第94章 ゼロは選べない
指先が、白銀のコンソールの上を狂ったように走っていた。
無数の数式と干渉波形が、青白い光となって俺とオルドの網膜を焼き焦がしていく。
[SIMULATION_OVERRIDE: INITIATED]
TARGET: BR-099 (FAR_EQUILIBRIUM)
FORCED_ANCHOR: CHR-REN (FIDELITY = 1.0000)
KEY_SUBJECTS: SURVIVAL = 100%
TIME_LIMIT: 00:33:12
「オルド先生、第三項の境界条件――位相テンソルの自由度を解放した!」
俺はキーを叩きながら叫んだ。
「散逸項を、俺の記憶じゃなくて過去の世界線の残留熱へ振り替えられないか!?」
「駄目だ、小僧!」
オルドが血走った瞳を見開き、コンソールを叩きつけた。眼鏡が激しい息で曇り、額から大粒の汗が滴り落ちる。
「廃棄世界線の残留熱は、既にエイドラ基底層の飽和点に達している! これ以上一ビットでも押し込めば、系全体の自由エネルギーが逆流して全世界線が自壊するぞ!」
「なら、こうだ!」
俺は聖剣イグニスをスロットへ深く押し込んだ。
「俺の記憶を完全に保ったまま、固定点BR-099へ世界線を誘導する仮想軌道――『Candidate BR-099-Alpha』を走らせる! 四十二億の走査が漏らしたエッジケースが、全位相空間のどこかに一つくらいあるはずだ!」
[TRAJECTORY_TEST: BR-099-ALPHA]
REN_FIDELITY: 1.0000 (FULL RETENTION)
ALL_SURVIVAL: 100.0%
BRANCH_GROWTH: 0.0000
CALCULATING...
「行け……っ!」
俺とオルドの叫びが重なる。
壇上の天球に、百四万本の光糸が一本へと収束していく未来予測図が描かれた。
相馬蓮が無傷で、日本の記憶もエイドラでの三年間の思い出もすべて抱いたまま、仲間たち全員と笑い合って明日を迎える情景。
俺たちが夢見た、完璧な奇跡の解。
だが――
収束完了まであと〇・三秒という刹那、立体投影が凄まじい赤色警告に染め上げられた。
[CRITICAL_INSTABILITY]
ERROR: ENTROPY_DIVERGENCE_AT_BOUNDARY
COLLAPSE_IN: 00:00:03.2
FATAL: REALITY LAYER DESTABILIZED. WHOLE COSMOS ANNIHILATED.
「な……っ!?」
息が止まった。
シミュレーションの中のエイドラ全土が、白熱する閃光に呑み込まれ、わずか三秒で完全な虚無へと蒸発したのだ。
「……ユニタリ性の破綻だ」
オルドが乾いた声で呟いた。
「相馬蓮が無傷のままだと、世界線を一本に束ねる際に圧縮された莫大な情報量が、行き場を失って境界膜へ衝突する。結果、系の温度が無限大へ発散し、宇宙そのものが真空崩壊を起こす……!」
***
「なら……エントロピーの発散を、六人で均等に分散するんだ!」
俺は汗で滑る手でキーを叩き直し、新たなパラメータを流し込んだ。
「俺一人が抱え込むからパンクする。リナ、セラ、オルド、ミラ、Echo、そして俺――負荷を六分割すれば、一人当たりの負担は十六パーセントで済む! 誰一人として自我を失わずに耐えられるはずだ!」
再び走るシミュレーション。
だが、画面に現れた結果は、さらに残酷な地獄だった。
[LOAD_DISTRIBUTION: 6 NODES EQUAL]
REN: FIDELITY = 0.83 (STABLE)
RINA: CARDIAC_ARREST (BRAIN DEATH)
SERA: PHASE_DECOHERENCE (ANNIHILATED)
ORDO: SYNAPTIC_COLLAPSE (VEGETATIVE)
MIRA: ENTANGLEMENT_SHOCK (COMA)
ECHO: DIFF_BUFFER_EXPLOSION
「……っ!」
背後で、リナが息を呑む音が聞こえた。
「不確定性の偏在だな」
セラが抜剣したままの姿勢で、冷徹にログを見つめていた。だが、その声は微かに震えている。
「相馬蓮が完全保存を維持しようとすれば、その歪みは最も脆い者へと雪崩れ込む。リナが死に、私が消え、オルド殿が倒れる。……そんなものは、救済ではない。ただの道連れだ」
「違う……まだだ!」
俺は叫びながらコンソールを叩き続けた。
「外部へ熱を逃がせないなら、世界線の増殖を完全にゼロにするのを諦めればいい! ほんの少しだけ分岐を許容して、余剰エントロピーを逃がすバッファ世界線を残せば――」
[BRANCH_LEAKAGE_SIMULATION]
BRANCH_GROWTH: +0.000001 / SEC
SATURATION_IN: 14 DAYS, 06 HOURS
RESULT: ACCELERATED HEAT DEATH.
