第8章 聖剣の利用規約
王都ルクシアの巨大な北門をくぐり抜けた瞬間、肌を撫でる風の感触が劇的に変わった。
目の前に広がっていたのは、見渡す限りの緑の絨毯――緩やかに波打つ大平原と、その遥か彼方にそびえ立つ雄大なシルヴァリス山脈の白銀の峰々。見上げる空には、遮るもののない抜けるような蒼穹が広がり、二つの太陽が澄み切った黄金の陽光を惜しみなく降り注いでいる。
何十万人もの視線と白亜の巨大建築に囲まれていた王都の息苦しさが、城壁を一歩出ただけで嘘のように霧散していく。
「気持ちいいな……! こんなに空が広い場所、東京じゃ絶対にお目にかかれないよ」
「ふふ、喜んでいただけて何よりです、レン様」
隣を歩くリナが、軽やかな足取りで微笑んだ。風に揺れる淡い亜麻色の髪を手で優しく押さえながら、遠くの演習林を指差す。
「王都の外は人の視線が少なく空気が澄んでおりますので、魔力の巡りもずっと素直なんです。本日の演習林までは馬車で半刻ほどですが、レン様のお体の調子を整えるためにも、少し街道を歩いて向かいましょう」
街道沿いには、護衛の傭兵を雇った商人の馬車や、聖地ルクシアを目指す巡礼者たちの列が点々と続いていた。彼らはみな一様に警戒した面持ちで周囲の草原や茂みに目を配っている。王都の城壁を一歩出れば、そこは弱肉強食の魔獣たちが跋扈する危険地帯なのだ。
「古文書によれば、かつて第二代勇者様はこの街道で数百頭もの狂乱魔獣に囲まれながら、聖剣一振りで荒野を紅蓮の炎に染め上げ、一人の犠牲者も出さずに巡礼団を救われたのだそうです」
リナが誇らしげに語る。
「その奇跡の炎は三日三晩消えることなく、邪悪な瘴気を浄化し続けたと……教会の子供たちは皆、その英雄譚を聞いて育つんですよ」
「数百頭を一撃、か……。確かにこの剣のスペックなら、それくらいの熱干渉は可能かもしれないな」
俺たちの周囲には、銀色に輝く精緻なプレートアーマーを纏った五名の近衛騎士が、抜かりのない足取りで護衛についていた。
隊長を務めるのは、引き締まった体躯と整えられた顎髭が精悍な三十代半ばの騎士、ガウェイン卿だ。王室直属の近衛騎士団で副団長を務める手練れである。
「勇者殿、本日帯刀されておりますのは、先ほど大聖具収蔵庫より賜った『灼熱の聖剣イグニス』でございますな」
ガウェインが、俺の腰に佩かれた豪奢な片手剣を見つめながら、憧憬の混ざった声音で話しかけてきた。
「ええ。大司教様から、実戦での使い心地を確かめてみてほしいと言われましてね」
「おお……! 初代および第二代の勇者様が佩刀され、数多の魔獣を灰燼に帰したと伝わる伝説の宝剣……。我ら騎士にとっても、まさに一生に一度拝めるかどうかの至宝でございます」
ガウェインは熱っぽい視線を剣の鞘に注ぎ、尊敬の眼差しを隠そうともしない。そして、少年のように目を輝かせながら、遠慮がちに言葉を続けた。
「……もし、差し支えなければでございますが。その聖剣、我らのような俗骨の騎士が抜いたとて、いかなる反応を示すものか……一度、手にとらせていただくことは叶いませぬでしょうか? 騎士の端くれとして、伝説の聖具の重みをこの手で味わってみたく存じまして」
「え? ああ、全然いいですよ。減るもんじゃないですし」
「め、滅相もございません、感謝の極みに存じます!」
ガウェインは恐縮しながら革手袋を脱ぎ、両手で恭しく聖剣の柄へと指を伸ばした。
歴戦の近衛騎士だ。その剣技と筋力は王国内でも指折りの実力者である。
ガウェインが深呼吸をし、下腹に気合を込めて鞘から剣をゆっくりと引き抜いた。
ジャキン……。
冷たい金属音が響き、白銀の刀身が陽光の下に現れた。
刀身の鍔元には、息を呑むほど美しい大粒の真紅のルビーが嵌め込まれている。
だが――。
「…………む?」
ガウェインが怪訝そうに首を傾げた。
何も起きない。
昨日、俺が収蔵庫で手を触れた時に散った鮮やかな火花も、刀身から立ち上る心地よい熱気も、一切現れなかった。
それどころか、ガウェインの分厚い腕がプルプルと小刻みに震え始めた。まるで、ただの片手剣のはずの刀身が、何十キロもの鉛の塊にでも変化してしまったかのように、切先が地面へと重く沈んでいく。
