第11話 夜の水場
山道を抜けたのは、翌日の昼過ぎだった。
谷あいに、石積みの家が斜面に貼りつくように並ぶ小さな町があった。北西部の、いちばん奥の集落だという。隊はそこで足を止めた。
町には周辺の被害の記録が集まっていた。この半年で家畜が消え、猟師が戻らず、山に入る者もいなくなったという。町の男が地図の上に示していく獣の出た場所は、俺たちが辿ってきた道とほぼ重なっていた。
「ここから北は、痕跡が途切れています」
「途切れる?」
上官が地図へ目を落とした。
「消えるんです。獣の通った跡が、ある地点から先、まったくない」
どこかから来ているはずなのに、その道が途中で消えている。
男は、思い出したように付け足した。
「そういえば、この二、三年、山が鳴ります」
「鳴る?」
「地の底で、何かが動いているような。井戸の水が揺れる日もある」
隊が静まった。
上官が、低く言った。
「……地下か」
*
俺は、地図の北の縁を見た。
「ロスト・ヴァンドラに、旧坑道の記録があります」
その場にいた全員がこちらを見た。
「地上では失われた坑道の図面が、あそこには残っている。滅んだ国が使っていたものです」
「なぜ、お前がそれを知っている」
「五年、住んでいましたから」
誰も、何も言わなかった。
「旧坑道の一部が、この山岳地帯まで伸びていると聞いたことがあります。確かめたわけじゃありません。ただ、地上に道がないなら、地下を調べる価値はあるかと」
上官は、しばらく地図を睨んでいた。
「その地下都市に、隊で入れるか?」
「それは無理です」
「あそこに法はありません。これだけの人数が武装して降りれば、それだけで戦になります」
「何人なら入れる」
「少ないほうがいい。俺一人なら、まず問題ありません」
「私が行く」
エリシアだった。
止めても一人で行く、という顔をしていた。
「一人でか」
「そのつもりだけど」
「案内がいるだろう」
エリシアが俺を見上げ、何か言いかけてやめた。
「……そうね」
上官は俺とエリシアを見比べた。
「分かった。二人で行け。こちらはここで待つ」
出発は、明朝と決まった。
*
その夜、エリシアは水場に佇んでいた。
喉が渇いているのかどうかは分からなかった。ただ、今日はいつもより体が重い。水を飲んでおいたほうがいいと思い、桶から一口飲んだ。
味はしない。昔、水がどんな味だったのかも、もう思い出せなかった。
*
俺はなかなか眠れなかった。あの戦いでエリシアが押さえていた脇腹のことが、頭から離れない。
諦めて外へ出ると、宿の裏の水場に人影があった。エリシアが水を汲み、口をつけている。
喉が渇いた人間の飲み方ではなかった。ただ、口に入れている。そんなふうに見えた。
「痛むのか」
声をかけると、エリシアは振り返らずに答えた。
「平気よ」
「今日も、脇腹を庇ってただろう」
「……あれくらいなら、すぐ治る」
いつもの答えだった。だが、今日は退けなかった。
「もっと人を頼れ。一人で全部やろうとするな。周りに誰もいないわけじゃないだろう」
エリシアの手が止まった。
「中途半端な覚悟なら降りろと、人には言うくせに。じゃあ、あんたはどうなんだ」
「……」
エリシアが一歩下がった。
「五年前もそうだった。勝手に一人で残って、俺たちだけ逃がして」
「……ガルフォード」
「今だってそうだ。治ってないくせに来て、人を庇って。それで、また平気だと言う」
もう一歩、エリシアが下がった。その背が水場の縁に触れて、そこで初めて、自分がどれだけ距離を詰めていたのかに気づいた。それでも、止まれなかった。
「俺たちには生きろって言うのに、なんであんたは、自分を数に入れないんだ」
両手で、その肩を掴んでいた。手の中に収まりそうなほど小さな肩だった。
エリシアは、俺の手を振り払わなかった。ただ、困ったように見上げている。やがて、静かに言った。
「私は、そういうふうにはできないから」
「できないんじゃない。しないだけだ」
「……ううん」
小さく首を振った。
「私には、ほかの生き方はないから」
そう言って、エリシアは視線を落とした。
言い訳にも、諦めにも聞こえなかった。この人は、自分が守られる側に回ることを、はじめから思いつきもしない。
何か言おうとして、言葉が出てこなかった。
しばらくして、エリシアがもう一度こちらを見た。
「だから、私に深く関わらなくていいのよ」
息が詰まった。
関わるな、ではなかった。関わらなくていい、だった。同じことなのかもしれない。だが、なぜか同じには聞こえなかった。
肩から、俺の手が滑り落ちた。
「……それは」
俺が決めることだ、と言いかけて、言えなかった。言ってしまえば、それが何なのか、自分でも認めなければならなくなる気がした。
エリシアは、少しだけ笑った。
「もう寝るね。明日、早いから」
桶に残った水に一度だけ目を落としてから、それを捨て、宿のほうへ戻っていった。
俺は、その場に立ち尽くした。
この五年、あの日の自分に戻らないために剣を振ってきた。強くなれば、何かが変わると思っていた。だが、今のエリシアの前では、それだけでは足りない。
――私には、ほかの生き方はないから。
あの言葉を、どうにかして否定したかった。
水場は、静かだった。