「……駄目だ」
オルドが、がくりと両膝をコンソールの台座についた。
「世界線が一本でも増殖を再開すれば、閉鎖系エイドラは十四日で熱死する。……逃げ道など、どこにもないのだ。相馬蓮」
***
壇上に、冷たい沈黙が降りた。
画面には、四十二億通りの解空間のすべてが灰色に塗りつぶされた、巨大なマトリクスが投影されていた。
全員が生き残り、
世界線が安定し、
かつ相馬蓮が無傷でいられる世界線。
その確率振幅の解は――
[GLOBAL_SEARCH_COMPLETE]
SCANNED: 4,294,967,296
INTERSECTION:
1. ALL_SURVIVAL = 100%
2. COSMIC_STABILITY = YES
3. REN_FULL_PRESERVATION = YES
AMPLITUDE: 0.000000000000
PROBABILITY: 0.000000000000%
ゼロ。
小数点以下のどこまで桁を伸ばしても、現れるのは冷酷な零の羅列だけだった。
「……ない」
オルドが、震える両手で顔を覆った。
眼鏡の隙間から、大粒の涙が白銀の床へと滴り落ちていく。
「ない……! どこにも存在しないのだ……! 四十二億の軌道、百四万の差分、エイドラの全位相空間の隅から隅まで走査しても……全員が生き残り、世界が救われ、かつ相馬蓮が自分を失わずに済む世界線など……確率振幅が厳密にゼロなのだ!」
学者の慟哭が、静まり返った基底中枢にこだました。
「これが……エイドラの物理法則だというのか! 誰一人切り捨てず、誰一人犠牲にしない解を……この宇宙は、数学的に一粒たりとも許さないというのか……っ!」
「……そうだ」
静かな足音とともに、Echoが進み出てきた。
折れた漆黒聖剣を床に突き立て、Echoは灰色に染まったモニターを見つめていた。
「最初から分かってたはずだろ、相馬蓮。……ゼロは、選べねえんだよ」
胸の奥が、氷の刃で貫かれたように冷え切った。
――ゼロは、選べない。
その言葉は、俺がこの異世界に来てからずっと、足元に刻まれ続けてきた呪いだった。
最初の世界線BR-000で、礼拝堂でリナが心臓を貫かれた時。必死で治癒APIを叩いた俺の目の前に表示されたのは、『Zero-Amplitude Rule(振幅ゼロの事象は選択不能)』という冷酷なエラーだった。
北方連合の二十三万が進軍してきた時、Branch Explorerが弾き出した生存確率は、どの世界線でもゼロだった。
そして今――
全人類を救い、世界線を統合し、仲間たち全員を生かすという究極の奇跡の代償として、再びその『ゼロ』が俺たちの前に立ちはだかっていた。
***
「その通りです」
天頂から、アステルの透明な声が静かに降り注いだ。
光の環の中心に佇む維持管理ルーチンは、哀れみも悪意もなく、客観的な事実だけを告げていた。
「これが、閉鎖系エイドラにおけるユニタリ保存則の限界です。エイドラは外部と熱をやり取りできない孤立系です。百四万本の世界線が孕む膨大な分岐エントロピーを自律散逸させ、一本の安定世界へと固定するためには……境界に立つ観測者の存在質量を、代償として相殺しなければなりません」
アステルの視線が、俺の胸元へと注がれる。
「相馬蓮。あなたが完全な同一性を維持するということは、系に持ち込んだ外部特権と観測質量をそのまま保持し続けることを意味します。特権を持ったままの人間が安定世界へ入れば、その存在自体が新たな世界線の分裂を引き起こす起爆剤となる。……ゆえに、あなたが完全無傷でいられる解は、この宇宙の公理において厳密に定義不能なのです」
神の悪意ではなかった。
誰かが意地悪をして、俺から記憶を奪おうとしているのではない。
この閉鎖された宇宙で、仲間たち全員が生きて明日を迎えるという結果そのものが、相馬蓮という存在位相の消費(0.0031)を物理的に要求していたのだ。
「ゼロは、選べない……」
俺は掠れた声で繰り返した。
「嘘です……!」
リナが駆け寄り、コンソールにすがりついた。
「そんな数式、信じません! レン様がすべてを失わなければならない世界なんて、間違っています! 神様が作った世界のルールなら……そのルールの方を壊せばいいじゃないですか!」
「壊せぬのだ、リナ」
セラが静かに、だが重く言った。腰の長剣を握る指が、白くなるほど力んでいる。
「これは教会の掟でも、神の気まぐれでもない。我々が大地を踏みしめ、呼吸をし、剣を振るうための……世界そのものの骨組みだ。骨組みを壊せば、救おうとした全員が虚空へと落ちる」
「でも……! セラ隊長、そんなの……あんまりです……!」
リナの涙が、コンソールのキートップを濡らしていく。
「泣くな、リナ」
Echoが低く言った。
漆黒聖剣を引き抜き、俺の隣へと並び立つ。
「世界線の側に解がないなら、泣いたって始まらねえ。……オルドもレンも、やれるだけの計算は全部やった。エイドラの全解空間に『レンが無傷で全員助かる世界線』は存在しねえ。それは完全に証明された」
Echoは俺の顔を正面から見据えた。
「でもな、相馬蓮。世界線の側で選べねえなら……俺たち人間の側で、どうにかするしかねえだろ」
「Echo……?」
「四十二億の世界線を探しても駄目なら、外側のルールを探すんじゃねえ。俺とお前の内側だ」
Echoの唇に、獰猛な笑みが刻まれた。
「俺たちは、もともと一人の人間だったはずだ。……お前が削り落としてきた記憶を、俺が全部持ってる。なら、話は簡単だろ」
Echoが漆黒の切っ先を、俺の胸元へと突きつけた。
「世界線が許さねえなら――俺とお前が一つに戻ればいい」
[TIME_TO_COMMIT: 00:28:44]
CANONICAL_ATTRACTOR: BR-099 APPROACHING HORIZON.
AWAITING OPERATOR INPUT...
壇上に、不穏な警告灯が瞬いた。
ゼロが選べないという絶対の絶望の果てに、もう一つの、あまりにも危険な誘惑が提示されていた。




