第7章 魔力ではなく余地
王立魔導院の北端にそびえ立つ『隔離塔』は、本館の壮麗な白亜の建築とは打って変わって、まるで何十年も打ち捨てられた古城のように陰鬱な佇まいをしていた。
外壁の黒ずんだ石材は枯れかけた蔦に覆われ、狭い縦長の窓には頑丈な鉄格子が嵌められている。魔導院の中庭を行き交うエリート魔導士たちも、この塔の近くを通る時だけは足早に視線を逸らし、関わりを避けるように遠巻きに歩いていくのが印象的だった。
「レン様、本当に……本当にオルド先生のところへ行かれるのですか?」
後ろからついてくるリナが、法衣の裾を両手でぎゅっと握りしめ、不安そうに眉尻を下げて囁いた。
「そんなに危ない人なの? 昨日の演習場では、ちょっと口が悪くて変わり者なだけに見えたけど」
「口が悪いだけなら良いのですが……先生は魔導院でも最も危険視されている『禁忌術式研究』の筆頭なのです。神聖なる元素魔法の存在を否定し、得体の知れない数式や奇怪な機械で世界を解体しようとするため、教会からも何度も査問会にかけられていて……魔導院を追放されないのが不思議なくらいでして」
「なるほど。筋金入りの異端児ってわけか」
だが、今の俺にとっては、教会の耳触りのいいお題目よりも、その「得体の知れない数式」で世界を観察している男の言葉のほうが、何千倍も信用できた。
埃っぽい螺旋階段を最上階まで上り詰め、軋む木製の重い扉を押し開けた瞬間――鼻腔を突いたのは、古い紙とカビの匂い、薬品の刺激臭、そしてどこか懐かしい香ばしい苦味の混ざり合った独特な空気だった。
「……うわぁ、これはすごいな」
思わず声が漏れた。
部屋の中は、足の踏み場もないほどの完全なゴミ屋敷だった。
床一面に散乱した膨大な数の羊皮紙、天井まで届く本棚から雪崩を起こしかけている古文書の山。部屋の中央には、真鍮のパイプや水晶のレンズ、得体の知れない歯車が複雑に組み合わさった実験機械がいくつも蒸気を上げて唸りを立てていた。
「いいから入れ。ドアを開けっ放しにすると、せっかくの豆の香りが逃げるだろうが」
書類の山の向こうから、ボサボサ頭のオルドが顔を出した。
昨日の演習場と同じ、薄汚れた白衣のようなローブを纏い、目の下には濃い隈を張り付かせている。彼の手には、ガラス製のフラスコと、真っ黒な液体が注がれた無骨な陶器のカップが握られていた。
「よく来たな、異界の勇者。まさか本当に私の研究室に足を運ぶとは思わなかったぞ」
「先生が『疑問に答える用意がある』って言ったんじゃないですか」
「ふん、社交辞令に決まっているだろうが。……まあいい、そこに散らばってる紙束を適当にどかして座れ。ちょうど南方の交易船から手に入れた『カファの焙煎豆』を煮出したところだ。泥水のように苦いが、頭の錆を落とすには最適だぞ」
オルドから差し出されたカップを受け取り、恐る恐る一口すする。
「……! これ、コーヒーだ」
「ほう? 君の世界にも似たような飲料があるのか。聖環教会の連中は『悪魔の黒汁』と呼んで口にもせんが、徹夜の研究には欠かせん代物でな」 オルドはニヤリと笑い、自らのカップを一気に呷った。
苦味の奥にある独特の酸味と香ばしさ。久しぶりに味わう近代の味に、脳の奥がシャキッと覚醒していくのを感じる。リナはカップから立ち上る真っ黒な湯気を見て「ひ、本当に泥水みたいです……」と顔を青くしていたが、俺が美味しそうに飲むのを見て不思議そうに目をパチクリさせていた。
俺はカップを置き、散乱する書類の隙間からオルドを見据えた。
「先生。単刀直入に聞きます。昨日の演習場で、俺の手の周りが冷たくなった理由――あれは本当に、熱の確率を偏らせた反作用なんですね?」
「おや、まだ確信が持てんのかね?」