「ぐ……ぬ……っ!? お、重い……! 自身の魔力をいくら流し込もうとしても、柄の奥で完全にせき止められ……ただの冷たい鉄の塊にしか感じられませぬ……!」
「私も触れてみてよろしいでしょうか?」
リナがおずおずと手を伸ばし、ガウェインが掲げる剣の柄にそっと触れた。
だが、やはりルビーは沈黙したままで、微かな温もりすら宿らない。
「だめです……。私の『小光球』や『下級治癒』の魔力を込めてみても、まるで分厚い鉛の絶縁体に弾かれるようにすり抜けてしまいます」
「やはりか……!」
ガウェインは感嘆の溜息をつき、剣を鞘へと戻して俺に両手で返還した。
「聖剣には高潔な意思が宿ると伝承にございますが、真実であったとは。我が未熟な魂など、主と認めるに値せぬと門前払いを食らったわけですな。いやはや、身の程を知りました」
「意思……ねえ」
俺は苦笑しながら、柄を右手で握り直した。
その瞬間――。
カチリ。
頭の奥で、何かのスイッチが正確に噛み合うような小気味よい電子音が鳴った。
直後、俺の視界の右上に、鮮やかな青い文字列が滑らかにスクロール展開された。
ボウッッッ!!
鞘から引き抜く必要すらなく、鞘の隙間と鍔元のルビーから、目も眩むような紅蓮の火炎がブワッと吹き上がった。
重さは微塵も感じない。羽毛のように軽く、腕の延長のように自然に馴染む。
抜刀すると、刀身全体が数千度のプラズマを纏ったかのような美しい光炎の刃となって、周囲の草花をチリチリと熱波で揺らした。
「おおおおっ……!!」
「す、凄まじい……! これぞ真の勇者の輝き……!」
ガウェインたち騎士が一斉にその場に跪き、リナも胸の前で手を合わせて感涙を浮かべている。
「聖剣が……聖剣がレン様を真の主として認め、歓喜の産声を上げておられます……!」
(いや、違うって……)
俺は心の中で激しくツッコミを入れた。
意思がどうとか、魂の選定とか、そんなロマンチックな話じゃない。
(ただのアカウント権限チェックだ)
この剣は、ユーザーが柄を握った瞬間に生体信号と権限テーブルを照合しているのだ。
ガウェインのRoleは『KNIGHT』、リナのRoleは『CLERIC』。どちらもこの剣のアクセス制御リストに登録されていないため、ハードウェア側で通電がブロック(Hardware Lock)され、安全装置が働いて機能が停止した。
そして俺のRoleは『HERO』。要求仕様に完全一致したため、電源バスが即座にオンラインになり、熱干渉の増幅機能がアンロックされた。
ゲームの「勇者専用装備」を、物理的な暗号化ドングルとしてハードウェア実装しただけなのだ。
「――皆様、おしゃべりはそこまでです!」
前方を警戒していた斥候の騎士が、鋭い声を張り上げた。
「前方の演習林より、魔獣の群れが接近中! 数は三……中型魔獣『ブラッドボア』です!」
ガウェインが即座に立ち上がり、長剣を抜いて号令を下した。
「総員、円陣を組んで迎撃せよ! 勇者殿とリナ神官をお守りするのだ!」
演習林の木々を薙ぎ倒しながら現れたのは、体長二メートルを超える巨大な赤黒い猪だった。
背中からは鉱石のように硬質な黒いトゲが無数に生え、爛々と光る赤い目でこちらを睨みつけている。フゴォォッ!と荒い鼻息を吐き出すと、凄まじい地響きを立てて突進してきた。
「突進が来ます! レン様、下がって……!」
リナが杖を構えて叫ぶ。
「いや、大丈夫だ。ちょうど試してみたかったんだ」
俺は前に出た。
突進してくる巨猪の速度は、時速五十キロ近い。普通なら恐怖で足が竦むところだ。
だが、聖剣を構えた瞬間、俺の視界には魔獣の突進軌道が、空気の熱揺らぎの干渉縞としてスローモーションで予測表示されていた。
刀身のルビーを通じて、周囲の熱運動の確率分布データが、俺の脳へとリアルタイムでフィードフォワードされている感覚。
(熱増幅レベル4、コヒーレンス効率+35%――発動)
巨猪が目前数メートルに迫った瞬間、俺は身をわずかに半歩躱し、炎を纏う聖剣を横一文字に薙ぎ払った。
シュバッ……!
