第16話 森の番人
「明日の夜、アストレイアの星が出るから」
出立前の打ち合わせが終わり、人が引いたあとだった。部屋に残っていた俺に、エリシアがそう言った。
「なんだそれは」
「五十年に一度だけ出る星。その夜は、力が使えなくなるの」
言い方があまりに普通だったので、意味を掴むのに少しかかった。
「……使えない?」
「うん。空になる」
「どのくらいだ」
「一晩。朝には戻る」
それだけ言って荷をまとめ始めたエリシアの手元を、俺はしばらく黙って見ていた。
「そんな日に、外へ出るのか」
「毎回そうだよ」
毎回。
五十年に一度の夜を、この人は何度迎えてきたのかと思ったが、聞けなかった。
「行くところがあるの。近いから」
「一人でか」
「うん」
エリシアが、こちらを見た。
「くる?」
「……いいのか」
「来たいんでしょ」
断る理由は、なかった。
*
樹海に入ったのは、翌日の昼過ぎだった。
道はない。木が高く、下生えが深い。それでもエリシアは迷わずに歩いた。五十年に一度しか通らない道筋を、体が覚えているらしかった。
奥へ行くほど木は太くなり、やがて、開けた場所に出た。
一本の大樹があった。
首を反らしても、梢が見えない。幹の周りだけで、家が数軒建ちそうだった。根が地面を波打たせ、その隙間に苔と羊歯が茂っている。
その根元に、何かがいた。最初は、岩か木の株だと思った。
動いた。
立ち上がると、俺の倍はあった。全身が苔と葉と蔓に覆われ、腕も脚もある。だが、顔がなかった。目も鼻も口も、どこにもない。人の形をしているのに、人ではない。森がそのまま立ち上がったようだった。
俺は剣に手をかけていた。
巨体が、びくりと揺れた。慌てたように木の陰へ引っ込む。
半分も隠れていなかった。
「ガルフォード、剣を向けないであげて」
「……は?」
「怖がりだから」
木の陰から半身を出している巨体を、俺は見上げた。
「俺の倍あるぞ」
「大きさは関係ないよ」
仕方なく、剣から手を離した。
「……なんだ、あれ」
「精霊だよ。詳しいことは、私もよく分からないけど」
エリシアは、何でもないことのように答えた。
「ずっとこの森にいるの。名前は知らない。私は番人って呼んでる」
そう言って、大樹のほうへ歩いていく。木の陰から巨体がおそるおそる出てきて、大きな手を差し出した。指の一本が、俺の腕くらいある。
エリシアは慣れた様子で、その手のひらに両手を乗せた。
「久しぶり。また来たよ」
番人は何も言わなかった。声を出せないのか、出さないのかは分からない。その手は、しばらく動かなかった。
*
日が落ちる前に、番人は大樹を登り始めた。
あの巨体が、ほとんど音を立てずに幹を登っていく。高い枝まで登ると、両腕を広げた。
鳥の声が遠くなった。目には見えないが、森全体に薄い膜がかかったようだった。
「一晩中、あれをやるの」
根元で、エリシアが言った。
「……エリシアが頼んだのか」
「頼んでない。勝手にやるの」
日が落ちると、木々の隙間に星が見えた。どれがアストレイアの星なのか、俺には見分けがつかなかった。
番人の住処は、大樹の根が作った洞のような場所だった。乾いた草が敷いてある。人が使うために作られたものではないが、人が寝られるようにはなっていた。そこで、火を焚いた。
「本当に何も使えないのか」
「うん」
「剣は」
「振れるよ。ただの人くらいには」
ただの人。
その言葉に、うまく反応できなかった。目の前にいるのは、いつものエリシアだった。座り方も、話し方も変わらない。だが、いつも感じていた力だけが、どこにもなかった。
「毎回、ここで一人、朝を待つのか」
「うん、今まではね」
火が、ぱちりと音を立てた。
五十年に一度、力をなくす夜を、エリシアは今まで一人で過ごしてきた。番人の結界の中で、朝が来るのを待って。
「怖くなかったのか」
言ってから後悔したが、エリシアは不思議そうな顔をしただけだった。
「何が?」
「……いや。なんでもない」
夜が更けた。
話すことはあまりなかったが、途切れもしなかった。ロスト・ヴァンドラの話を、少しした。五年間、何をして暮らしていたか。飯がまずかったこと。スレンに何度も叩きのめされたこと。エリシアは黙って聞いていた。
「そっちは」
「私?」
「初めてここへ来たとき」
エリシアが、少し考えた。
「最初は、あの子、私を見ると逃げたんだよ」
「あれが?」
「木の後ろに隠れてた」
「隠れられる大きさじゃないだろ」
「本人は隠れてるつもりだったみたい」
思わず笑うと、エリシアも少しだけ笑った。
明日か明後日には、生きて帰れるかどうかも分からない場所へ向かう。それなのに、俺たちは大樹の下で、そんな話をしていた。
火が小さくなった頃、エリシアが草の上で身体を丸めるように横になった。
「もう寝る」
「ああ」
目を閉じる前に、エリシアが言った。
「今日は、ガルフォードもいるし」
深い意味は、ないのだろう。番人の結界があって、俺がいるから安全だという、それだけの話だ。それでも、返す言葉が見つからなかった。
「……俺が見てる。寝ろ」
エリシアは、あっけないほどすぐに眠った。
火の向こうで、その寝顔を見ていた。ただの人と変わらない夜なのに、何ひとつ構えていない。頭上では番人が結界を張り続け、その真ん中で、エリシアだけが眠っていた。
俺は剣を手の届くところに置き、朝まで火を絶やさなかった。
夜が明けると、森を覆っていた膜が消えたのが肌で分かった。遠くで、鳥が鳴き始める。
番人が、大樹を降りてくる。エリシアが立ち上がって、伸びをした。
「戻った」
そう言って、指先を軽く振る。俺の目には何も見えなかったが、本人はそれで確かめたらしい。いつものエリシアだった。
荷をまとめ、番人のほうへ歩いていく。
「ありがとう。またね」
慣れた言い方だった。
番人は、動かなかった。
エリシアが背を向けかけたとき、大きな腕が伸びた。苔と葉に覆われた腕に包まれて、エリシアの体がすっぽりと緑の中に埋まる。
「……どうしたの?」
返事はなかった。番人は、エリシアを離さなかった。
しばらくして、ゆっくりと腕が解かれた。エリシアは、小さく首を傾げただけだった。
「じゃあね」
手を振って、歩き出す。
振り返らなかった。
*
樹海を出るまで、俺は一度だけ振り返った。
大樹の下に、番人がまだ立っていた。こちらを向いたまま、動かなかった。顔はないから、どんな顔をしているのかも分からない。
それでも、あれは別れのように見えた。




