第9章 静定騎士
街道での魔獣討伐演習を無事に終え、演習場の中央テントで冷たい果実水を飲みながら一息ついていた時のことだった。
「勇者殿、聖剣の見事な太刀筋、改めて感服いたしました」
ガウェイン卿が革手袋を外し、湯気の立つ汗を拭いながら爽やかに笑いかけてくる。
「魔導院の机上の理論など知らぬ我ら武官にとっても、あの無駄のない一閃はまさに達人の領域。これならば、来たるべき北方への遠征でも騎士団一同、背中を安心してお預けできます」
「ありがとうございます。でも、剣の性能に助けられた部分が大きいですから」
「ご謙遜を。あの重厚なブラッドボアの突進を前に、眉一つ動かさぬ胆力こそが真の器というもの。……もっとも、王国内にはその聖剣の威光すら快く思わぬ者たちもおりますがな」
「快く思わない?」
「ええ。王家直属の特務部隊『静定騎士団』……あやつらは教会や魔導院が誇る魔術を『現実逃避のまやかし』と断じ、自らの現実固定の力のみを信奉する異端の戦闘集団でしてな。特に若き隊長は、血気盛んで並外れた剣技の持ち主……」
ガウェインが苦笑交じりに語り終えるかどうかの、まさにその瞬間だった。
ドッ、ドッ、ドッ、と鋭い蹄の音が大平原の風を切り裂いて響き渡り、もうもうたる土煙を巻き上げながら一頭の漆黒の軍馬が演習場へと猛然と疾走してきた。
馬上にいたのは、燃えるような鮮烈な赤髪を高い位置でポニーテールに束ねた、一人の少女騎士だった。
年の頃は二十歳前後。深紅と漆黒を基調とした機能的な軽装鎧を身に纏い、背中には短い深紅のマントを風になびかせている。腰には装飾を極限まで削ぎ落とした無骨な長剣を佩き、その姿勢には一片の乱れもない。
「ぜ、全軍敬礼……ッ! セラ隊長のお着きだ!」
ガウェイン卿が血相を変えて立ち上がり、周囲の近衛騎士たちも一斉に胸の前で右手を握りしめて直立不動の敬礼をとった。
歴戦の猛者である近衛隊長たちが、自分より遥かに若い少女に対して、恐れと敬意の入り混じった表情で身を固くしている。
「あの方は……?」
俺が小声で尋ねると、リナが淡い亜麻色の髪を揺らしながら、緊張で琥珀色の瞳を丸くして囁き返してきた。
「セラ・ヴァーミリオン様です……! 先ほどガウェイン様が仰っていた『静定騎士団』の最年少隊長にして、王国最強の剣士の一角……。魔導院の魔法使いすら恐れる、あらゆる超常現象を力づくで無効化する異端の剣技をお使いになる方です」
黒馬がテントの目の前でピタリと静止し、少女騎士――セラが軽やかに地面へと飛び降りた。
しなやかで無駄のない、研ぎ澄まされた肉食獣のような身のこなし。
彼女は革の手袋を外しながら大股でこちらへと歩み寄り、勝気な光を宿した強い翠眼で、俺の顔を正面から射抜くように見据えた。
「ガウェイン。報告は聞いたぞ。新任の異界勇者が、初陣でブラッドボアを一撃で蒸発させたとかな」
セラは鈴を転がすような凛とした美声で言ったが、その眼差しには氷のように冷ややかな警戒が漂っていた。
「随分と教会と魔導院の連中が浮かれ立っているようだが……お前が、相馬蓮か?」
「ええ、そうですけど。君は……セラさん、だっけ?」
「『君』だと?」
セラは整った眉をクイと吊り上げ、不敵に口元を歪めた。
「不敬罪で首を刎ねてやってもいいが、異界の礼儀知らずに教条を説く気はない。単刀直入に言おう、勇者。私は教会のおめでたい奇跡信仰も、魔導院の連中の机上の空論も端から信用していない。お前が本当にこの国を背負うに足る戦士なのか、それともチート紛いの派手な魔法に溺れた張り子の虎なのか……私の剣で見極めてやる」
