第19話 二組の手(神話の終わり)
裂け目へ飛び込んだ瞬間、足の裏から地面が消えた。
落ちている、と思った。だが下がどこなのか分からない。光と闇が凄まじい速さで流れていて、俺の体もその流れに巻き込まれていた。頭が上なのか下なのかも掴めない。息を吸おうとすると、そのたびに何かに押し戻された。
流れの中には、いくつもの塊が浮いていた。岩のようにも、割れた結晶のようにも見える。どこから来たものなのかは分からない。それが俺の横を、次々に追い越していく。
その一つが、真っ直ぐ向かってきた。
腕を上げるのが間に合わなかった。左の眉の上に固いものが当たり、視界が白く弾けた。熱いものが目に流れ込んでくる。瞬きをしても、左目が開かない。
拭う暇はなかった。俺は右目だけで、流れの先を探した。
闇の塊が見えた。かたちを崩したまま、渦の底へ引きずられていく。
その中に、薄い金の髪があった。
「エリシア!」
叫んだが、自分の声すら遠かった。
エリシアは動かなかった。光と闇の流れに体を運ばれ、髪だけが大きく揺れている。
顔がこちらを向いた。目は閉じていた。
「エリシア!」
手を伸ばした。届かない。流れに体を持っていかれて、腕を伸ばすだけで肩が引かれ、体が回った。
このままでは、追い越してしまう。
横を流れてきた岩のような塊に、咄嗟に手をかけた。指が縁に引っかかる。腕が抜けそうなほど引かれた。それでも離さなかった。体が振られて、流れの向きが変わる。その瞬間に手を放した。
エリシアが、さっきより近くにいた。
もう一度、手を伸ばした。流れに引かれながら、それでも指先を伸ばす。もう少しだった。それでも、届かない。
そのとき、背後から光が差した。周りを流れていたものとは違う、柔らかく白い光だった。あれほど速かった流れが、急にゆっくりになったように見えた。
光は俺の横を通り過ぎて、エリシアのほうへ伸びていく。その中に、細い手が見えた。
その手がエリシアを闇から引き離した。けれど、自分のほうへは引き寄せない。もう片方の手が俺に触れ、エリシアの体をこちらへ送り出す。
遠かったはずのその体が、近づいてくる。
エリシアの指先が触れた。
俺は、その手を掴んだ。
手首を握って、力任せに引き寄せる。エリシアが、俺の腕の中に入った。ひどく軽かった。
そこで初めて、顔を上げた。
光の中に、女がいた。
「お戻りなさい」
女は俺たちから目を離し、闇のほうを向いた。
「ヴォイド」
聞いたことのない名だった。
背中を押されたような感じがした。強い力ではなかった。それなのに次の瞬間には、俺たちは凄まじい速さで運ばれていた。俺はエリシアを抱え込んだ。腕の力を緩めなかった。
*
闇が、わずかに動いた。
女は崩れかけたその手を取り、抱き寄せた。
「もう終わりです。あなたは私と共に」
闇は答えなかった。ゆっくりと手を上げて、女の手の上に自分の手を重ねた。
それきり、二つの姿は光の中へ消えた。
*
外では、天井が落ち始めていた。
シルフィは両手を裂け目へ向けたまま立っていた。腕が震えている。膝が何度も落ちかけては、そのたびに踏みとどまった。鼻から血が落ちても、拭わなかった。
眷属は、まだ湧いてくる。スレンはシルフィのそばを離れず、寄ってくる端から斬り伏せていた。足元の岩が割れて傾いても、位置を変えない。
「まだか!」
「もう少し……!」
裂け目の縁が、少しずつ細くなっていく。
「シルフィ!」
「まだ!」
そのとき、裂け目から手が出た。
血に濡れた手だった。指が宙を掻いている。スレンがその手首を掴み、片手で剣を振りながら、もう片方の腕で力任せに引いた。
引きずり出されたのは、ガルフォードだった。その腕の中に、エリシアがいた。
「飛ぶよ!」
シルフィが両手を胸の前で交差させると、裂け目が閉じた。光が、四人を包む。
その背後で、地面と天井がまとめて崩れ落ちた。
*
柔らかい土の上に、膝をついていた。どこなのかは見なかった。腕の中だけを見ていた。
「エリシア」
返事はなかった。
「エリシア?」
頬に触れると、冷たかった。肩を揺すっても、首が力なく動くだけで、目を開けない。
左目に流れ込んだものが顎を伝い、エリシアの髪に落ちた。もう一度、その肩を抱き寄せる。
「エリシア!」
誰かが走ってくる音がした。シルフィの声も聞こえたが、何を言っているのかは耳に入らなかった。
顔を寄せた。
「エリシア!」




