟を直していると、後ろで扉が開いた。
「支度は済んだのですか」
母がひととおり俺を眺めた。
「正装をすれば、少しはましになると思っていたのだけれど」
「……」
「無理だったわね」
袖口を整える。正装は今の身体に合わせて仕立ててあった。左の眉の上の傷も、その上から頭頂へ走る白い筋も、そのままだ。
「兄上がエリシアの隣に立ったら、攫ってきたみたいだよ」
いつの間にか来ていたルーカスが、扉のところから言った。
「お前は黙ってろ」
「ルーカス、失礼でしょう」
母はそうたしなめてから、少し首を傾げた。
「攫ってきたというより、命懸けで奪ってきたように見えます」
「……母上」
「褒めているのですよ」
ヴィクトルの子どもたちが廊下を走ってきて、すぐに侍女に捕まった。上の子が「エリシアはまだ?」と聞き、母が「もうすぐですよ」と答える。
その、もうすぐが来た。
廊下の奥の扉が開き、侍女が二人先に出てくる。そのあとから、エリシアが現れた。
胸の下から布がまっすぐ落ちていく、白に近い薄い銀のドレスだった。飾りは胸元の小さな石だけで、重いものは何もない。髪は下ろしたまま、片側だけ緩く編まれている。
「わあ……!」
「お姫様!」
子どもたちが駆け寄っていく。
「……お姫様?」
エリシアは、自分の裾のあたりを見下ろした。
「よく似合っている」
父が言うと、母がすぐに続けた。
「でしょう?」
俺は黙っていた。見慣れているはずの顔が、いつもと違って見える。
エリシアが顔を上げて、こちらを見た。目が合った。何か言わなければと思うのに、うまく出てこない。
「おい」
ヴィクトルが横から肘で小突いてきた。
「何か言ってやれ」
「……似合ってる」
言ってから、それだけかと自分でも思った。
「そう?」
エリシアの口元が、少しだけ緩んだ。
「ああ」
「ほら兄上! 言ったでしょう!」
ルーカスが得意げに割り込んできたので、その頭を軽く押しやった。
*
夜会の広間は、屋敷のどこよりも明るかった。
燭台の火が壁一面に並び、床の石にまで光が落ちている。次々に入ってくる客をヴァンデルとアデリナが順に迎え、その隣にはヴィクトルとマリアも立っていた。
私の場所は、ガルフォードの隣だった。挨拶をされれば返し、名前を言われれば覚える。今日はそれだけでいいと言われている。壁際には、ほかと離して椅子が一つ置いてある。アデリナが私のために用意させたものだ。
しばらくして、少し離れたところから声が聞こえた。
「まあ……綺麗な方ね」
「ええ。少し神秘的だわ。どちらのお嬢様かしら」
声のしたほうを見ると、扇を持った婦人が二人、目を逸らして笑った。悪気のある笑い方ではない。
客があらかた入ったころ、入口のほうから聞き慣れた声がした。
「エリシア!」
扉を入ってきたシルフィが、こちらを見つけて手を振っている。その拍子に肩へ掛けていたショールが半分ずり落ち、後ろから伸びた手がそれを受け取る。スレンだった。
「落とすぞ」
「あ、すみません」
スレンはショールを軽く畳んで、自分の腕にかけた。
シルフィはそのままこちらへ来かけて、途中でヴァンデルの前に立ち止まる。
「今日はお招きいただいて、ありがとうございます」
「よく来てくれた。ゆっくりしていくといい」
「はい」
きちんと頭を下げたと思ったら、今度こそこちらへやってきて、私を上から下まで眺めた。
「わあ。すごい」
「アデリナとマリアが、いろいろ選んでくれたの」
「うん。すっごく綺麗」
シルフィも、研究所で見るいつもの姿とは違っていた。髪をきれいに整え、淡い色のドレスを着ている。
「シルフィも、すごく可愛いよ」
「ほんと?」
「うん」
シルフィが嬉しそうに笑った。
「仕立て屋の腕がいいな」
後ろからスレンが言った。
「なんですか、それ」
「褒めてる」
「絶対、褒めてないでしょう」
スレンは答えず、通りかかった侍従の盆から杯を二つ取る。シルフィがそちらを見ずに手を伸ばすと、片方が自然に渡された。
「じゃあ、今日は楽しませてもらいますね」
シルフィが広間へ目を向ける。
「行くぞ」
「はいはい」
二人が人の輪へ入っていくのと入れ替わるように、ルーヴェル公爵家の一家がやってきた。当主と夫人に続いて、あの少年がいる。試合場で見たときより、背が高く見えた。
やがて招待客がひととおり揃い、ヴァンデルが広間の中央へ出た。
「本日は、集まってくれて感謝する」
短い言葉がいくつか続き、それから私の名が呼ばれる。
「次男ガルフォードの婚約者、エリシア嬢だ」
差し出されたガルフォードの手に、自分の手を重ねる。そのままゆっくりと人前へ導かれ、隣に並んだところで、腰にそっと手が添えられた。拍手が起きて、すぐに引いていく。
ここにいる誰も、私がどこから来たのかを知らない。
重ねた手に、少しだけ力が入った。ガルフォードが、すぐに握り返した。腰に添えられた手も、離れない。
挨拶に来る人は、みんな綺麗だと言う。
ジェラルドだけが、笑わずにこちらを見ていた。
*
ガルフォードは久しぶりの社交らしく、次から次へと人に捕まっていた。仕事の相手らしい男が三人がかりで話しかけていて、何度かこちらを見たが、抜けられそうにない。
人の声と燭台の熱で、頭の芯が重くなってきた。近くの侍女に「外の風に当たってくる」と伝えて、テラスへ出る。
