第21話 目覚め、幼い手当て
目が覚めた。
天井がある。木の梁が渡され、その向こうに白い漆喰が続いている。見覚えはない。どこかで見た気もしたが、思い出そうとはしなかった。
しばらく、それをながめていた。何かに呼ばれて目を開けたわけではない。声も、光も、痛みもない。目が開いて、天井がある。
身体を起こそうとしたが、腕が思うように上がらない。指は動くし、手首も回る。けれど腕全体を持ち上げようとすると、途中で重くなって止まってしまう。
重い。自分の腕がこんなに重いものだとは、知らなかった。
部屋の隅で、小さな音がした。目だけを動かすと、椅子に子どもが座っている。膝の上に本を開いたその子は、私と目が合うと、本を持ったまま動かなくなった。
「……エリシア?」
呼ばれたのが自分の名前だと分かるまでに、少し時間がかかった。
子どもはそのまま私を見つめていたが、急に本を取り落とすようにして立ち上がった。
「……起きてる? 起きたの!?」
返事をしようとしたが、喉がうまく動かず、声にならなかった。
「お医者さま呼んでくる!」
子どもは部屋を飛び出していった。「エリシアが起きた!」と叫ぶ声が廊下の向こうへ遠ざかり、やがて足音が増えて、また散っていった。
私は、天井を見ていた。
*
医師が来て脈をとり、瞼を持ち上げ、短い言葉をいくつか交わして帰っていった。何を言われたのかは、あまり頭に入らなかった。身体を起こすのはまだ無理だと言われ、背中に枕をいくつも入れて、半分だけ身を起こした格好にしてもらった。
医師と入れ替わりに、大柄な男が入ってきた。急いで来たらしく、上着の襟が少し乱れている。その人は私の顔を見て一度足を止め、それからゆっくり息を吐いた。
「……お目覚めになったのですね」
どこかで聞いた声だった。
「……ここは?」
「ダームベルグの城です」
ダームベルグ。その一言で、目の前の顔と名前がつながった。アルベリク。この国の王だ。前に訪れたときより、少しだけ老けたように見えた。
アルベリクは寝台のそばの椅子に腰を下ろした。さっきまで子どもが座っていた椅子だ。
「化身は、消えました。あの日から、二度と現れていません」
「……そう」
「ガルフォードたちは、今、裂け目の調査に出ています。じきに戻るでしょう」
ガルフォード。名前を聞くと、最後に見た顔が浮かんだ。どこで別れたのかは、うまく思い出せない。
扉のところで小さな足音がして、さっきの子どもが戻ってきた。私が起きているのを確かめると、ほっとしたように部屋へ入ってくる。
「それから、こちらは息子のセドリックです」
「セドリックです」
子どもは、大人びた仕草で頭を下げた。
「……あなたの?」
「はい。九歳になります」
セドリックはもう一つ椅子を引き寄せ、当たり前のように寝台のそばに座った。
「明日からも、ぼくが来るからね」
「……どうして?」
「ガルフォードがいないから」
「……?」
「ぼくが見てないと、だめでしょ」
「セドリック。誰も頼んでいませんよ」
アルベリクが横から言ったが、セドリックは聞いていなかった。少し身を乗り出して、私の顔を覗き込んでくる。
「ねえ、エリシア」
「何?」
「ぼく、妖精さんかと思ってた」
「……私を?」
「うん。ずっと寝てるし、全然変わらないし」
そう言って、セドリックは少しばつが悪そうにした。
*
次にセドリックが来たときは、器を両手で捧げるように持っていた。
「これ、体にいいんだって。料理長に作ってもらったの」
本で調べて、薬草を入れてもらったのだという。
スプーンを取ろうとしたが、また腕が上がらず、器に届く前に下りてしまう。それを見たセドリックが、先にスプーンを取った。
「ぼくがやるよ」
ひと掬いし、息を吹きかけて冷ましてから、口元へ運んでくる。
私は迷ってから口を開けた。温かいものが、喉を通っていった。
「おいしい?」
セドリックが、覗き込むように聞いた。
「……ごめんね。味、分からないの」
「そうなの?」
「うん。でも、ありがとう」
数口で、もう入らなくなった。身体が受けつけないというより、それ以上入る場所がないような感じだった。セドリックのスプーンが宙で止まると、しょんぼりしたその顔を見て、控えていた侍女がそっと口を挟んだ。
「エリシア様は、まだお目覚めになったばかりですから。たくさんは召し上がれないんですよ」
「そうなの?」
「少しずつです。今日より明日、明日より明後日、少しずつ召し上がれるようになります」
セドリックは、スプーンを器に戻した。
「……じゃあ、明日も持ってくる」
「うん」
「少しずつ、だからね」
私は、うなずいた。
*
それから何日か、眠っては覚めるのを繰り返した。目を開けるたびに、窓の明るさが違っていた。
何度目かに目を開けたとき、寝台の脇の椅子に老人が座っていた。
「おはよう、エリシア」
いつもの声だった。私が名前を呼ぶまで、老人は何も言わずに待っていた。
「……メルキテウス」
「うむ」
メルキテウスは私の額に手を当てた。指先から、淡いものが流れ込んでくるのが分かる。しばらくして、手を離した。
「力が、戻らないの?」
「今は、そう見える」
「今は?」
「おぬしの中で、マナが巡っておらん。入れても留まらず、外へ流れていく」
言われても、よく分からなかった。身体の中のことは、自分では見えない。
「原因は、まだ分からん」
深刻ぶる様子もなく、私も特に何も思わなかった。
メルキテウスは数日城に留まり、毎朝同じように私の額に手を当てた。変わりは、なかった。
「しばらく、ここで世話になるといい」
王都へ戻る前、そう言われた。
「あちらでも、調べる」
「うん」
「……焦らんでいい」
めずらしく、そんなことを言った。
*
そのうち、枕を積まなくても、少しのあいだなら身を起こしていられるようになった。
窓の外は庭だった。低い生け垣と花壇の向こうに、芝生が広がっている。誰かが水をやったのか、ところどころ土の色が濃い。日が当たって、暖かそうだった。
私は、それをながめていた。セドリックが本から顔を上げて、私の視線をたどった。
「エリシア、お庭に行きたいの?」
「……行きたい、かも」
窓はそう高くないし、下は芝生だ。
「ここから飛び降りたら、すぐなのにね」
セドリックが、椅子を鳴らして立ち上がった。
「だ、だめ!」
「……どうして?」
「エリシア、妖精さんじゃないんだから! 二階から飛び降りたら、怪我するよ!」
「……そうなの?」
「そうだよ!」
セドリックは窓と私のあいだに立ち、まだ怒った顔をしている。
その肩越しに、庭が見えた。日の当たった芝生も、土の色が濃くなった花壇も、手が届きそうなほど近い。
けれど、今日は行けなかった。