オルドは目を細め、実験台の上のガラクタを乱暴に払いのけた。
「では、分かりやすい実験をして見せてやろう。百の数式を並べるより、一つの観測結果を見る方が早い」
オルドが引き出しから取り出したのは、縦横三十センチほどの、漆黒の金属でできた頑丈そうな二重構造の箱だった。
内側には銀の鏡面が張られ、外部の光や音を完全に遮断するよう精密に気密パッキンが施されている。側面には、細かな目盛が刻まれた真鍮製の測定針が突き出ていた。
「これは私が特注で作らせた『二重暗箱』だ。内壁には光も熱も通さぬ遮断術式が組まれている。要するに、箱の中身は外部の何者からも観測されない完全な密閉空間だ」
「観測されない……」
昨日の路地裏での実験が、瞬時に脳裏をよぎった。
「君、その箱の小さな投入口から手を入れて、中でごく小さな光を灯してみたまえ。昨日、街角で失敗したようなやつでいい」
「わかりました」
俺は言われた通り、二重暗箱の丸いゴム孔から右手を差し入れた。
箱の中は完全な闇だ。リナも、オルドも、そして俺自身ですら、箱の中で何が起きているかを視覚で捉えることはできない。
俺は息を整え、意識を集中させた。
「『小光球』」
呟いた瞬間――。
(……っ! 軽い……!?)
驚愕が走った。
昨日、広場で何百人の視線に晒された時の鉛のような重さとは、完全に真逆だった。
演習場や路地裏よりも、さらに遥かに軽い。
意識の力をほんの指先一本分、触れるか触れないか程度に動かしただけで、箱の中の空間がフワリと解き放たれ、完璧に安定した光の球が掌の上に形成されたのが、皮膚の微かな温もりを通じて伝わってきた。
しかも――どれだけ時間を置いても、魔力がほとんど目減りしない。
まるで、一度形作られた可能性の揺らぎが、何にも邪魔されずに永遠にその場に留まり続けているかのように。
「……灯りました」
「そうだろうな」
オルドは手元の計測器を見つめながら、満足そうに頷いた。
「君の生体魔力消費量は、通常の空間で行使した時の約百分の一以下を示している。現象の維持コストがほぼゼロに等しい」
「な……百分の一……!?」
背後で見ていたリナが、信じられないというように息を呑んだ。
「そ、そんな馬鹿な……! 魔法の消費魔力は、術者の魂の格と魔法の規模によって絶対的に定まっているはずです! 箱に入れただけで消費が減るなんて、教会の術式論に反します!」
「反しているのはお前たちの薄っぺらな教義の方だよ、お嬢ちゃん」
オルドは冷ややかに笑い、煙管に火をつけた。
「相馬蓮。この結果を見て、君はどう考える?」
俺は暗箱から手を引き抜き、自分の指先をじっと見つめた。
思考のピースが、猛烈な速度で噛み合っていく。
「……魔力って、エネルギーそのものじゃないですね」
「ほう? 続けてみろ」
オルドが目を細め、身を乗り出してくる。
「もし魔力が、炎や光を生み出すためのガソリン――物理的なエネルギーそのものだとしたら、箱の中だろうが外だろうが、同じ現象を起こすには同じ量のエネルギーが必要なはずです。でも、現実には箱の中だとほとんど消費しない」
俺はコーヒーのカップを指先で回しながら、言葉を選んで紡いだ。
「魔力の本質は、エネルギーの供給じゃない。『確定した現実の拘束を緩め、複数の可能性が重なり合った状態を保つためのバッファ』……つまり、余地なんじゃないですか?」
その言葉を口にした瞬間、オルドの瞳が、爛々とした狂気にも似た光を放った。
「――正解だ。百点満点の回答だよ、異界の勇者」
オルドは立ち上がり、背後の黒板にチョークで殴り書きを始めた。