外は暗く、庭の低木がわずかに揺れていた。手すりに手を置くと、石が冷たい。中の音が、扉一枚ぶん遠くなった。
背後で足音がした。
「……あの」
振り返ると、ジェラルドが立っていた。迷うような間があってから、口を開く。
「あなたが、『不死の星』なんですよね」
私は手すりから手を離した。
「……誰に聞いたの?」
「ルーカスです」
「……あの子」
「僕は、誰にも言っていません」
まっすぐこちらを見て言う。
「本当です」
「疑ってないよ」
ジェラルドはしばらく黙ってから、また口を開く。
「どうして、誰も知らないんですか?」
「何を?」
「あなたのことです。国が危なくなるたびに、誰かが片づけていた。それがあなただった。なのに、誰も名前を知らない」
扉の向こうで、誰かの笑う声がする。
「知られなくていいの。英雄にならなくても、前に立たなくても」
「でも」
すぐに言葉が返ってくる。
「世界を救ったなら、称えられるべきでしょう。英雄なんだから」
少し考えた。
「誰かが助かったなら、それで十分」
「……それで、いいんですか」
私は答えなかった。
ジェラルドは納得しない顔で、手すりへ目を落とす。
「強い人は前に立つべきです。そのほうが、みんな安心するでしょう」
本気で言っている。
「……やっぱり、まっすぐだね」
「馬鹿にしてます?」
「してない」
何か返そうとして、言葉を探す。
「……あなたは」
そこで、言葉が途切れた。
庭の低木が、傾いだ。傾いだのは庭ではなかった。
「エリシアさん?」
「……あ」
手すりへ手を伸ばす。指は石に触れたのに、力が入らない。膝から下が自分のものでなくなって、身体が横へ流れていく。
布の擦れる音がして、腕が回された。
空が見えた。
*
とっさに受け止めた。
僕の腕の中で、この人はほとんど重さがなかった。目は半分開いているのに、こちらを見ていない。
「誰か!」
声を上げると、扉の内側から侍女が飛び出してきた。ひとりが広間へ走り、ひとりが「こちらへ」と先に立つ。抱え上げると、夜会のために整えられた髪が腕に落ちた。
さっきまで、僕はこの人に、英雄は前に立つべきだと言っていた。
廊下を早足で進み、案内された部屋へ入る。寝台がひとつ、すぐに休めるよう支度がしてあった。そこへ下ろすと、侍女が上掛けを掛ける。
扉が勢いよく開いたのは、そのときだった。
「エリシア!」
ガルフォードさんだった。正装の裾を翻して入ってきて、まっすぐ寝台の横へ膝をつく。
「急に力が抜けて……」
僕が言うと、こちらを一度だけ見た。
「分かった。ありがとう」
それだけ言うと、もうエリシアさんの手を取っていた。
僕は部屋を出た。
廊下の向こうから、エルフの女の人と、背の高い男が足早にやってくる。
「エリシアは?」
「今、中でガルフォードさんが」
「じゃあ、大丈夫ですね」
あっさりそう言って、その人は肩の力を抜いた。男のほうは壁に背を預けて、何も言わない。
「あの……エリシアさんは……」
言いかけて、続かなかった。不死の星なのに、どうして。
黙り込んだ僕を見て、エルフの人は何か察したように口を開いた。
「エリシアだって、倒れますよ」
それから、少し声を落とす。
「ここで見たことは、内緒にしてくださいね」
男が壁から背を離し、廊下の先へ歩き出した。エルフの人も、そのあとを追っていく。
それ以上のことは、何も教えてもらえなかった。
*
侍女は水差しを置くと、俺に一礼して出ていった。
エリシアの顔色は白く、手も冷たかった。上体を少し起こさせ、片手で背中を支えると、睫毛が動く。こちらを見ようとしている。
「動かなくていい」
唇を合わせて、体内のマナを巡らせる。
首の後ろに回した手のひらの下で、脈が少しずつ整っていく。エリシアの指が俺の袖を掴み、それから力が抜けて、掴んだままになった。
顔に色が戻ってきたところで、唇を離した。
「……私、また倒れた?」
「ああ」
エリシアは自分の手を見て、息を吐いた。それから、枕へ頭を戻す。
扉の向こうでは、まだ夜会の音が続いている。しばらく、そのままでいた。
「……エリシア」
「何?」
「今日、綺麗だった」
エリシアがこちらを向いた。
「急に、どうしたの?」
「ずっと、言えなかったから」
寝台に広がった裾に、指先が触れた。思っていたより薄い。掴めばすぐ皺になりそうな布だった。支度が終わってからずっと、誰かが周りにいた。こんなに近くで見るのは、今が初めてだった。
整えられた髪が、肩から胸へ落ちている。頬にまだ夜会用の色が残っていて、そこへ手を伸ばした。
「……?」
エリシアが小さく首を傾げる。
それでも、すぐには手を離せない。エリシアを見たまま自分のほうへ引き寄せ、もう一度口づけた。
補給は、もう済んでいた。
離れたあとも、距離が戻らない。エリシアは俺を見ている。何か言われるかと思ったが、何も言わなかった。
言葉の代わりに腕を回して、抱き寄せる。エリシアの額が、俺の胸元に当たった。身体が一度だけ強張って、それから手が俺の背に触れる。
扉の向こうで、曲が変わった。
「心配かけて、ごめんね」
胸元で、くぐもった声がする。背に触れていた手が、上着を掴む。
しばらくして、掴んでいた指がゆるんだ。
俺も、腕を解かなかった。




