第33話 ドレス選び、こらえる涙
午後のお茶の席で、アデリナがカップを置いた。
「来月のはじめに、うちで夜会を開きます。毎年この時期に開いているものですから、特別なことではありませんよ」
「そうなんだ」
「その席で、あなたを紹介します。ガルフォードの婚約者として」
隣でマリアが頷き、菓子の皿をこちらへ寄せた。
「……私は、何をすればいいの?」
「ガルフォードの隣にいてくだされば、それで十分ですよ」
「それだけ?」
「ええ。それだけです」
私はカップに手を伸ばした。紅茶はもうぬるくなっている。
「ドレスは何着か用意してあります。近いうちに合わせましょう」
「分かった」
「きついものは選んでいませんから、安心してくださいね」
*
数日後の午前、日当たりのいい部屋へ通された。
壁際には長い姿見が立てられ、寝椅子の背には布がかけてある。用意されていたドレスは四着だった。
「あまり多いと、決められませんから」
「うん、ありがとう」
アデリナが一着ずつ広げて見せる。どれも布が薄く、手に取ってもほとんど重さがない。
最初に着せられたのは、胸の下で切り替わり、そこから足元まで布が落ちていく形のものだった。白に近い、薄い銀色をしている。侍女が二人がかりで、背中の紐を通していく。
「息は?」
「普通」
「苦しくない?」
「うん」
アデリナが前に回り、少し離れたところから私を見た。それから侍女に細い紐を持ってこさせ、胸の下、腰、肩の幅を順に測らせる。紐が身体に触れるたび、少しくすぐったい。
読み上げられた数を聞いて、アデリナの眉が寄った。
「思っていたより、細いのね」
「そう?」
「ええ。ここは、もう少し詰めたほうがよさそうですね」
脇の布を指でつままれた。そこだけ少し余っている。
「苦しくならない?」
「締めるのではなく、あなたの身体に合わせるだけです」
アデリナが侍女に印をつけさせ、別の侍女がしゃがみ込んで裾を順に見ていく。
扉が開いて、マリアが顔を出した。
「お義母様、そろそろ――」
そこまで言って、マリアは私を見た。
「……まあ」
しばらく私を眺めていた。
「とても綺麗」
マリアは部屋に入ると、寝椅子に置かれた小箱を開けた。中には飾りがいくつか並んでいる。
「このドレスなら、首元はあまり飾らないほうがよさそうですね」
「そうでしょう? 私もそう思っていたの」
アデリナが箱の中を覗き込む。マリアが一つ取り上げて、私の胸元に近づけた。
「これは?」
「少し大きすぎるわね」
「では、こちら」
今度は、石の小さなものだった。二人で角度を変えて眺め、窓際へ持っていって光に当て、また戻ってくる。
「そんなに考えなくてもいいのに」
「考えたいのです」
アデリナは私を見もせずに答え、また箱の中へ手を戻した。
結局、首飾りも耳飾りも使わず、胸元に留める小さな石だけが残った。侍女が位置を決め、仮に留めていく。
「さあ、鏡を」
肩に手を置かれて、姿見の前に立った。
少し歩くと、裾が遅れてついてくる。胸元の石が、動くたびに小さく光った。髪は下ろしたまま、片側だけ緩く編まれている。
しばらく、自分の姿を見た。
「……変な感じ」
「嫌だったかしら」
「ううん」
もう一度、鏡を見る。
「こういう格好をすると思ってなかったから」
アデリナは私の後ろに立ち、鏡の中の私を見ていた。
「よくお似合いですよ」
侍女たちが背中の紐をほどきにかかる。ドレスを脱いでいつもの服に着替えているあいだに、マリアが侍女たちに仕立て直しの指示を出していた。
「では、直しておきますね」
侍女の一人がドレスを腕にかけ、もう一人が小箱を抱える。マリアも一緒に部屋を出ていった。
扉が閉まり、アデリナと二人になった。
*
「当日は、少しでも疲れたらすぐに言うのですよ」
アデリナは寝椅子に残っていた布を畳みながら言った。
「途中でも構いません。抜けてしまってもいいのですから。紹介より、あなたの身体の方が大事です」
私は椅子の背に手を置いて立っていた。窓の外から、庭師の作業をする音が聞こえている。しばらくして、それも遠くなった。
「エリシア?」
名前を呼ばれて、椅子に座った。アデリナも、畳みかけの布を膝に置いて寝椅子に腰を下ろす。私は膝の上で指を組んだ。
「……あのとき」
言葉を探した。
「自分も、一緒に終わらせるつもりだった」
アデリナの手が止まった。
「私も、一緒に」
何も返ってこなかった。
「ずっと、終わりが見えなかったから」
どこまで歩いても道が続いていた。数えるのをやめてからも、次があって、その次があった。
「それでいいと思ってたの」
組んだ指に、少し力が入った。
「でも、ガルフォードが来て、私は戻ってきた」
アデリナは黙って聞いている。
「……あなたの息子さんに助けられて、今ここにいるのは、分かってる。感謝も、してる」
顔を上げた。
「でも」
その先が出てこなかった。アデリナは布を膝に置いたまま、私を見ている。
「……身体が、思うように動かないの」
膝の上で組んだ指に目を落とす。今は、ちゃんと力が入っていた。
「この前、廊下で力が抜けたとき」
壁についた手が滑っていった。床が、急に近くなった。
「このまま、戻らないかもしれないって思った」
アデリナはすぐには何も言わなかった。
「前なら、それでよかったのに」
少し間があいた。
「……今度は、死ぬのが、怖い」
アデリナの手が、膝の上の布をそっと撫でた。
「……怖くなったのですね」
返事はできなかった。
「みんな、休んでいいって言ってくれる。何もしなくていいって」
さっきのアデリナの声が、まだ耳に残っている。
「分かってるの。でも、何もしないでいると、ずっと焦ってる。戻ってきたのに、何をしたらいいのか分からない」
俯くと、目の奥が熱くなった。唇を結んで、そのまま耐える。
しばらくして、布を置く音がした。顔を上げる前に、抱き寄せられる。
身体が固くなった。腕をどうすればいいのか分からず、下ろしたままにしていた。それから、アデリナの服を掴んだ。
「怖くていいのですよ」
背中に手が回る。
「一人でどうにかしなくても、いいのですから」
視界がにじんだ。息を吸うと、少し震えた。声を出したら、そこから崩れそうだったので、出さなかった。
アデリナは、もう何も言わなかった。背中を、とん、とん、と叩き、それから髪を撫でる。同じ手つきが、何度も繰り返された。
「……もう少し、このままでいましょうか」
答えられなかった。
離れもしなかった。
しばらくして、廊下を来る足音が聞こえた。何人かが扉の前まで来て、止まる。
「……入れなくなったわね」
扉の向こうで、マリアの声がした。
「あなたたち、一緒に下がりましょうか」
足音は、来たときよりも慎重に遠ざかっていった。
アデリナの手は、私の髪を撫でたままだった。