「この世界は、何千万人もの観測者の視線と記録によって、常に『たった一つの確定した現実』へと強烈に押し潰されている。エントロピーの奔流、現実の固定圧だ。魔法使いが魔力を消費するというのは、炎を作るために燃料を燃やしているのではない。その『現実の固定圧』を力づくで押し返し、『ここなら奇跡が起きてもいい』という微小な可能性の余地を空間に無理やりこじ開けるためのコストを支払っているのだ!」
黒板の上に、複雑な数式と幾何学模様が描き殴られていく。
「だから、誰も見ていない暗箱の中では、現実の固定圧そのものが存在しない。ゆえに、余地をこじ開けるための魔力など一滴も必要ないのだよ。……どうだ? 美しい理論だろう」
「……凄まじいな」
俺は鳥肌が立つのを抑えきれなかった。
ファンタジーの魔法を、ここまで緻密な量子コヒーレンスと観測効果の力学として解体し、説明し切るとは。
だが――その理論が正しいのだとしたら。
俺の胸の奥に、昨夜の聖具収蔵庫での出来事以来渦巻いていた、最も恐ろしい疑問が形を帯びて浮上してくる。
「……先生」
「ん? まだ何かあるのかね?」
「もしさ……空間の一部の余地をこじ開けるんじゃなくて……」
俺は声を潜め、オルドの目をまっすぐに見つめた。
「この世界全体の『歴史の分岐』や『世界線の枠組みそのもの』を操作するような権限を持った人間がいたら……どうなるんですか?」
部屋の空気が、一瞬で凍りついた。
オルドの手が止まり、チョークがパキリと音を立てて折れた。
彼はゆっくりと振り返り、酷く冷淡な、だがどこか嘲弄するような目で俺を見た。
「君、たまに酷く突飛で恐ろしい冗談を言うな」
「え……」
「世界線の枠組みの操作? 並行世界の分岐演算だと?」
オルドは鼻で笑い、折れたチョークをゴミ箱へ放り投げた。
「そんなものは、人間どころか歴代の勇者にも許されていない領域だ。勇者に与えられる権限など、せいぜい既存の物理法則の上で元素を干渉し、聖具と同調する程度のクライアント権限に過ぎんよ」
オルドは窓辺へと歩み寄り、王都の青空を見上げた。
「もし、一個人にそんな『世界線の分岐そのものを切り替える権限(Branch Operator)』なんぞが組み込まれていたとしたら――そいつは勇者などではない。神の座を不正にハッキングした特権アカウント……世界を統括するシステムが犯した、最悪の権限付与事故だ」
「…………っ!」
心臓が、早鐘のように激しく鳴り響いた。
(やっぱり、そうなのか……)
召喚された初日、そして鑑定の儀で見た、聖鏡の最下段の文字列。
あれは、チート勇者としての特別なギフトなどでは断じてなかった。
俺をこの世界に召喚した管理システムが、何らかのインターフェース衝突によって誤って付与してしまった、一般ユーザーに最高管理者権限が漏洩している超弩級のセキュリティホール。
「まあ、そんなバグが存在するはずもないがな」
オルドは窓の外を見つめたまま、自嘲気味に肩をすくめた。
「もしそんな権限を迂闊に行使してみろ。ただでさえ飽和しかけているこの世界の歴史ツリーが、一瞬で不可逆の破滅へと叩き落とされるぞ」
「……そう、ですね。ただの空想の例え話です」
俺は無理に口角を釣り上げ、冷え切った自分の右手をそっとポケットの中に隠した。
知ってしまった。
自分が手にしてしまった力の本当の恐ろしさを。
そして、この世界が抱えている、あまりにも脆く危ういシステムの深淵を。
研究室を辞去し、薄暗い螺旋階段を降りながら、リナが心配そうに隣から顔を覗き込んできた。
「レン様……あのお話、本当にただの例え話ですよね……?」
「ああ。もちろんただの雑談だよ、リナさん」
俺は笑ってみせたが、胸の奥の冷たい塊は消えなかった。
手にしてはいけない管理者権限。
そして、容量の限界を告げる六千二百七十八の残余スロット。
誰にも言えない秘密を抱えたまま、俺はエイドラの青空の下へと足を踏み出した。




