第22話 失ったもの、残ったもの
左の手には、布が巻かれていた。昨日、歩く練習でよろけて床に手をついたとき、擦りむいたのだ。
布を少しずらすと、赤い擦り傷が昨日のままそこにあった。
「まだ、傷がある」
思わずつぶやくと、寝台のそばで本を読んでいたセドリックが顔を上げた。
「昨日の傷なんだから、あるよ」
当たり前のことのように言われて、もう一度掌を見る。
布を巻き直して、寝台から足を下ろす。床に立ち、一歩、二歩と歩いてみた。三歩目のあたりで息が上がり、四歩目で壁に手をついた。呼吸が、なかなか元に戻らない。
「エリシア、座って!」
セドリックが本を放り出して駆け寄ってきた。
「だめだよ。半年も寝てたんだから、急に動けないよ? お医者さまも言ってたでしょ」
「……そうだったっけ」
「言ってたよ!」
言い返す言葉を探したが、うまく出てこなかった。
「でも、昨日よりは動けてる」
「昨日より動けているのと、ずっと動いていいのは違うよ」
九歳の子どもに、言い負かされた。
壁に手をついたまま呼吸を整えようとしたが、今度は目の前がゆっくり回り始めた。足から力が抜け、その場にしゃがみ込む。
「エリシア?」
「……少し待って」
視界が斜めに傾いたきり、戻ってこない。頭の芯が、ぼんやりする。
「どうしたの?」
「……分からない」
「疲れたんじゃない?」
「これが?」
セドリックは、私が何を聞いているのか分からないらしかった。
しゃがんだ私を助け起こそうとして、セドリックが手を引いた。その拍子に、床に投げ出したままの本を踏み、前につんのめる。
考えるより先に手が出て、倒れかけたセドリックの腕を掴んだ。けれど、その重さを支えきれず、今度は私の身体まで前へ引かれる。二人そろって、床に転がった。
物音を聞きつけて、控えていた侍女たちが駆けてきた。
「エリシア様!」
「セドリック様、お怪我は?」
私は床に手をついたまま、自分の腕を見た。子ども一人を、支えられなかった。
助け起こされて寝台に戻され、しばらくは動かないようにと言われた。
窓の外では、城の兵士たちが剣の稽古をしていた。木剣の打ち合う音が、風に乗って届いてくる。踏み込みの甘い者がいる。構えの崩れている者がいる。目で追っているうちに、直したいところがいくつも見えてくる。
「剣、振りたいの?」
いつのまにか、セドリックが隣に立っていた。
*
次の日、セドリックが布にくるんだ細長いものを抱えて入ってきた。ほどくと、子ども用の練習剣が出てくる。刃はなく、木を削って作った軽いものだ。
「これなら軽いよ!」
寝台の縁に腰かけて、それを受け取った。両手で柄を握り、持ち上げようとする。
腕が、震えた。
膝の上からわずかに持ち上げただけで腕全体が小刻みに揺れ、剣先が定まらない。もう少し、と思っても、それ以上は上がらなかった。
「重い……」
子ども用の、軽いはずの剣だった。
「剣なんだから、重いよ?」
セドリックが、不思議そうに言う。
剣を膝に下ろして息を整えていると、扉のほうで足音がした。アルベリクだった。剣に目をとめ、片眉を上げる。
「エリシア様。何をしているんです」
「……剣を持っていただけよ」
「持てていませんね」
言い返せなかった。アルベリクは近づいてきて、練習剣を取り上げた。
「今は、それを持つ必要はありません」
「では、私は何をすればいいの?」
「今は、何もしなくていいのです。元気になることだけを考えてください」
隣にいたセドリックが、少し気まずそうに俯いた。
「……ごめんね。これなら軽いから、大丈夫だと思ったんだ」
「あなたが謝ることじゃないわ」
けれど、アルベリクの言葉には、なんと答えればいいのか分からなかった。
何もしなくていい。
それでも、しばらくすると、また窓の外の兵士たちを目で追っていた。
*
昼を過ぎた頃、また窓辺まで歩いて兵士たちの稽古を眺めていると、セドリックが本を閉じて言った。
「エリシア、お昼寝の時間だよ」
「……お昼寝?」
「うん。お医者さまが、午前中に動いた日は、ちゃんと休ませてって」
「……私が?」
「エリシアが」
「眠くない」
「でも寝るの」
手を引かれて、寝台に横になった。セドリックは上掛けを肩まで引き上げてくれると、そばの椅子に座り直し、ぽん、ぽん、とその上から叩き始めた。
「目、閉じて」
何をされているのか、よく分からなかった。
「エリシア」
「……分かった」
言われるまま、目を閉じる。ぽん、ぽん、と一定の間隔で伝わってくる感触を数えているうちに、いつのまにか眠っていた。
次に目を開けたとき、すぐそばにセドリックの顔があった。椅子に座ったまま寝台の端に片腕をのせ、そこに頬をあずけて眠っている。もう片方の手は、まだ上掛けの上にあった。
起こさないように、私は動かずにその寝顔を見ていた。
そっと入ってきた侍女が、慣れた手つきでセドリックの肩に薄い毛布をかける。私と目が合うと小さく会釈をして、また出ていった。
セドリックは、それでも目を覚まさなかった。




