第20話 眠る半年
メルキテウスが来たのは、俺が名前を呼び続けているあいだだった。
いつ現れたのか、杖を突いてすぐそばに立っていた。エリシアの顔をしばらく見下ろし、一度だけ動きを止める。
「そこへ寝かせるんじゃ」
俺は、腕をほどけなかった。
「ガルフォード」
老人の声がした。
「生かしたいなら、わしに渡せ」
俺はようやく腕をほどき、エリシアを地面に横たえた。
「ここから一番近い街へ行くぞ。まず、動かせる状態にせねばならん」
*
行き先は、ダームベルグだった。
ダームベルグ王アルベリクは事情を聞くと、それ以上は何も問わなかった。
「部屋を用意しろ。医師も呼べ」
医師の出番は、俺とスレンのほうだった。俺は左の眉の上を縫われて包帯を巻かれ、スレンもあちこちを診てもらった。シルフィは転移してからほとんど立てず、別の部屋で休んでいる。
エリシアを診るのは、メルキテウスだった。外から見える傷はもうなく、呼吸も少しずつ落ち着いていく。
だが、目を覚まさない。
翌朝にはシルフィも起きてきた。まだ顔色は悪かったが、エリシアの部屋へ来てその額に手を当てる。指先から淡い光が流れ込み、しばらくして消えた。
「……起きない」
「ああ」
「師匠。いつもなら」
「分かっておる」
メルキテウスはエリシアの顔を見たまま、低く言った。
「今までとは、違う」
それ以上は何も言わず、シルフィも、もう一度魔法を流そうとはしなかった。
*
メルキテウスは、いったん王都へ戻ることになった。
王都では、化身の消滅を知る者たちが対応に追われていた。各国への説明、裂け目の調査、研究所の今後。処理しなければならないことは、いくらでもあるという。あの日を境に新しい眷属は現れなくなったが、閉じたはずの裂け目は消えず、今も不安定なまま残っている。
シルフィも、メルキテウスと一緒に発つことになった。荷をまとめるその横で、スレンが当たり前のように自分の荷も背負っている。誰も、それについては何も言わなかった。
「エリシアのこと、お願いします」
「ああ」
「また一月くらいしたら来ます」
三人はその日のうちに発ち、エリシアは、それからも目を覚まさなかった。
*
――あれから、半年が過ぎた。
ダームベルグの朝は、穏やかだ。城の窓からは低い丘のあいだに広がる畑が見え、荷車の音に混じって笑い声が聞こえてくる。
俺はアルベリクたちと城の食堂で朝食をとり、頼まれた仕事を片づける。昼過ぎに町へ下りることもあるし、剣も鈍らないように振っている。
そして一日のどこかで、必ずエリシアの部屋へ来る。窓を開け、水差しの水を替えてから椅子に座る。その椅子は、いつのまにか俺の場所になっていた。
「今日は、市場で果物が安かった。あとで持ってくる」
返事はない。
半年、返事はなかった。
それでも毎日、少しだけ話していた。話すことがない日でも、何か一つは口にした。
*
シルフィは、月に一度ほど城へ来た。
スレンも必ず一緒で、護衛だと本人は言うが、来るたびに自分の荷だけでなくシルフィの分まで背負っていた。シルフィはエリシアの様子を診て、いくつか記録をつけて帰っていく。変化は、いつもない。
その日も診察を終えると、シルフィが俺の座る椅子のほうを見た。
「ガルフォードさん、また増えてません?」
「何がだ」
「その、白い髪」
左目の上の前髪から頭頂にかけて、いつからか髪がひと筋、白く抜けていた。中心は白く、そこから外れるほど元の黒に近づいている。眉の上の傷と、同じ線の上だった。
「そうか?」
「気にしないんですねえ」
スレンは俺の髪をちらりと見たが、何も言わなかった。
*
その頃、シルフィがいつもと違う顔で来た。
「師匠から、伝言です」
「メルキテウスからか」
「裂け目の調査に、ガルフォードさんにも来てほしいって」
俺はエリシアを見た。
半年、そばにいた。離れることなど、考えたこともなかった。
「……しかし」
「行ってこい」
振り返ると、扉のところにアルベリクが立っていた。
「ここには、私がいる」
出立を翌朝に控えて、俺はいつもの椅子に座った。窓からの光を受けたエリシアの顔は、半年前から変わらず、ただ眠っているようにしか見えない。
俺はその頬に手を置いた。
「……行ってくる」
返事はない。
「戻るまでに、目を覚ましてくれ」
返事はなかった。
しばらくその顔を見つめてから身をかがめ、頬にそっと口づける。
それから、立ち上がった。




