第31話 居場所のなさ
公爵家の朝は、人が多い。
長い食卓に、父と母、兄夫婦とその子ども二人、ルーカス、そしてエリシアが着いている。皿の触れる音や子どもの声が、絶えず行き交っていた。
食事が終わると、それぞれが自分の一日へ散っていく。兄は王城へ、ルーカスは学校へ、子どもたちは勉強と剣の稽古へ。父は書斎へ入っていった。
子どもの一人が、席を立ちながらエリシアを見た。
「エリシア、今日もいる?」
「いると思う」
「じゃあ、帰ったら遊ぼうね」
言うなり、子どもは駆けていった。
「……うん」
エリシアは、その背に返事をしていた。
俺も上着を取って立ち上がった。裂け目の件で、今日も王城へ行くことになっている。
「無理するなよ」
「分かってる」
「本当に?」
「昨日も言ったでしょ」
「だから今日も聞いてる」
エリシアは少し呆れた顔をした。
俺は屋敷を出た。
*
俺が家にいない昼のあいだ、エリシアが何をしているのかは、あとで母から聞いた。
本を読み、庭を歩き、母やマリアと茶を飲む。疲れれば自分から部屋へ戻って横になる。誰かに何かを言われるでもなく、そうして一日が過ぎていく。
ある日の茶の席で、エリシアが母に尋ねたらしい。
「アデリナは、毎日何をしているの?」
母が屋敷のことや客を迎える支度のことを話すと、エリシアは最後まで聞いて、「そう」とだけ言ったという。
*
夕方、王城から戻って廊下を歩いていると、小広間からルーカスの声が聞こえた。
覗くと、エリシアと向かい合って何か話している。
「今日、またジェラルドに負けた」
「ジェラルド?」
「同じ騎士科のやつ。すごく強いんだ」
「いつも負けるの?」
「……まあ、だいたい」
「そうなんだ。友達なの?」
「うん。たぶん」
「たぶん?」
「ジェラルドも友達だと思ってるはず」
エリシアは少し笑い、身を乗り出すようにして聞いた。
「どうやって負けるの? 最初に何をして、ジェラルドがどう動いて、あなたはどうしたの」
「……急に細かいなあ」
ルーカスはそう言いながらも、今日の試合の流れを話し始めた。エリシアは黙って耳を傾け、話が終わると短く言った。
「それなら、最初から相手を見すぎてるんじゃない?」
「え?」
「動く前に、もう負けてる気がする」
ルーカスがきょとんとしても、エリシアは続きを言わなかった。
*
別の日には、母とマリアと三人で茶を飲んでいたらしい。
母が菓子を勧めた。
「これ、最近お気に入りなの。少し甘いけれど」
エリシアは一口食べて、首をかしげた。
「……そうなの?」
「え?」
「甘いの?」
母は一拍置いて聞いた。
「本当に、何も分からないの?」
「うん。甘いのも分からない」
「無理に食べなくてもいいのよ」
マリアが言った。
「でも、身体には必要だから」
エリシアはそう言って、残りもそのまま食べた。母もマリアも、しばらく何も言えなかったそうだ。
*
その次の日、俺が王城にいるあいだに、エリシアが屋敷の中で倒れた。
母とマリアと廊下を歩いている途中だったらしい。話していたエリシアの声が、急に途切れる。
「エリシア?」
返事はない。エリシアは足を止めて壁に手をつくが、そのまま膝から力が抜けた。
マリアがとっさに腕を取ったものの、崩れる身体までは支えきれない。近くにいた護衛が駆け寄り、床に倒れる前に抱き留めた。
護衛がエリシアを部屋へ運び、侍女が預かっていた瓶詰めのマナを持ってくる。寝台に寝かせて飲ませても、すぐには元どおりにならず、しばらく起き上がれないままだった。
落ち着いたころ、母がそばで言ったという。
「……こういうことが、あるのですね」
「今日は、ちょっと悪かっただけ」
「これで、ちょっとなの?」
「もっと悪いと、起きられないから」
母がそこで聞くのをやめたところへ、騒ぎに気づいた父も書斎から出てきた。
「マナは?」
「先ほど、瓶のものを」
「研究所には?」
「そこまでは必要ないと、エリシア様が」
「本当に、大丈夫よ」
エリシアが言うと、父はそちらを見た。
「それは、お前が決めることではない」
エリシアは少し黙ってから答えた。
「……分かりました」
*
夕方、王城から戻って母に今日のことを聞き、そのままエリシアの部屋へ向かった。
「今日、倒れたのか?」
「倒れてない」
「母上から聞いたぞ」
「途中で力が抜けただけ」
「それを倒れたって言うんだ」
「……そうなの?」
エリシアの顔色は、まだいくらか白い。額に触れてみるが、冷たくはなかった。手を取って、脈も確かめる。
「補給は」
「昼に、瓶のを飲んだ」
「それだけじゃ足りないだろう」
いつものように顔を寄せて、マナを送った。しばらくして離れると、呼吸も少し楽になっている。
「……もう、大丈夫」
「その大丈夫は、聞かないことにしてる」
エリシアは何か言いたそうにしたが、結局黙った。
*
数日で、エリシアは元どおりになった。
また、いつもの朝が来る。
ルーカスがパンをちぎりながら、エリシアに言った。
「今度、ジェラルドと試合するんだ」
「この前言ってた子?」
「そう。エリシアも見に来る?」
「私も行っていいの?」
「うん。母上たちも来るよ」
「……じゃあ、行く」
そう答えてエリシアはまた食事に戻ったが、少しして顔を上げる。
「試合は、いつ?」
*
その夜も、寝る前の補給をした。
もう日課になっている。短く唇を触れさせて、マナを送る。
「今日はどうだ」
「大丈夫。今日は一度も苦しくならなかった」
「そうか」
エリシアは天井を見たまま、しばらく黙っていた。
「ねえ、ガルフォード」
「ん」
「みんな、毎日することがあるのね」
「ルーカスは学校に行くでしょう。ヴィクトルもあなたも、朝になると仕事に行く。ヴァンデルは書斎にいるし、アデリナもマリアも、この家のことをしてる」
少し間があいた。
「私は、ない」
すぐには答えず、しばらくして天井を見たまま言った。
「ゆっくり探したらいい」
「……探す?」
「したいことを」
「したいこと……」
「見つかったら、やったらいい」
「今すぐ決めなくていい?」
「ああ。急ぐ必要はない」
エリシアは、小さく繰り返した。
「したいこと……」
それきり、何も言わなかった。




