第93章 死ぬ方が簡単だ
白光の奔流が、基底中枢(Root Nexus)の天蓋で渦を巻いていた。
百四万八千五百七十六本の世界線が、黄金と漆黒の二重螺旋を描いて一本に束ねられていく。天地を揺るがす轟音は次第に耳の奥へと沈み、水底から響く鼓動のような低周波振動へと変わっていた。
[CONSENSUS_MERGE: PRE-MIGRATION_SEQUENCE]
PHASE: STABILIZING_EQUILIBRIUM
TRAJECTORY: BR-078 -> BR-099
ANCHOR_SUBJECT: CHR-REN
TARGET_FIDELITY: 0.0031
TIME_REMAINING: 00:42:18
壇上に浮かぶ朱色の文字。最終コミットまで、あと四十二分。
アステルの自律システムが百四万本の差分を一本のアトラクターへ定着させるための、最後の同期猶予だった。
ガチリ、と硬い金属音が静寂を裂いた。
紅蓮の聖剣イグニスが、俺の右指から滑り落ち、白銀の床に転がったのだ。
「……レン様?」
リナの声が微かに震えた。
拾おうと手を伸ばしたが、指先が言うことを聞かない。まるで高圧電流を流し込まれた銅線のように、手首から先がガタガタと暴力的に跳ね、親指と人差し指が激しく打ち鳴らされていた。
「おい、相馬蓮」
セラが眉をひそめ、俺の右手を見つめた。
「どうしたのだ。魔力の反動か? それとも先ほどの合意励起の負荷か」
「違う……」
声を出そうとして、喉が酷く渇いていることに気づいた。舌の根が強張り、うまく回らない。
「違うんだ、セラさん。身体のどこも、壊れちゃいない……」
壊れていない。怪我をしたわけでも、魔導毒に侵されたわけでもない。
ただ――恐怖していた。
止めようとしても、震えは右腕を伝って肩へ、胸の奥へと駆け上がってきた。歯の根がカチカチと音を立てる。肺が縮み上がり、吸い込んだ空気が喉元で空回りする。
「レン様、手が……冷たすぎます……!」
駆け寄ってきたリナが俺の右手を取った。リナの両手は温かかったが、その温もりすら感じ取れないほど血の気が引いていた。
「……位相シナプスの切断前徴候だ」
背後で、オルドが低く重い声で言った。眼鏡の位置を直す手が痛ましいほどに固い。
「BR-099の境界アンカーとして自己を接続した瞬間から、彼の情報構造――魂と脳を繋ぐ位相インデックスの末端が剥離を始めている。肉体は無事でも、脳内の長期記憶のポインタが、次々に参照不能領域へと隔離されていくのだ」
「そんな……! まだ四十分以上もあるのに、もう始まっているのですか!?」
「全体収束のための予備同期だよ」
オルドは苦渋に満ちた表情で首を振った。
「百四万本の差分を一本に束ねる情報重力に耐えるため、彼という観測者の存在輪郭を、あらかじめ千分の三の質量にまで削ぎ落としておく必要がある。……冷酷な数理だ。だが、それなしには全人類を乗せた世界線が固定点へ届く前に空中分解してしまう」
「千分の三……」
俺は自分の震える指先を凝視した。
皮一枚隔てた向こう側で、二十数年間かけて組み上げてきた『相馬蓮』という人間が、砂のように崩れ落ちていく感覚があった。
「……死ぬ方が、簡単だったな」
掠れた呟きが、唇から零れ落ちていた。小さく、惨めな声だった。
「え……?」
リナが息を呑んだ。
「相馬蓮、貴様……何を言っている?」
セラの声音が鋭くなった。青い瞳が怒りと動揺に見開かれる。
「死ぬ方が簡単だと? 命を捨てる方が楽だったと、そう言うのか! 生きるためにここまで足掻いてきたお前が……!」
***
「そうだよ、セラさん!」
俺は叫んでいた。
胸の奥で堰き止められていた黒い濁流が、喉を破って溢れ出していた。
「死ぬなら……肉体が消えて命が終わるだけなら、覚悟なんていくらでもできた! あのラーナの礼拝堂で飛び出す時だって、魔導砲の直撃を引き受ける時だって、俺は一瞬も怖くなかった! 誰かを守って死ねるなら、そこで俺の物語は完結するからだ!」
壇上に、俺の悲鳴のような呼気が響き渡る。
「でも……これは違うだろ! 死ねないんだよ! 肉体だけが無傷で残って、心臓が動き続けて、明日も飯を食って生き続けるんだ! ……なのに、中身が全部消えてるんだぞ!?」
俺は膝から崩れ落ちた。冷たい白銀の床に両手をつき、荒い息を吐き出す。
「リナさん……俺があの世界で目を覚ました時、俺はあんたを見ても何も思わないんだ。『どなたですか?』って、赤の他人を見る目で首を傾げるんだよ! あんたが泣いてすがりついても、俺にはあんたが誰かも分からない! セラの顔を見ても、オルドの顔を見ても、ミラの顔を見ても……『見知らぬ人たち』でしかないんだ!」
