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第26話 普通を知らない

 マナの補給を始めて、数日が過ぎた。


 エリシアの起きていられる時間は、少しずつ延びていた。城の中を歩き、セドリックと過ごし、日のあるうちは部屋の外にいられることも増えた。ただ、まだ安定はしておらず、調子のいい日に動きすぎると翌日は寝込んだ。食事も身体のために摂るだけで、味は相変わらず分からないようだった。


 寝る前の補給を終えたあとも、俺はそのままエリシアの部屋に残るようになっていた。最初の何日かは、寝台のそばの椅子で夜を明かした。


「今日も、そこで寝るの?」


 ある夜、上掛けの中からエリシアが聞いた。


「ああ」


「眠れる?」


「問題ない」


「そうは見えないけど」


 エリシアは身体をずらし、寝台の空いたところを見た。


「こっちで寝ればいいでしょう」


 俺はエリシアを見た。


「夜中に具合が悪くなったら、近いほうがすぐ分かるもの」


 理屈は通っていた。少し迷ってから上着を脱ぎ、空いたところに横になると、寝台が小さく軋む。エリシアは目を閉じ、ほどなく隣から寝息が聞こえてくる。俺は目を閉じても、すぐ隣の気配ばかりが分かった。


 それきり、寝台のそばの椅子で夜を明かすことはなくなった。


 その日は朝から、比較的顔色がよかった。


*


「今日は、丘まで行ってみる?」


 昼前、セドリックがエリシアの部屋へ来て、そう誘った。


「俺も行く」


 俺が言うと、セドリックが振り返った。


「ガルフォードも?」


「ああ」


「うん! 行こう!」


 セドリックは嬉しそうに笑った。


 侍女が一人、敷物と水筒を抱えてついてきた。城門を出ると、侍女は少し離れて歩き、そのさらに後ろを護衛の兵が歩く。


 城の裏手からは、畑のあいだを抜け、ゆるい傾斜を登って低い丘へ続く道がある。


 行きは、セドリックがエリシアの手を引いていた。


「あそこまで行ったら、休もう」


「もう少し、歩けるよ」


「だめ。休むの」


 セドリックが道の途中の切り株を指さす。エリシアは不服そうにしたが、結局はそこで腰を下ろした。息が上がっている。


 しばらく歩くと、またエリシアの歩調が落ちてきた。俺は横に並び、腕を差し出す。


「つかまれ」


 エリシアは少し迷ってから、俺の腕につかまった。


 それまでエリシアと手をつないでいたセドリックが、今度は俺の空いた手を握ってきた。驚いたが、振りほどく理由もない。セドリックは機嫌よく足を運んでいる。


 三人で、ゆっくり丘を登っていく。


 横を見ると、エリシアの顔から血の気が引いていた。


「エリシア」


「……まだ大丈夫」


「顔色が悪い」


「もう少し。あの上まで行きたいの」


 エリシアは丘の上を見上げた。俺は歩調をさらに落とした。


*


 丘の上は、風が通っていた。


 一面に草が生え、腰を下ろすと青い匂いがした。下には城下が小さく見え、屋根と屋根のあいだを荷車が動いている。


 セドリックはエリシアの隣に座り、城下を指さして、あれは何、これは何と話していた。エリシアはそれを聞きながら、ときどきうなずいている。


 俺は少し離れたところに座り、二人をながめていた。やがてセドリックがこちらへ来て、俺の腕を引っ張った。


「ガルフォード、あの雲、おっきな竜みたいじゃない?」


「……どれだ」


「あの大きいやつ」


 言われたほうを見る。


「竜というより、犬だろ」


「犬じゃないよ!」


「俺には、そう見える」


「エリシアは?」


 セドリックが振り向く。エリシアは空を見上げたまま考えた。


「……馬かな」


「二人とも、全然違う!」


 セドリックは笑って、草の上に寝転んだ。


「エリシア、寝てみて。雲がよく見えるよ」


 言われたとおり、エリシアもその隣に身を横たえる。すると今度は、セドリックが俺を見た。


「ガルフォードも」


「俺はいい」


「三人で見るの」


 腕を引かれ、仕方なく俺も草の上に寝転んだ。エリシア、セドリック、俺の順に並ぶ。


 背中の草がちくちくする。風が吹くたびに、辺りの草が一斉に鳴った。雲は思っていたよりも速く流れていく。


 いつのまにか、誰も喋らなくなっていた。


 セドリックが何か言うのを待っていたが、当のセドリックも空を見たままだった。エリシアも黙って雲を目で追っていて、俺もそのまま空を見ていた。


 しばらくすると、隣から小さな寝息が聞こえてきた。顔を向けると、さっきまであれだけ喋っていたセドリックが、もう眠っていた。


「寝たな」


「そうね」


 エリシアはセドリックの寝顔に目をやり、小さく笑った。


 風が吹いて、草が鳴った。


 ふと、エリシアがこちらを向いた。


「ガルフォード」


「なんだ」


「髪、白くなったのね」


 俺は左の前髪に指をやり、そこから頭へ続く白い筋をなぞった。


「ここだけな」


「前は、違ったよね」


「裂け目から戻ってからだ」


 エリシアの視線が、眉のあたりへ移った。


「その、眉の上の傷も?」


「ああ」


 エリシアはしばらくそこを見ていた。


「……痛かった?」


「夢中だったからな。覚えてない」


「そっか……」


 それ以上は聞かず、エリシアは空へ目を戻した。


 俺も仰向けに戻る。二人のあいだでは、セドリックが気持ちよさそうに眠っていた。


*


 帰り道、エリシアの足取りは行きよりもずっと重くなっていた。傾斜を半分ほど下りたところで、俺は足を止める。


「エリシア、乗れ」


「歩ける」


「そろそろ疲れてきただろ」


「……まだ歩ける」


「これ以上、無理しないほうがいい。明日、起き上がれなくなるぞ」


 エリシアは何か言いかけたが、結局口をつぐんだ。


 背を向けてしゃがむと、おとなしく背中に乗ってくる。背負った身体は、やはり軽かった。


 行きには俺の手を握っていたセドリックは、今は隣で、今日見た雲のことや明日は何をするか、料理長に頼みたい菓子のことを喋り続けている。


 エリシアは背中で相槌を打っていたが、返事はだんだん間遠くなっていく。


 俺はそのまま、セドリックと並んで畑のあいだの道を下りていった。


*


 翌日は、ほとんど寝台で過ごした。


*


 それから数日が過ぎ、シルフィが定期の診察に来た。


 エリシアの脈をとり、額に手を当て、いくつか記録をつけていく。ひととおり終えると、シルフィは記録帳を閉じた。


「師匠とも話したんだけど」


 そう切り出して、エリシアを見る。


「そろそろ、王都に来たほうがいいと思う」


「アルヴェスタンに?」


「うん。経過を診続けたいし、マナの流れも研究所の設備でちゃんと調べたくて。裂け目の調査も、まだ続いてるし」


「……」


 エリシアは考えてから、当たり前のことのように言った。


「なら、研究所に戻ればいいのね」


 俺は、口を挟まなかった。


「ガルフォードさん?」


 シルフィがこちらを見る。


「……いや」


 エリシアはもう、いつ発つのか、シルフィはまた来るのかと次の話をしている。


 俺はその横で、何も言えずにいた。

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