↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
17/55

第16話 森の番人

「明日の夜、アストレイアの星が出るから」


 出立前の打ち合わせが終わり、人が引いたあとだった。部屋に残っていた俺に、エリシアがそう言った。


「なんだそれは」


「五十年に一度だけ出る星。その夜は、力が使えなくなるの」


 言い方があまりに普通だったので、意味を掴むのに少しかかった。


「……使えない?」


「うん。空になる」


「どのくらいだ」


「一晩。朝には戻る」


 それだけ言って荷をまとめ始めたエリシアの手元を、俺はしばらく黙って見ていた。


「そんな日に、外へ出るのか」


「毎回そうだよ」


 毎回。


 五十年に一度の夜を、この人は何度迎えてきたのかと思ったが、聞けなかった。


「行くところがあるの。近いから」


「一人でか」


「うん」


 エリシアが、こちらを見た。


「くる?」


「……いいのか」


「来たいんでしょ」


 断る理由は、なかった。


*


 樹海に入ったのは、翌日の昼過ぎだった。


 道はない。木が高く、下生えが深い。それでもエリシアは迷わずに歩いた。五十年に一度しか通らない道筋を、体が覚えているらしかった。


 奥へ行くほど木は太くなり、やがて、開けた場所に出た。


 一本の大樹があった。


 首を反らしても、梢が見えない。幹の周りだけで、家が数軒建ちそうだった。根が地面を波打たせ、その隙間に苔と羊歯が茂っている。


 その根元に、何かがいた。最初は、岩か木の株だと思った。


 動いた。


 立ち上がると、俺の倍はあった。全身が苔と葉と蔓に覆われ、腕も脚もある。だが、顔がなかった。目も鼻も口も、どこにもない。人の形をしているのに、人ではない。森がそのまま立ち上がったようだった。


 俺は剣に手をかけていた。


 巨体が、びくりと揺れた。慌てたように木の陰へ引っ込む。


 半分も隠れていなかった。


「ガルフォード、剣を向けないであげて」


「……は?」


「怖がりだから」


 木の陰から半身を出している巨体を、俺は見上げた。


「俺の倍あるぞ」


「大きさは関係ないよ」


 仕方なく、剣から手を離した。


「……なんだ、あれ」


「精霊だよ。詳しいことは、私もよく分からないけど」


 エリシアは、何でもないことのように答えた。


「ずっとこの森にいるの。名前は知らない。私は番人って呼んでる」


 そう言って、大樹のほうへ歩いていく。木の陰から巨体がおそるおそる出てきて、大きな手を差し出した。指の一本が、俺の腕くらいある。


 エリシアは慣れた様子で、その手のひらに両手を乗せた。


「久しぶり。また来たよ」


 番人は何も言わなかった。声を出せないのか、出さないのかは分からない。その手は、しばらく動かなかった。


*


 日が落ちる前に、番人は大樹を登り始めた。


 あの巨体が、ほとんど音を立てずに幹を登っていく。高い枝まで登ると、両腕を広げた。


 鳥の声が遠くなった。目には見えないが、森全体に薄い膜がかかったようだった。


「一晩中、あれをやるの」


 根元で、エリシアが言った。


「……エリシアが頼んだのか」


「頼んでない。勝手にやるの」


 日が落ちると、木々の隙間に星が見えた。どれがアストレイアの星なのか、俺には見分けがつかなかった。


 番人の住処は、大樹の根が作った洞のような場所だった。乾いた草が敷いてある。人が使うために作られたものではないが、人が寝られるようにはなっていた。そこで、火を焚いた。


「本当に何も使えないのか」


「うん」


「剣は」


「振れるよ。ただの人くらいには」


 ただの人。


 その言葉に、うまく反応できなかった。目の前にいるのは、いつものエリシアだった。座り方も、話し方も変わらない。だが、いつも感じていた力だけが、どこにもなかった。


「毎回、ここで一人、朝を待つのか」


「うん、今まではね」


 火が、ぱちりと音を立てた。


 五十年に一度、力をなくす夜を、エリシアは今まで一人で過ごしてきた。番人の結界の中で、朝が来るのを待って。


「怖くなかったのか」


 言ってから後悔したが、エリシアは不思議そうな顔をしただけだった。


「何が?」


「……いや。なんでもない」


 夜が更けた。


 話すことはあまりなかったが、途切れもしなかった。ロスト・ヴァンドラの話を、少しした。五年間、何をして暮らしていたか。飯がまずかったこと。スレンに何度も叩きのめされたこと。エリシアは黙って聞いていた。


「そっちは」


「私?」


「初めてここへ来たとき」


 エリシアが、少し考えた。


「最初は、あの子、私を見ると逃げたんだよ」


「あれが?」


「木の後ろに隠れてた」


「隠れられる大きさじゃないだろ」


「本人は隠れてるつもりだったみたい」


 思わず笑うと、エリシアも少しだけ笑った。


 明日か明後日には、生きて帰れるかどうかも分からない場所へ向かう。それなのに、俺たちは大樹の下で、そんな話をしていた。


 火が小さくなった頃、エリシアが草の上で身体を丸めるように横になった。


「もう寝る」


「ああ」


 目を閉じる前に、エリシアが言った。


「今日は、ガルフォードもいるし」


 深い意味は、ないのだろう。番人の結界があって、俺がいるから安全だという、それだけの話だ。それでも、返す言葉が見つからなかった。


「……俺が見てる。寝ろ」


 エリシアは、あっけないほどすぐに眠った。


 火の向こうで、その寝顔を見ていた。ただの人と変わらない夜なのに、何ひとつ構えていない。頭上では番人が結界を張り続け、その真ん中で、エリシアだけが眠っていた。


 俺は剣を手の届くところに置き、朝まで火を絶やさなかった。


 夜が明けると、森を覆っていた膜が消えたのが肌で分かった。遠くで、鳥が鳴き始める。


 番人が、大樹を降りてくる。エリシアが立ち上がって、伸びをした。


「戻った」


 そう言って、指先を軽く振る。俺の目には何も見えなかったが、本人はそれで確かめたらしい。いつものエリシアだった。


 荷をまとめ、番人のほうへ歩いていく。


「ありがとう。またね」


 慣れた言い方だった。


 番人は、動かなかった。


 エリシアが背を向けかけたとき、大きな腕が伸びた。苔と葉に覆われた腕に包まれて、エリシアの体がすっぽりと緑の中に埋まる。


「……どうしたの?」


 返事はなかった。番人は、エリシアを離さなかった。


 しばらくして、ゆっくりと腕が解かれた。エリシアは、小さく首を傾げただけだった。


「じゃあね」


 手を振って、歩き出す。


 振り返らなかった。


*


 樹海を出るまで、俺は一度だけ振り返った。


 大樹の下に、番人がまだ立っていた。こちらを向いたまま、動かなかった。顔はないから、どんな顔をしているのかも分からない。


 それでも、あれは別れのように見えた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。