「セラ隊長、いくらなんでも勇者様に対して無礼が過ぎます!」
リナが法衣の裾を握りしめ、必死に割って入ろうとする。だが、セラは片手を軽く挙げてそれを制した。
「リナ神官、下がっていろ。血が流れる実戦の戦場に、教会の甘っちょろい祝詞は通用しない。……どうだ、相馬蓮? 木剣での手合わせだ。受けて立つ度胸はあるか?」
挑発的なエメラルドの瞳。
だが、その奥にあるのは単なる傲慢さではなく、この国の防衛を最前線で背負う者としての、切実なまでの危機感だった。
「……いいですよ。受けて立ちます」
俺は立ち上がり、ガウェインから差し出された訓練用の樫の木剣を受け取った。
***
演習場の中央、頑丈な防護結界で囲まれた直径三十メートルの円形闘技場。
周囲では近衛騎士たちとリナが、息を呑んで戦況を見守っている。
「ルールは簡単だ。相手の急所に寸止めを決めるか、参ったを言わせた方の勝ち。魔法の使用は自由だが、死なない程度に手加減しろよ」
セラが木剣を中段に構えた。
構えに一切の隙がない。重心が低く、足元の土を踏みしめる太ももの筋肉がバネのように引き締まっている。
「では――始め!」
ガウェインの張り詰めた号令が響いた。
瞬間、セラの姿が掻き消えた。
速い。
初速からトップスピードに乗ったセラが、地を滑るような鋭いステップで一瞬にして間合いを詰めてくる。
ヒュンッ!と空気を切り裂く鋭い刺突が、俺の喉元へと一直線に繰り出された。
だが――。
(見えている)
俺の視界には、聖剣の時と同じく、セラの踏み込みの力学ベクトルと空気の熱揺らぎの干渉縞が、スローモーションの確率予測線としてリアルタイムで投影されていた。
どこに剣が通り、どこに体重が乗り、どの角度で切先が到達するのかが、放たれる前から手に取るように分かる。
俺は首をわずか数センチ傾けて刺突を紙一重で躱し、セラの木剣の腹を自分の木剣で軽く払った。
「なっ……!?」 セラが目を見張る。
連撃が繰り出される。目にも留まらぬ袈裟斬り、低空からの足払い、巻き込みからの鋭い逆風。木剣と木剣が激しく打ち合わさり、乾いた硬質な打撃音が連続して演習場に木霊する。
どれも達人級の苛烈な太刀筋だったが、俺は最小限のステップと最小限のパリィでそのすべてを軽くいなした。さらに、指先にほんのわずかだけ熱干渉の魔力を込め、セラの足元の空気抵抗を局所的に増やしてバランスを崩しにかかる。
「くっ……! 動きを完全に先読みされている……!?」
セラが素早くバックステップで飛び退き、荒い息を整えながら悔しそうに歯を鳴らした。
「なるほどな……大口を叩くだけのことはある。ただの腰抜けじゃないようだ」
「セラさんもすごいですよ。予測線が見えてなきゃ、最初の一撃で喉を突かれてました」
「減らず口を叩くな!」
セラは不敵に笑うと、木剣を両手で強く握り直し、切先を地面へと突き立てた。
「認めてやるよ、お前の魔法とやらが本物だということはな。……だが、どれだけ強大な奇跡だろうと、『現実』に抗うことなどできはしないのだということを、教えてやる!」
セラの翠眼が、冷酷なまでに研ぎ澄まされた光を放った。
「――静定領域、展開」
その瞬間だった。
ゴォォォォ……ッ!
セラの足元を中心に、幾何学的な深紅の魔方陣――いや、直交する格子状のグリッド線のような光の網が、演習場の地面一帯に猛烈な速度で展開された。
空気が、一変した。
(な……んだ、これ……!?)