涙が床に落ちて、パチリと弾けた。
「俺が死ねば、あんたたちは俺を覚えていてくれる。悼んで、墓の前で手を合わせて、俺がいたことを胸に残してくれる。……でも、これじゃ逆じゃないか! あんたたちが俺を覚えているのに、俺だけがあんたたちを忘れてるんだぞ!? 抜け殻になって、あんたたちの愛も痛みも何一つ受け取れない化け物になるんだ!」
「怖いんだよ……」
俺の喉から、子供のような呜咽が漏れた。
「怖い……消えたくない……! 俺を、俺のままでいさせてくれよ……! リナさんと笑い合ってきた日々も、セラと背中を預け合ってきた戦いも、オルドと解いた数式も……全部、俺の宝物だったんだ! それを全部消し去られて、知らない男の身体に魂だけ押し込められて生きるなんて……そんなの、死ぬより何百倍も恐ろしい悪夢じゃないか……っ!」
ずっと強がってきた。
「自分の記憶くらい、全員が助かるなら安いものだ」と英雄の仮面を被ってきた。
だが、その仮面の下にあったのは、ただの二十代前半の、どこにでもいる平凡な男の生身の肉塊だった。
死にたくないのではない。
自分という連続性を、自分が愛した世界を、完全に失ってしまうことが――耐え難いほど恐ろしかった。
静寂がドームを満たしていた。
リナが両手で口を押さえ、ボロボロと涙を流している。セラが唇を血が滲むほど噛み締め、オルドは眼鏡を外して天井を仰いでいた。誰も、俺の言葉を否定できなかった。
***
「……ざまあねえな、相馬蓮」
冷ややかな足音が、俺の正面で止まった。
折れた漆黒聖剣を引きずりながら、Echoが俺の目の前に立っていた。
「Echo……」
顔を上げると、Echoの漆黒の双眸が俺を見下ろしていた。
「やっと吐いたな、本音をよ」
Echoは腰を落とし、俺と目線を合わせた。
「ずっと気持ち悪かったんだよ。お前のその『死者ゼロの英雄様』の顔がな。どれだけ世界線を捨てても、涼しい顔をして『安い代償だ』なんて言いやがって。……虫唾が走る偽善者野郎だと思ってたぜ」
「……ああ。偽善者だよ」
俺は掠れた声で言った。
「俺は、ただの臆病者だ……」
「当たり前だろ」
Echoが吐き捨てるように言った。
「死ぬ方が簡単なんだよ。誰だってそうだ。痛みも恐怖も、死ねば一瞬で無に帰す。……だが、自己連続性の消滅は違う。お前という観測器のレンズが砕かれ、過去と現在を結ぶ因果が叩き切られるんだ。自分が誰かも分からず、ただ心臓の鼓動だけが続く地獄だ。……お前が今感じている恐怖はな、何千、何万回と切り捨てられて底に沈んだ俺たち相馬蓮が、毎秒味わってきた絶望そのものなんだよ」
Echoの言葉が、胸の奥を激しく貫いた。
この男は、世界線の底に置き去りにされ、存在を切り刻まれる恐怖を、文字通り何百万回も味わってきたのだ。
「俺たちにはな、選ぶ権利すら与えられなかった」
Echoは漆黒聖剣の柄を強く握りしめた。
「お前が特権を使って次の世界線へ跳ぶたびに、残された俺たちは、世界の崩壊と記憶の蒸発の中で無力に消えていったんだ。『俺を消さないでくれ』って叫びながらな。……それに比べりゃ、お前にはまだ四十分もある。自分でこの結末を選び取る猶予があるんだ」
「Echo……お前は、怖くなかったのか……?」
「怖いに決まってんだろ!」
Echoが怒鳴りつけた。
「死にたくなかった! 消えたくなかった! 母ちゃんの名前を忘れたくなかったし、日本の街の明かりを忘れたくなかった! リナを救えなかった悔しさも、全部俺の人生だったんだ! それをゴミ箱に放り込まれるのが怖くて悔しくてたまらなかったから……俺は残差層の底から、お前を睨み続けてきたんだよ!」
Echoの目から、黒銀の光粒が激しく零れ落ちた。
全世界線の相馬蓮たちが流し続けてきた、存在を奪われる恐怖の涙だった。
「でもな、相馬蓮」
Echoは荒く息をつき、その煤けた右手を、俺の震える右腕に叩きつけるように掴んだ。
「お前が今、その恐怖に泣いてくれて……俺は、少しだけ救われたよ」
「え……?」
「お前が平気な顔で『千分の三なんて安い』って言ってたら、俺は今度こそお前を叩き斬ってた。……お前がちゃんと怖がって、泣いて、自分の命の重さに震えてくれたから……俺たち死んだ相馬蓮の無念も、ただの安売りじゃなかったって思えるんだ」
Echoの手から、生々しい熱が伝わってきた。数え切れない死線を超えてきた、もう一人の自分の体温。