手応えは、まるで柔らかいバターを熱したナイフで切るように、完全にゼロだった。
聖剣の刃が触れた瞬間、刀身の超高熱が魔獣の分子結合を一瞬で断ち切り、切断面を炭化させながら通過したのだ。
ズザザザザァッ……!
勢いを失ったブラッドボアの巨体が、二つに両断されて地面を滑り、そのまま炭の粉となってサラサラと風に散っていった。
魔獣を構成していた生体魔力がエントロピーの崩壊と共に大気へと還元され、後に残ったのは、焦げた土の匂いと、急激な吸熱によって冷え切った澄んだ空気だけ。
「…………な」
盾を構えていた騎士たちが、開いた口が塞がらないという顔で固まっていた。
残りの二頭の魔獣も、仲間が一撃で蒸発した光景に恐怖したのか、甲高い悲鳴を上げて森の奥へと脱兎のごとく逃げ去っていった。
「一撃……。装甲自慢のブラッドボアを、撫でるような一閃で両断するとは……」
ガウェインが震える声で呟き、兜を外して深々と頭を垂れた。
「これぞ……これぞ真の聖剣の力……! 我ら近衛騎士団、勇者殿の御力に心より服膺いたします!」
「ふぅ……」
俺は息を吐き、燃え盛る聖剣の火炎を念じて消灯させた。
街道脇の木陰へと歩み寄り、刀身を目の高さに掲げてじっくりと観察する。
刀身の刃先から峰にかけて、肉眼では見落としてしまいそうなほど極微細な幾何学模様が、まるで半導体のプリント基板のようにびっしりとエッチングされていた。
これが、大気中の熱エントロピーを吸い上げ、確率を偏らせるためのバスインターフェースなのだ。
(やっぱり、この剣はただの武器じゃない)
俺は確信した。
(この世界の上空――あるいは観測層のどこかにある『管理システム(Control Layer)』とセキュア通信を行い、特定の権限(Role: HERO)を持つユーザーにだけ特権的な物理干渉を許可するための物理アクセス端末(クライアント・ドングル)だ)
利用規約に同意し、正しい認証キーを差し込んだ時だけ、世界のシステムが「例外的な物理現象の実行」を許可してくれる。
その厳密で無機質な美しさに、俺はエンジニアとしての心地よい納得感を覚えると同時に、世界全体を縛るシステムの底知れぬ巨大さに、静かな戦慄を禁じ得なかった。
「初代勇者様も……きっと、この剣をただの奇跡としては見ていなかったのかもしれないな」
「え? 何か仰いましたか、レン様?」
駆け寄ってきたリナが、心配そうに琥珀色の瞳を瞬かせた。
「いや、なんでもないよ。すごく頼りになる剣だってことが分かった」
俺は笑って答え、聖剣を鞘へと静かに納刀した。
カチリ、と硬質なロック音が草原の風に溶けて消えていく。
この世界が用意した「利用規約」の先に、一体何が待っているのか。
それを確かめるための戦いが、いよいよ始まろうとしていた。