俺は息を呑んだ。 昨日、王都の市場通りで感じたような「観測者の多さによる空間の重さ」ではない。 もっと暴力的で、冷徹で、絶対的な感覚。
俺の周囲に広がっていた「熱揺らぎの確率波」や「可能性の重ね合わせ」が、セラの展開したグリッドに触れた瞬間、まるで氷点下百度の液体窒素を浴びせられたかのように、一瞬にしてたった一つの確定状態へと力づくで凍結されたのだ。
「『火球』……っ!」
俺は咄嗟に左手を前に突き出し、牽制の火炎を放とうとした。
だが――。
プシュッ……。
火花すら出なかった。
音もなく、煙すら立たず、俺がこじ開けようとした「熱の偏在という可能性の余地」が、セラの領域によって完全にゼロへと押し潰され、プロセスごと強制終了されたのだ。
「無駄だ」
声が聞こえた瞬間には、すでにセラが目の前に踏み込んでいた。
確率予測線が出ない。
空間の揺らぎが完全に静止しているため、未来の予測演算そのものが成立しないのだ。
ザッ……!
セラの木剣の切先が、寸分の狂いもなく、俺の喉仏の皮膚にピタリと押し当てられていた。
「…………そこまで!」
ガウェインの張り詰めた声が響き渡った。
「……私の勝ちだ、勇者」
セラが木剣を突きつけたまま、勝ち誇ったように微笑んだ。 その額にはうっすらと汗が滲んでいたが、エメラルドの瞳は爛々と輝いている。
「……参りました。一本取られましたね」
俺は両手を上げて苦笑した。
木剣を引いたセラは、フッと息を吐いて肩の力を抜いた。
演習場を覆っていた深紅のグリッド線が、霧のように静かに消えていく。
「セラ隊長! レン様! お二人ともご無事ですか!?」
リナが真っ青な顔で駆け寄り、冷たい水と清潔な布タオルを差し出してくれた。
「ああ、怪我はないよ、リナさん。ありがとう」
俺はタオルで汗を拭いながら、木剣を納めたセラを見つめた。
「……セラさん、今の技、一体何をしたんだ? 魔法を魔力で相殺した……というより、空間そのものを『確定』させて、余地を消し去ったように感じたんだけど」
俺の言葉に、セラは水を飲み干しながら、驚いたように翠眼を大きく見開いた。
「……お前、今の技の本質に自力で気づいたのか?」
セラは木剣をガウェインに預け、腕を組んで俺をまじまじと見つめた。
「私の静定術は、魔力で魔法を打ち消すような生温い盾ではない。術者の強靭な観測意志によって、空間のエントロピーを強制的に固定し、『改変の余地を絶対に許さない確固たる現実(Static Archive)』として空間を記録・固定する技術だ」
(やっぱりそうだ……!)
俺は背筋に心地よい戦慄を覚えた。
オルドが言っていた「現実の固定圧」。
セラは自らの意志と鍛錬によって、その固定圧を人為的に無限大まで引き上げ、空間のコヒーレンスを強制的に破壊(Decoherence)してみせたのだ。
「魔法使いどもは奇跡の力に溺れて現実を軽視する。だが、どれだけ世界が乱れようと、この大地に刻まれた確固たる現実の記録だけは、誰にも書き換えることはできん」
セラはそう言って、自らの胸の軽装鎧を拳でトンと叩いた。
「相馬蓮。私の初撃を完全に躱し、静定領域の中でも取り乱さずに構造を見抜いた奴は、お前が初めてだ。……張り子の虎などと呼んで悪かったな」
セラは不敵にニカッと笑い、右手を差し出してきた。
「王家特務・静定騎士団隊長、セラ・ヴァーミリオンだ。お前のその異質な視線……これからの魔王軍との戦いで、大いに頼りにさせてもらうぞ、勇者」
「こちらこそ。よろしく、セラ」
差し出された手袋越しに、しっかりと握手を交わす。
力強く、温かい手のひらの感触。
「よし! それじゃあ私は王城へ報告に戻る。遠征の準備ができたら声をかけろ。いつでも背中を守ってやる」
セラは颯爽と愛馬に飛び乗り、手綱を引いて大平原の彼方へと駆け去っていった。その深紅のマントが、夕陽を浴びて誇らしげにたなびいている。
「……すごい方ですね」
リナが感嘆混じりに呟いた。
「ああ。本当に頼もしいよ」
チート魔法を力づくで止める「現実の固定者」。
この頼もしくも手強い少女騎士の加入が、これから始まる過酷な旅の、何より確かな錨になることを、俺は確信していた。