「怖いのは当然だ。お前は生きている人間なんだからな。……だから、震えろ。泣け。恐怖を誤魔化すな。その恐怖ごと、あの世界へ持っていけ」
***
「レン様」
柔らかな気配が寄り添った。リナだった。
リナは俺の冷え切った左手を両手で包み込み、自分の胸へと引き寄せた。鼓動が確かに伝わってくる。
「レン様が化け物になるなんて、絶対に言わせません」
リナの瞳には涙が溢れていたが、声には一切の揺らぎがなかった。
「レン様が私の名前を忘れても、私がレン様の名前を呼びます。レン様が私を覚えていなくても、私がレン様を好きだった理由を、毎日話し聞かせます。レン様が『どなたですか』と聞いたら、私は胸を張って答えます。『あなたの命の証拠の人です』って」
「リナさん……」
「忘れてもいいんです。怖がってもいいんです。レン様が空っぽになってしまったら、私たちが、新しい思い出をいっぱい詰め込みます。……だから、自分を責めないでください。怖いと言ってくれて、本当に……嬉しかったんです」
リナの額が、俺の左手にそっと触れた。
氷のように冷え切っていた神経に、熱い血液が再び巡り始めるのが分かった。
「相馬蓮」
セラが歩み寄り、俺の肩を力強く掴んだ。
「武人が死を恐れぬというのは嘘だ。だが、己の存在が消滅する恐怖は……それ以上に魂を削るものだ。貴様がそれを吐露したことを、恥じる必要などどこにもない」
セラの凛とした声が響く。
「貴様はこれまで、我々のために一人でその恐怖を背負い続けてきたのだな。……すまなかった。貴様の強がりに甘えていた私の不明を恥じる。貴様が震えるなら、我々がその手を支える。貴様が忘れるなら、我々がその記憶の盾となる。……貴様を絶対に、一人きりの闇の中に置き去りにはさせん」
「うん」
ミラが進み出て、銀の髪を揺らした。指先から伸びる光の糸が、全員の胸を淡く結びつけていた。
「私の糸はね、形のある記憶じゃなくて、心と心の『結び目』を繋いでるの。言葉や過去が消えても、この結び目だけは絶対に消えない。レンがどれだけ遠くへ行っても、迷子にはさせないよ」
仲間たちの温もりが、四方から俺を包み込んでいた。
震えは、まだ完全には止まっていなかった。だが――冷たい絶望の震えでは、もうなかった。
生身の弱さを晒し、受け止められたことで、凍てついた心が静かに解き放たれていた。
「……オルド殿」
セラが、コンソールの前に立つ学者を振り返った。
「本当に、これ以外の道はないのか。相馬蓮の同一性を完全保存したまま、全員が救われる解は……絶対に存在しないのか?」
オルドは眼鏡を掛け直し、白銀のコンソールに両手を置いた。
その双眸に、学究としての冷徹さと、教え子を救わんとする狂おしいまでの執念が宿っていた。
「……四十二億のシミュレーションにおいて、固定点はBR-099ただ一つだった。それは揺るぎない数理的帰結だ」
オルドの指が、コンソールのキーを高速で叩き始めた。
「だが……アンカー固定の同期猶予は、まだ三十八分残されている。相馬蓮の存在位相を消費する境界条件の関数に、わずかでもパラメータの自由度が残されていないか……私は、最後まで走査をやめん」
「オルド……」
「小僧」
オルドは画面から目を離さずに、鋭く言った。
「泣いて震えるのは結構だ。だが、絶望して思考を止めるな。お前はエンジニアだろう? システムの仕様書に殺されそうになった時、プログラマーがやるべきことはただ一つだ」
オルドの口元に、不敵な笑みが浮かんだ。
「コードの裏を掻け。境界条件の極限に、神の想定外の隙間をこじ開けるんだ。……全員救済かつ自己無傷の解が存在しないというなら、なぜそれが存在し得ないのか、その数理の壁の正体を完全に白日の下に晒してやる!」
[SIMULATION_OVERRIDE: INITIATED]
TARGET: BOUNDARY_CONDITION_PARADOX
QUERY: ZERO_SACRIFICE_EQUILIBRIUM
TIME_REMAINING: 00:37:45
CURRENT_STATUS: SCANNING ALL AMPLITUDE PLANES...
壇上に、再び演算ログの光の奔流が立ち上がった。
恐怖は消えない。
だが、胸の中には、震えの底から湧き上がるもう一つの熱い感情があった。 逃げるのではない。仲間たちと共に、この世界の理不尽な境界線と、最後の最後まで戦い抜くという覚悟だった。
「……ああ」
俺は床に落ちていた聖剣イグニスを拾い上げ、強く握りしめた。
「やってやろうぜ、オルド先生」
理不尽な神の仕様書を覆すための、最後の足掻きが――今、激しく幕を開けようとしていた。




